流れる水の中に...雨音

 

 

ハーブの鉢植え。 - 2002年08月28日(水)




鉢植えの苦手な私は 買ってきた鉢植えの植物を
ことごとく枯らし続けているので 
もっぱらの切り花派であったのだけれど
料理に使うハーブ類は 
買うには量が多すぎるし、だからといって乾燥物を使うと
香りもなにも別物になってしまうので
仕方がないから バジルを栽培することにした。

土台が土になっているのではなく、水藻だから水はけがよく
しかし、頻繁に水をやらねばすぐに もたげていた頭を
「く」の字にまげて垂れ下がってしまうので
結構マメに手を入れてる。
植物的に強いから それだけが救いか。

レストランのように1日に沢山の量のハーブを使うなら
買ってきてしまえば済むから手軽なのだけれど
家庭でハーブを使用するのは
料理と並んで手間がかかるから
家庭料理にハーブを取り入れている人は
とてもコマメな料理上手な人だなと尊敬する。


つい先日 友人の部屋に遊びに行ったときに
その場で手早く料理を作ってくれたのだけれど
(とはいえ、ワインのアテの様なもの)
それがハーブをふんだんに取り入れたもので
とても驚いた。
その友人は某新聞社の記者をしていて
休みもままならず 夜帰るころには終電も終わっている頃らしい。
そんな友人が 部屋の小さな出窓を利用して
数十種類のハーブを育てていたのには感心した。

その場で摘み取り 水で洗い ペーパータオルで
一枚一枚水切りをして 料理に取り入れてた。
物凄い感動。

その友人よりも数十倍も自由な時間のある私が
そんなことすらままならないので
ちょっとがんばろうかと思った。


でも私には やはりだめみたい。
たった一鉢のバジルさえ 
さっきまで頭を下に垂らしていたのだもの。










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ほうら また 冬が来るよ。 - 2002年08月26日(月)




わたくしは生命力の漲るものが好きでない。
物も景色も人も。
なぜだろう それは ある種の嫉妬かもしれないし
もしくは それがわたくしを疲れさせるからか。


夏の力強い景色や緑や生き物たちは
それはとても美しけれど あのふてぶてしさが好きになれない。
まるで 我が物のように両手を広げて
大地にしっかりと根づいている。
いやなやつ。


おまえたちはきっと 感傷という言葉をしらないのだろうね。
おまえたちはきっと 屍の上にでも 根を張り巡らすだろうね。
おまえたちはきっと 死に行く者たちを尻目に
新しい芽を 芽生えさせるのだろうね。
単純で 鈍感で 利己主義で。


夏も終わりに近づくと 本当のことをいうとほっとするよ。
おまえたちに射し込む翳りを目にして
嗚呼 とおもうよ。



ほうら また 冬が来るよ。
おまえたちを栄えさせたものが すべてなくなって
裸ん坊になるから

そしたら私はおまえたちと
厚いコートで身を包みながら ようやくお話ができるような
気がするよ。


静かに お話をしようね。

ひっそりと 
ひっそりと。








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凪の海。 - 2002年08月23日(金)




そう それは矢印のように
すべてが私の方向をさし 私へ集まる。
そう それは鎗の先のように 
私をぐるりと とりかこみ 
尖った先端のすべてが 私へ向けられる。

それは 皮一枚外側からの圧力で
締めつけられるから 私は消滅する。



「私の幸せ」というものを追求することが
本当の幸せかと思っていたけれど
いったい 「私の幸せ」ってなんなのか 誰か教えて。
もう そういうことは どうでもよく 感じてきた。
というか そう 考えることによって 
導き出される種類のものでないように思えてきた。


結局 幸せってのは
なんとか最後まで生き延びた後に
最後に残るものの姿を 幸せっていうんだろう。

形なんてないし
それ自身に 感動とか 熱情とか そんなものは存在しない。



ただ 其処に残ったもの だ。



穏やかだ。とても。
夜の凪の海のように。





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水を買う。 - 2002年08月19日(月)



現在 マンション暮らしの私は
ユニバーサルスタジオの工業用水事件から
水道水が気持ちが悪くなり 一度気持ち悪さを感じたら
水道水を口にできなくなってしまって 最近では
近くの店で買うようにしている。

都会の水はマズイ だとか 水道水はカルキ臭いなどと言うけれど
買ってきた水と水道水の臭いを比べても あまり何も感じなかった。
私の臭覚が鈍感なのか。

口に含むと 少し違いがある。
買った水は 少し口当たりが柔らかいというか
甘い感じがする。しかし、微妙。
それほど気になるほどのものかな。

私は臭み云々ではなく
マンションのため貯水タンクと言うものが気持ち悪いのと
例の工業用水が心理的に影響を受けただけのこと。


そう敏感には水の違いはわからないけれど
ガス入りの水の味には違いがあるのはわかる。
ペリエなどよりもサンペレグリノのほうが
私的には硬くて好き。
脂っこい料理には その硬さが脂を流してくれるような
感触がたまらない。


この国に住んでいると 水はタダっていう感覚が
どうも拭えず 2リットルがたかが150円であっても
なんとなく悪い気がする。
誰に悪いというわけでないけれど
なんとなく無駄な贅沢をしてしまうのは何だか罪の意識がある。
とはいえ、化粧品には月に5万や10万使ってしまうのだけど。

化粧品といえば
スイス物が評判がいい。
私もスイス物に変えたのだけれど、変えてから確実に
肌の調子がワンランクアップした。

BAにそれを話すと スイスは水が良いですからね といった。
ということは。
よい水を摂取すると 美しい肌になれるのか。

ハアト


ということで 水を買うのが習慣となりつつある。

やっぱり 味の違いはわかんないけどね。












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鳩 - 2002年08月16日(金)



彼はベランダに住みついている。

はじめて彼と出会ったのは この灼熱の陽射しが
惜しみなく照りつける都会の夏のベランダ。
片方の羽を引きずった彼は そこで不安げに
首をすくませてた。

パンくずを投げると 少し警戒を示した後に
くちばしでつつきはじめた。

片羽を引きずっているから 彼は今 飛べないのだろうと
思った。
だから しばらく 面倒をみてやろうかと思った。

家にある デザート皿にパンくずと 葡萄の実と
小さな水入れをセットし ベランダに差しだしてやると
彼は 軽快に 皿の縁に飛び乗ると
つんつんと パンくずをつつきはじめた。

夏の終わりにしばらく家を空けるので
その間 彼への餌をどうしようかと 少し悩んだ。

無責任に手を差し延べるのは 完全な無視よりも
生き物にとっては もっと罪なこと。

数時間たって カーテンの隙間からベランダを覗くと
やはり彼は其処にいた。


夜になり 辺りが静かになるころ
私はまた ベランダに出ようと 硝子戸をあけると
もう 彼の姿はなかった。
何度か呼びかけてみたが 気配は既になかった。

ほんの少し ほっとした。


朝 いつものように カーテンを開いて
新しい空気をいれようとしたとき
彼はまた 其処にいた。
何処かに隠れていたのか、それとも再び飛んできたのか
それはわからないけれど 
それでも彼は其処にいた。

しばらく彼とは この付き合いが続きそうだなと
私は少しの重荷と
そしてそれよりも多くの くすぐったさを感じていた。




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薔薇屋敷 - 2002年08月15日(木)



子供の頃 
私の住む家の向かいが薔薇屋敷だった。
それは その街にすむ人たちがそう呼んでいただけで
実際には ある商人の屋敷と庭園だったのだけれど
余りにも広い敷地と そして季節になると一斉に
咲き揃う薔薇の花の所為で そう呼ばれていた。

薔薇屋敷はその庭を 低い囲いで取り巻いていたけれど
その囲いの周囲に何万株という薔薇の木が植えられていたため
誰もその 囲いの中に入ることはできなかった。

私の住む家は 三方角の家で 
薔薇屋敷と向き合う2階の先端の部屋は
西に向かって一面の硝子張りであったため
陽の沈む時刻 その部屋で 咲き揃う薔薇の花が
西陽を受けて 美しく照らされるのを 眺めていたものだった。

時が経ち その薔薇屋敷は売却されることになった。
商売には浮き沈みがあるものだし そしてそこも 沈んだのだろう。

薔薇屋敷跡には 幾つもの棟で構成される巨大マンションが
建設されることとなった。
ある意味では 森のようであったその薔薇屋敷がマンションに
変わってしまうことに 街の人たちは皆 戸惑った。
そのいざこざは大人たちの間でのお話。

私は あの西陽に照らされる薔薇群が見れなくなることが
とても残念でしかたがなかった。

薔薇屋敷の主人は 取り壊される少し前に
庭園を街の人たちに開放した。
どうせ 引き抜かれてしまう樹木たちに せめて
皆の家の庭で 花を咲かせてもらおうとでも 思ったのだろう。

そして私も まるで探検をするかのように その庭園に入り込んだ。
そこはとても生茂っていて まるで子供の目にはジャングルだった。
荒々しくたくましい薔薇の木に驚愕したり
整然と並んでいると思われた植物たちは 近くで見ると
伸び伸びとして そして枝は皆 自由なポーズで手を広げていた。
そこで働いていた庭師のおじさんは 
つばの広い麦わら帽子をかぶりながら
黙々と 大切そうに 根を掘り起こし 人たちに手渡してた。

余りにも沢山あったため 一株一株手塩にかけて育てたというわけでは
ないだろうけれども 毎日気を配り 何年をも費やした庭の植物が
自分の手を離れて ばらばらに散ってゆくのは
どういう気分だったのだろうかと 今になったら思ったりする。

とうとう屋敷は取り壊され 工事幕が張られて
数年間 なんとも奇妙な景色を経て 巨大なマンションへと変身した。

もう2階の部屋の硝子窓から 西陽は細長い影をみせるだけで
マンションの裏に隠れてしまったけれど。
窓からみえるのは 何十世帯ものベランダと
そこで暮らす人たちの日常の断片だけで。


あのとき 私が手渡された 深紅の花が咲く薔薇の株は
しばらく私の家の庭で咲き続けていたけれど。



...

カバのぬいぐるみ - 2002年08月09日(金)




まだ 幼かったころ。
灰色の平べったいカバのぬいぐるみを いつも手放さなかった。
それはもともと平べったいのだけれども
眠るときには まるでそれを 枕のように
私の顔の下敷きになっていたものだから余計に
平べったいカバのぬいぐるみは 一層 平べったいものへと
なっていった。

いつも抱きしめていては汚れてしまうものだから
ときどき母は私から取り上げると
洗濯機の中に放り込む。
そうすると 乾いてしまうまで 私は
そのカバと一緒に過すことができないものだから
わんわんと我儘をいって泣きながら 夜も寝ようとしなかったらしい。

さすがに長い間抱きしめていたカバも 
あちらこちらが破れてしまって 中にある綿が出て来ても
手放そうとしなかったから 母は半強制的に
カバを私から取り上げると捨ててしまい そのかわりに今度は
真っ白くて長細いヤギのぬいぐるみを私にあてがった。

何故 母は学習しないのだろう。
私にぬいぐるみをあてがうと またきっと手放そうとせずに
真っ黒に汚れるだろうに よりにもよって真っ白いヤギのぬいぐるみとは。

案の定 その白いヤギは 1年もしないうちに
私の手垢で真っ黒になると 細長かったせいか
胴体の真ん中で 真っ二つにちぎれてしまった。
さすがの私もそれでは気色が悪かったのだろう。
今度はすんなりと ヤギを手放した。


私は小さなときから ひとり部屋を与えられてた。
まだ幼稚園にも上がってないころからだったと思う。
6畳ほどの洋室も 幼い私からすれば 
だだっぴろく 淋しい そして 孤独な空間だった。
ときどき 淋しさに泣きながら 両親の部屋に訪れてた。
するとその晩だけは 母のベッドの中で眠ることを許された。
そうすると不思議に どんなに不安な夜も どんなに恐い夢も
何事もなかったように 消滅してしまってた。

たったひとりきりの夜の部屋で
私が頼りに思うのは その平べったいカバであり
その手垢で汚れた長細いヤギのぬいぐるみだった。
まるでそれらが 私を守ってくれるのだとすら信じていられた。

幼い私には まだ
母と共に眠ることが必要だったのだとおもう。
夜は恐いものでないのだと
暗闇には何も存在しないのだと
そう理解することができるようになるまでは。

カバやヤギは 穏やかだった。
とてもやわらかな質感で とてもあったかかった。
私は母が補うべき その種の保護や穏やかさを
ぬいぐるみで代用していたのかもしれないなと
今になって思ったりもする。


今 この年齢になっても
ひとりきりでは灯を消して眠れないのは
そのときのトラウマかもしれない。






...

J.M.WESTON - 2002年08月06日(火)



彼は何故だか 東北にいた。

「試験の頃は 暑い季節だろうから
東北や北海道の涼しい場所で受験しよう」って
冗談のように話していたけれど
彼の名前を東北財務局でみつけたときには 思わず笑ってしまった。

彼はいつも 真剣なのか 遊んでいるのか
よくわからないポーズで 何事もこなしていたけれど
やっぱり彼のそういうところは いまだに私には理解できない。

現実的な部分と 非現実的な部分の折り合いが
うまくなされていなくて
また そういう部分が 私と彼は似通っていた。


試験を受けると聞いたとき
私は 実をいうと そういう彼を見直したのだけれど
彼は私に「どうせ うかりっこないって 思ってるんだろう」と
悪態を吐いた。
彼の中での私のイメージというのは きっとそういうものだろう。


「ヨーイ ドン」で競争したら 彼はきっと そのピストルの音を
聞いていないようなタイプの人間で
でも、何処かにある 彼の不器用なプライドで
最後まで走りきってきた。
そして今回も そのような結果になった。

本当に お疲れさま。
これで私も 胸につかえていた何かがぽろりと落ちた気分。



不類の靴好きだった彼と交わした約束を果たさねばなあと
思いつつ 連絡を待っている。

なんだっけ。
J.M.WESTONだったかな。


連絡くれなくてもいいよ。

くれないほうがいいかも(笑)












...

贋物 - 2002年08月01日(木)



世界的に有名な画家なのど作品には よく贋作などがある。
オリジナルの作家の筆致や構図をそのままに模写して
更には 書かれた時代にあった混ぜ物を油絵の具に混ぜ込んだり
意図的に下書きをかき潰し その上に模写をしたりなどして
入念にマガイモノを作るようだ。


しかし どんなにオリジナルに近づけようと
どんなに 丁寧にオリジナルを写したとしても
贋作にはオリジナルの持つ輝きのようなものがない。


それと同じように 人にも 本物と贋物がある。


マガイモノは 往々にして 本物の中に紛れている。
偽物の中にあったのでは それがマガイモノだと一目で
感づかれてしまうから。
だからマガイモノは 本物のなかに潜み込む。


贋物という言葉の意味の中に
「見せかけだけで内実のないもの」という解釈がある。
人における贋物とは まさにそのこと。



では 本物の「人」とはどのような人をさすのか。
私が思うには 
「階段を一段飛ばしなどせずに 着実に一歩一歩のぼってゆく人」。
自分の目的に向かい ひたむきに努力することができる人。
そしてそのことにより何らかの結果を得ることができた人。


その目的とはひとによりけり。



で、此処まで至って、私という人間はつくづく贋物だなと厭になる。
本物ぶっているだけで、一皮剥けば、なんにも残らない。
虚飾に長けただけの嫌な女だなと思う。



贋作作家たちは 決してスキルが無いわけでない。
オリジナルに限りなく近いまでに模写するその腕があれば
素晴らしい作家になれるやも。
そう。
贋物たちでも 自分らしい輝きをみつければ 
本物に一瞬のうちに生まれ変わることができる。
でも、なかなか自分らしい輝きってのを見つけるのが難しいんだなあ
これが。



。。。と
美しいドビッシーのピアノの演奏を聴くたびに
ひしと感じる 私でありました。



...




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