KENの日記
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2008年08月30日(土) グルジア紛争関連

グルジアからの独立を望むグルジア国内の「南オセチア」を支援する目的でロシア軍がグルジアに進攻しました。諸外国の非難も何のそのでロシアは南オセチアの独立を承認しました。

このグルジアとオセチアの紛争に関係して、ワレリー・ゲルギエフが8月21日、南オセチアの州都の「ツヒンバリ(Tskhinval)」の州議会ビル前でオセチア支援のコンサート開きました。色々な情報を集めてみると以下のようなコンサートであったようです。

指揮:ワレリー・ゲルギエフ
演奏:マリインスキー歌劇場オーケストラ(全員黒い喪服着用)
演奏曲目
:チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」
:ショスタコービチの交響曲第7番「レニングラード」

このショスターコーヴィッチの交響曲第七番は1942年ドイツのソ連進攻を跳ね返した勝利の記念としてムラヴィンスキーによって初演されました。また同じ年にゲルギエフの師であるイリヤ・ムーシンもタシケントで演奏したという記録があります。

ゲルギエフはオセチア人の両親のもとにモスクワに生まれ、北オセチアの州都ウラジカフカス(Vladikavkaz)で教育を受けました。彼の通ったウラジカフカス音楽学校はゲルギエフの名前をとって改称(the Valery Gergiev Music Academy)したとのことです。因みにゲルギエフの若い奥様もこのウラジカフカスの学生の時に知り合ったようです。

これほどゲルギエフはオセチアに関係が深いのですが、今回の演奏会は少し気になります。ゲルギエフがあまりにも「プーチン」寄りの政治姿勢を明確に表し過ぎていると思えるからです。現在の大国ロシアといえば、資源・軍事力に加えて「マリインスキー歌劇場」を筆頭に大活躍している音楽家が大きな武器になっていると思います。指揮者のゲルギエフ、歌手ではネトレプコ、ホロストフスキーなど世界中で引っ張りだこになっています。このような芸術家はできれば政治色を前に出さないで欲しいと思います。

かつてのムラビンスキー・レニングラードはソ連の体制化において独自の立場を築き世界に例を見ない崇高な音楽を作り出していました。もともと貴族出身のムラビンスキーが共産主義体制化で生き残れたのは、政治との付き合いを上手くこなしていたからです。体制にべったりだと音楽が堕落してしまったでしょうし、体制に真正面から反抗したら「命」がなかったでしょう。そうした緊張が深い洞察を生んでいたのではないでしょうか。



2008年08月29日(金) ズボンプレッサー購入

これまで殆ど毎週週末は妻のワイシャツアイロン掛けの後に、妻にも協力してもらってズボンの「アイロン掛け」をしてきました。一週間とっかえひっかえ穿くズボンは最低でも5本になります。翌週も気持ち良く仕事に出るためには欠かすことのできない作業でした。

少し前から、電化製品が進歩して便利な「ズボンプレッサー」があるのではないか、もし便利であれば買ってみようと考えていました。海外のホテルにはズボンプレッサーが備えられている所が多いです。でも行き帰りの飛行機はカジュアルなズボンを穿いていくことが多いのでプレスする必要がありませんでした。スーツケースに入れていくと「ズボン」よりは「上着の皺」の方が気になりますので、アイロンは結構使いましたがズボンプレッサーは殆ど使いませんでした。

インターネットで調べて見ると、「コルビー社(Corby)」のズボンプレッサーの人気が高いことが分かりました。日本の家電メーカでないところが大きな期待となりました。コルビー社は1930年創立のイギリスの会社で、最初「上着掛け」を製造していたそうですが、上着掛けにズボンプレス装置を追加した現在のようなスボンプレッサーを考案したようです。1960年にはズボンプレス装置を電気式に変えたようです。それ以来ズボンプレッサーでは非常に有名な会社となっているようです。

コルビー社のホームページ

早速インターネットでクレジットカード払い可能で一番安いサイトを探して購入しました。使って見て大変便利なことに驚いています。仕事から帰ってきて脱いだズボンをプレッサーの掛けておくと、翌朝には皺が綺麗にとれてピシっとしています。サラリーマンの強い見方ですね。



2008年08月24日(日) ケルテスの録音

最近指揮者「イシュトヴァン・ケルテス」の録音が発掘されてCD化されています。コロンビアが西ドイツの「オイロディスク社」のテープから貴重な音源を発掘してCD化しているようです。

コロンビアの関連ホームページです。

今年になって発売された以下の二枚のCDを購入しました。

1.モーツァルト:ミサ曲 ハ長調 K.317「戴冠式ミサ」
2. ハイドン:交響曲第104番「ロンドン」 *
イシュトヴァン・ケルテス指揮、ウィーン交響楽団、ウィーン楽友協会合唱団、エディット・ガブリー(ソプラノ)、ヒルデ・レッスル=マイダン(アルト)、ヴァルデマール・クメント(テノール)、オットー・ヴィーナー(バス)、バンベルク交響楽団*

1. モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.314
2. ハイドン:協奏交響曲 変ロ長調 Hob.I−105
イシュトヴァン・ケルテス指揮、バンベルク交響楽団、スザンネ・ラウテンバッハー(ウ゛ァイオリン)、ウルリヒ・コッホ(ヴィオラ)、ペーター・シュヴァルツ(チェロ)、ヴィンフリート・リーバーマン(オーボエ)、ハンス・ベーア(ファゴット)

両方とも非常に清冽でケルテスらしい素晴らしい演奏です。モーツアルトの得意なケルテスだけに「戴冠式ミサ曲」と「協奏交響曲」は嬉しい限りです。「戴冠式ミサ曲」のソプラノを歌っている「エディット・ガブリー」はケルテスの奥様であるとのこと。録音の時にケルテスは32歳ですから、奥様も多分その位な年齢で若いカップルの演奏だったのだと思います。

1973年4月16日、ケルテスはイスラエルの海岸で高波にさらわれて亡くなりました。その時の事情を少し詳しく知ることができます。実は日本人バス歌手の岡村喬夫さんがケルテスの遭難の現場に居合わせていました。そのことが岡村さんのホームページに抜粋されています。

岡村喬夫さんの関連ホームページ

ケルテスが亡くなって35年になりますが、このように新しい音源の発掘があり、限り有るとはいえ素晴らしい演奏が紹介されることは非常に有難いことです。今後も発掘を期待したいものです。



2008年08月18日(月) Subhash Chandra Bose 64回忌




今日8月18日は、スバーシュ・チャンドラ・ボースの64回忌です。戦後ずっとボースの遺骨を安置してきた杉並区の「蓮光寺」において法要がありました。昼から休暇をとって妻といっしょに参加してきました。今年は盆明けの月曜日という関係もあってか、一般参列者特に外国人の参加が少なかったようです。今回3回目の参列なので大分要領が分かってきました。更に今回受け付けで頂いた「ネタジと日本人」という出版物でこれまでの歴史が大分分かってきました。




この法要は「蓮光寺」様が主催されていますが、ボースに縁のある方々で組織された「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー(アカデミー)」というが協力して執り行われています。このアカデミーは第二次世界大戦中に「ボース」を支援した日本軍の方々及び、ボースによって派遣されたインド軍人留学生を日本でお世話した方が組織されたものです。しかし当時を知る関係者が亡くなったり病気になったりして、活動は次第に縮小してきているようです。実際嘗て運営されていたホームページも更新が無くなり、記事だけが検索に引っかかる程度になっています。

今回はインド大使館から次席大使が参列されました。インド政府の公式な見解はともかく、日本に派遣されたインド政府の代表として暖かい挨拶をされました。また日印協会の方が多数参加されたようです。これは発展するインド経済が日本にとって非常に重要になってきていることの証だと思います。蓮光寺のある杉並区長も参加され、自治体としてインドとの繋がりを深めているようです。

法要の後は恒例になっている茶話会にも参加してきました。これは色々な方の挨拶があったり、偶然に近くに座った方々と話ができる非常に貴重な機会です。今日もボースに直接関係のあった91歳になられる方の挨拶もありました。ボースと縁のある方々が非常に高齢になられていることが非常に心配の種です。近くに座り話ができた方はお二人。「インド独立の志士と日本人」と言う本を書かれている「原」さん。そして、画家のお父様が絵の売上金をボースに寄付したことでボースと縁があったというデザイナーの「松本」さん。原ささんは前から本を読んでいて共感するところが多く面白い話を聞くことが出来ました。

こういう集まりでは「サラリーマンの名刺」は全くと言っていい程価値がありません。私の立場は「会社の都合」でたまたまインドに住む機会があり、そこでインドの人達と知り合い、インドの歴史を日本と関係から考える機会があったということだけです。インド仏教と日本仏教、ヒンズー教の日本への影響、拝火教社会のこと、そしてインドの独立の歴史(植民地支配)と日本の歴史などを素人として考えてきたということでしょうか。興味をもって少しづつ調べていくと、偶然ですが様々な人と「関わり」が出てきます。その関わりがどのように発展していくか。これも興味深いものです。



2008年08月15日(金) 図書館へ

さいたま県立図書館で取り寄せをお願いしておいた「本」が届いたとのメールがあったので、昼から行って閲覧してきました。翻訳している「キラーリ・クロッシング」には「シェリー」を始めとして多くの詩が引用されています。作者のスリヤクマランさんはイギリスに留学していた頃にイギリス詩特にシェリーを勉強したようです。「キラーリ・クロッシング」の翻訳の仕上げとして、小説に登場する「詩」の訳文を推敲しようと「詩集」を借りたのでした。

さいたま県立図書館は、浦和・熊谷・久喜の3つの図書館によって構成されています。そして各図書館の収蔵図書は原則として以下のようになっているのです。

   浦和図書館 :社会科学、産業
   熊谷図書館 :総記、哲学、歴史
   久喜図書館 :自然科学、技術、芸術、言語、文学

従って「詩集」は殆ど全てが久喜図書館に収蔵されているので、インターネットで注文して「浦和」に持ってきてもらって閲覧することとなります。シェリー詩集の中で、私が持っている新潮文庫以外の5冊と、ダンテの新曲(煉獄)の6冊を閲覧しました。

キラーリ・クロッシングの作者のスリヤクマランさんはシェリーの詩から以下の詩の一部分を引用しています。

   「ひばりに寄せて」
   「おじぎ草」
   「月」
   「ヘラス」から最終のコーラス

そのほかの詩人では次の作品からの引用があります。

   「早春」    ワーズワース
   「江雪」    柳宗元
   「神曲」    ダンテ・・・煉獄編冒頭
   「ルバイヤート」ウマルハイヤーム

有名な詩もあれば全く日本語訳のない詩もあります。今回ダンテの「神曲」を始めて手に取る機会がありました。14世紀初頭に書かれた詩集ですがとんでもない作品であることを知りました。ルネサンスの先駆者として聖書とかギリシャ・ローマ文学をふんだんに引用していますから、内容を把握するのは相当な文学的な素養を必要としますね。

「ルバイヤート」も今回の小説翻訳をきっかけに知りました。作者のウマル・ハイヤームは11世紀のペルシャの詩人です。数学でも知られた人物です。彼が活躍した時代はイスラム教が伝わってから月日が経っていなくて、まだ色々な宗教が現実に活躍していたようです。「ルバイヤート」にはゾロアスター教のことも沢山出てきます。文芸が盛んで医学・数学が発達していた11世紀頃のペルシャを想像すると大変面白いです。ギリシャ・ローマの文化を吸収した中東の人々(イスラム出現前は基本的にゾロアスター教)が、イスラム教の影響下で世界的な文化を花開かせたと言えるからです。




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