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「で、結局なんだったんだ、あれは」 部活終了後、二人は慈郎の希望で駅近くのアイスクリームショップに立ち寄った。なんだかんだで言いなりになっている自分に、跡部は心の中で溜息をつく。そんな心中を知ってか知らずか、慈郎は奢ってもらったアイスを嬉しそうに食べていたが、問われてふと手を止めた。 「なにが?」 「お前のラクガキ」 ラクガキ、の部分にやや力を込めて跡部は言った。 「なにって、なにが?」 「なんで、あんなこと書いたんだよ」 ひどく曖昧な会話ではあるが、大体慈郎は普段からそんな感じであって、今回も、跡部の言わんとすることは理解したらしい。 「あの本てさ、あれじゃん、ぜんぶラブレターみたいなもんだったじゃん」 「…そうか?」 「読んでたら、ちょっとおれも書いてみようかな!って気になってさー」 「ふーん。んで?」 「ん?それでおわりだよ。あとは、さっき言ったとおりー」 「だから、そこでどうして俺の名前が出てくんだよ」 「だっておれ、跡部好きなんだもん」 「…そうか。俺もお前の事は嫌いじゃねえな。けど、それはまた別の話だろ」 「別って?」 口の周りを黄緑色のクリームで汚したまま、不思議そうに小首を傾げる慈郎に、跡部は苦笑した。 「そういう時は俺じゃなくて、女の名前書けよ」 「ああ。だって、いねーもん」 「?」 「跡部よりも好きなこ、いないし」 「ガキだな、ジロー」 跡部が笑うと、慈郎は何度か目を瞬いた後、へへへと笑って頭を掻いた。 「そうかもね」
慈郎は首を傾げつつ、裏表紙の方から本を開いてパラパラとめくった。数ページ進んだところで動きをとめると、片方の手で跡部のニットベストをしっかりと掴んで引き戻した。 「ほら、やっぱり最後まで見てないじゃん!ね、ね、跡部!」 「うるせえな、離せ!のびるだろ!」 「ほらほら〜これ〜」 楽しそうに笑いながら開いて見せたページには、慈郎の緩い筆跡で、見開きで大きく、
あとべだいすき と書かれていた。 「…!」 「これ、跡部が借りそうな本だなあって思ったんだけど。ビンゴ〜!」 「ジロー…お前な…」 「自分で気付いてくれたらもっと良かったけど」 二の句がつげないでいる跡部の顔を、慈郎は再び下から覗き込んだ。 「あー、ひょっとして、拗ねてたんだ?跡部の絵がなかったから」 「ハァ?誰が拗ねて…」 「そっか、ごめんごめん。でも、絵の方はおまけに描いたやつだからさ、機嫌直してよ〜」 「だから、俺が言いたいのはそういうことじゃ…なんか、もう怒ってるのが馬鹿馬鹿しくなってきたぜ」 跡部が溜息とともに歩き出すと、慈郎はぴょこぴょこと跳ねるような足取りでついてきて、横に並んだ。 「で、落書きしただけじゃなくて、ちゃんと読んだのか?」 「え?……うん」 「じゃあ聞くが、どれが良かった?」 それは意地の悪い質問で、跡部もそのつもりで発したのだが、意外にも慈郎は即答した。 「すみれのやつ」 「なんだ、本当に読んだのかよ」 「なんだ、ってなんだよー」 慈郎は軽く頬をふくらませたが、どうやら跡部の機嫌が直ったことに安心したのか、すぐに笑顔になった。 「あんま、よくわかんなかったけどね」 「わかる必要はねえだろ。詩なんてものは…」 「俺も、もっとかっこよく書ければよかったんだけど」 「?何を」 「最後の」 「…」 「でも俺、馬鹿だからさー」 難しい言葉が浮かばなかったのだと、慈郎はちょっと恥ずかしそうに笑った。呆れつつも、そのあまりにも楽しげな表情につられて、跡部も思わず口元を緩めた。 「ま、いいんじゃねえの。お前らしくて」 「それって、やっぱ俺が馬鹿ってこと?」 「さあね。少なくとも、利口な人間はああいうところに落書きしねえな」 「だーかーら、あれは落書きじゃなくて…」 「詩だ、なんてのは俺が認めねえ」 「ひでー!」 そうこうしているうちに、部活の開始時間が迫ってきたため、跡部は少し歩調を速めた。その左腕に、慈郎が後ろからしがみつく。 「あとべー、だいすきー」 「はいはい、わかったよ」 「だから、今日帰りにアイスおごって!」 「意味わかんねえ」 慈郎を左腕にぶら下げ、引き摺るようにして部室に現われた跡部を、滝が「ごくろうさま」と笑顔で労ってくれた。
翌日の放課後、跡部は図書室近くの廊下で、ばったり慈郎に出くわした。ゆらゆらと眠そうに歩いてた慈郎の顔が、ぱっと明るくなる。 「あとべー!今から部活いくの?」 「…」 「だったら、今日は俺も出ようかなー」 「…」 「…?どしたの?」 普段なら「さぼるつもりだったのか」など小言の一つも返ってくるところだが、跡部は不機嫌な様子で押し黙っている。慈郎は下から覗き込もうとしたが、ふいと顔を逸らされた。 「あのさ、もしかして怒ってる?」 「…」 「俺、跡部に怒られるような事、なんかしたっけ?」 不思議がっている慈郎の頭を、跡部は無言のまま、手に持っていた件の詩集で思いきり殴りつけた。 「うお、いってえ!いきなり何すんだよ」 「…ジロー、こいつに見覚えねえか、アーン?」 跡部が詩集を目の前に突き付けると、頭をさすっていた慈郎の手がピタリと止まった。 「あっ!」 「あ、じゃねえぞ。図書室の本にラクガキなんかしやがって。見つけたのが俺だったから良かったものの、どういうつもりだ」 「跡部、見たんだ!」 「だからそう言ってんだろ」 苛立つ跡部とは対照的に、慈郎は悪びれる様子もない。それどころか、さも嬉しそうに満面の笑みである。 「へへー」 「…何ヘラヘラ笑ってんだ」 「え?あれ、そんだけ?」 「あの絵について批評しろとでも言いたいのか?とにかくこれはお前が責任持って返しておけ、いいな」 本を押し付けると、跡部は踵を返して歩き出した。 「ちょっと待ってよ跡部!全部見た?」 「あー、見たぜ。ついでに全部消しといてやったからな、感謝しろ」 「おかしいなー」
つづく
跡部がその本を手にしたのは、二年生の時だった。 初秋某日の放課後、コートの設備点検で部活もなく、これといって予定もなかったため、跡部は図書室に足を運んだ。正直、中学校の蔵書程度では物足りなさも感じるが、逆に家の書斎ではみかけない類いの本もあるので、暇つぶしにはなる。 特に、奥まった場所にある書棚には、跡部が生まれるよりずっと前に発行された黴臭い全集などが置いてあって、そういった本の拾い読みをたまにしていた。 その日も適当に背表紙を眺めているうちに、とある本に目を止め、手にとった。 『ゲーテ詩集』 いかにも誰も借りていなさそうな古い本だった。ゲーテならもう数えきれないほど読んでいるし、ある程度までは原文で読むことも可能なので跡部にしてみれば今更の感がある。だが、こんな本を誰か借りている生徒がいるのだろうかと、そちらに興味を持った。 裏表紙を開いて、ポケットに入っている図書カードを取り出した跡部は、わずかに目を丸くした。カードには、たった一人だけ、しかも意外すぎる名前が記されていた。
二年 芥川慈郎
思わず、跡部はその本を借りて帰った。
「ジローが、ゲーテねえ…」 帰宅した跡部は、自室の机の上に置いた本を目の前にして首を捻った。どう考えても、慈郎がゲーテを読む姿が想像できない。というよりも、跡部は彼が漫画以外の本を読んでいるところなど、いまだかつて一度も見た事がなかった。もっとも、教科書を枕にして、机で眠っている姿はよく目にする。 ひとしきり悩んでから表紙を開くと、想像に違わない匂いが鼻を衝く。わずかに黄ばんだ紙に古い書体で綴られている、それらの詩の殆ど全てを暗記している跡部は、特に目を留める事もなくぱらぱらとページを繰っていたが、ちょうど真ん中あたりで動きをとめ、目を見張った。 「なんだこれは…!」 そこには鉛筆で堂々といたずら描きがされていたのである。小学生のらくがきのような絵だが、それでも描かれている人物が着用しているのは、明らかにテニス部のユニフォームだった。誰が描いたのかは考えるまでもない。跡部は頭を抱えた。 「あの馬鹿何やってんだ!」 さらにページを進めると、どうやら何ページかに渡って延々と描かれているらしい。返却時に図書委員もしくは司書が大体チェックしているはずなのだが、よく見つからなかったものだ。舌打ちしつつ、跡部は抽き出しから消しゴムを取り出した。さすがにこのままにしておくわけにはいかない。 「ったく、なんで俺様がこんなことを…」 改めて見てみると、緩い絵ながらもそれなりに描けているようだ。おかっぱ頭でムーンサルトをしているのは岳人であろうし、その隣にいるのはひぐまおとしのポーズをとっている忍足。その他にも見知った面子が楽しそうに描かれていた。 そのひとつひとつを丹念に消していた跡部は、ふとある事に気付いて憮然となった。 (俺様がいねえな…) 馴染みの二年生部員に加え鳳や樺地といった下級生、果ては監督の榊までいるというのに、なぜか跡部の姿はなかった。描かれていても困るのだが、いなければいないで釈然としない。立海大の丸井(と思われる絵)を最後に、いたずら描きは終わっているようだった。 なんとなく面白くない気分のままその後のページを一枚ずつめくっていったが、そこにはただ詩人の苦悩が記されているだけで、跡部は途中で放り出してしまった。
つづく
hidali
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