Miyuki's Grimoire
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2005年08月31日(水) 極楽浄土

先週、青森恐山に行って来た。イタコや死者の霊がいる山として知られていて、こわい場所という印象があるかもしれないが、実際に着いてみると、山の上の聖地といった感じで、山も谷間の湖も、たいへん美しい場所だ。人も少なく、シーンと静まり返った空気はまるで浮世離れしていて、結界が張られたように波動が高い。ここはあの世、まさしくあちらの世界といった印象だ。

このあたりでは「人が死んだらお山さ(恐山に)行く」という、古くからの言い伝えがあるそうで、恐山は土着信仰の中から生まれた霊場だ。そんなお山に、菩提寺はあとから出来た。巨大な菩提寺のなかに山があるという造りになっていて、一体化してはいるものの、山とお寺は別物で、まったく違うエネルギーの中で共存しているように感じた。山を一回り歩いてみると、岩山にわき出している温泉と硫黄ガスが浄化のエネルギーを出しており、山は素晴らしく清められている。まるで極楽浄土という雰囲気そのもの。美しい湖の砂浜は、極楽浜と呼ばれている。観光客も少なく、とても静かで居心地いい。瞑想するには最高の場所だ。お寺には宿坊があり、わたしはこの波動の中で過ごしたかったので、宿坊に泊まることにした。温泉も魅力的で、宿泊客はわたしを入れてたったの4人だったので、いつ行っても大浴場も外の湯小屋も独り占めだった。

お寺の早い夕食後、まだ明るかったので山で瞑想し、宿坊に戻ると、ちょうど講話の時間ということで、ドアが開いていたのでなんとなくホールに入ってみた。誰もいない。そこへ紫色の袈裟を来た寺のお坊さんがやって来た。わたしは、一人で講話を聞くことにした。

「大祭の時は、行商みたいな大きな風呂敷や、リュックサックをパンパンにして、お年寄りたちが山のような供物を持ってきて、山に置いて行きます、、、クッキーにおせんべいにチョコレート、お酒やジュース、洋服や、遺影なんかもあります、、、あと、お人形、亡くなった娘さんの嫁入り人形なのか、さすがに人形は、、、(笑)霊が汗をかくってんで、タオルを木に結んでいくんですけど、木が遠くからみたら真っ白でまるで幽霊の白樺で、、、それらを全部、私たちがまぁ処分するんですが、、、焚き上げるわけですが、それが1回や2回じゃすまないのでこれが大変なんですわ」

やっぱり。山で感じたとおり、土地の人の信仰とこのお寺は、エネルギーとしてはまったくつながりがないようだ。お坊さんは続ける。

「大祭の時はね、イタコが外で営業してます、、、これが行列の出来る人とまったく出来ない人がいまして(笑)、、、ある訪れた人が、いまのはまさしく自分の父親だったと言って泣いたとか、そんな話もあります、、、いえね、わたしは別に霊魂があると言っているわけではないんですよ、ただそういう事実があったと言っているだけです、、まぁ、イタコも人が来ないと言葉は悪いが商売にはなりませんから(笑)、、、いまどきは、テレビとかで細木某とか、俳優の丹波某とか、スピリチュアルカウンセラーっていうんすか、江原某という人が霊魂についていろいろ言っていますが、みんな生きている人間がそう言っているだけですね、、、だって、死んだ人が喋るのを、これは誰も聞いたことがないんですからね、、、クックック(笑)、禅宗では、霊魂があるとかないとか、そういうことを論じること自体が無意味だと言っているんです、、、そんなことよりも、いまの人生をよりよく生きるほうが大事だ、と」

扇子を開いたり閉じたり叩いたりしながら落語調で話すので、なんとなく、ネタを聞いているようだった。さらに話は続く。

「人間というものはですな、、もともと人間の本質なんてものは持って生まれてこないんじゃないかと思いますね、、、インドでオオカミに育てられた少女がいたんですが、オオカミに育てられたら人間はオオカミになるんです、人間ではなくなくなってしまうわけです、オオカミそのものです、、、人間は人間の中にいて初めて人間になるということですな、、、」

「はぁ、そうなんでしょうか」思わず聞いてみる。

「そう、人は、人生の目的とか自己実現とか言っていますけれど、人間は親を選んで生まれることもできなければ、生まれる前の記憶もない、それでいて人生の目的と言ったって、どこに根拠があるんでしょうか、、、もし人生の目的があるというのなら、生まれる前の記憶を教えてくれないと、これは実に狡いというものです、、、あなた、そうは思いませんか?」

ちょっと引っかかったので、再び聞いてみた。

「あの、、人間は、人間の本質を持って生まれてこない、とおっしゃいましたか? 仏教ではそう教えているのですか?」

パチンと扇子を叩く音がした。お坊さんが答える。

「こう言っちゃなんですが、仏教というのは、ある意味とてもネガティヴなんですよ(笑)、、、人間が人間としての本質を持って生まれてきているとしたら、母親が子供を殺したりするようなことは起こらんでしょう、、、母親は子供を生んで、子供を育てていくうちに母親らしくなるのであって、母性本能というものがあるわけじゃないんです、、、人間は人間のモラルの中で生きていくから人間になるのですよ」

考える間もなく、言葉が口をついて出た。

「あの、、わたしは親も選んで生まれてくるし、魂もあると思うんです」

「でも、それを証明することはできないでしょう、霊魂があるなら、あの木に結んだタオルは汗で濡れているはずです、、、霊魂があるのかないのか、なぜ人間が生まれる前の記憶を持っていないのか、そのようなことを人間が考えたり、論じたり、教えたりすることは、これは不可能というものです、、、あのタオルで霊魂が汗を拭いていると思いますか? いくらなんでもそれはないでしょう(笑)」

お坊さんは笑っていた。わたしは言った。

「それは・・・ある、と思います。生まれる前の記憶はありません。生まれるときに全部忘れているから」

「では、誰がそれを教えてくれるというのです?」

「人から教わることではない、自分で見つけるのだと思います」

「ほう、、、信仰深いんですなぁ、、、オッホッホ(笑)」

いろいろな意味でとても考えさせられる話だった。

オオカミは家畜を食べるからと日本でもアメリカでも駆除された動物で、日本では絶滅してしまった。オオカミは害である、オオカミと人間は意志の疎通ができない、オオカミは人間を襲い、家畜を襲う、愛のない動物だ、と人間に憎まれていたオオカミが、実際は人間の子供を自分の子供と区別せずに育て、オオカミに育てられた少女は、四つん這いで人間よりも速く走ることができ、オオカミと同じものを食べ、オオカミと一緒に寝て、オオカミのように考え、オオカミと意志の疎通ができたのだ。「人間の本質」という言葉は人間らしいという意味だろうが、何をもって人間らしいと言うのだろう。それは人間はこうあるべきという概念から来ているのではないか。それらはすべて、人間の作った制限であり、人間はそれを超えることができるということ、そして、制限をなくしていけばいくほど、本来、人間に不可能なものは何もないということがわかってくるのではないだろうか。

人間の世界には、家や、時代、文化、宗教、民族的な背景から、地域や組織、国、世間一般の価値観、様々な概念などが複雑に絡み合い、いろいろな制限、習慣、ルールが存在している。それらは、心のなかでひとつのパターンを作り、心の動きはその枠からはみ出るということはほとんどできなくなっている。自分は自分だけの世界、宇宙を創り、その中で生きているのである。しかし、人間は一人で生きて行くことは出来ない。自分の世界、宇宙のなかで生きて行きながらも、他人が作った世界、宇宙と交流しながら新しい世界、宇宙を日々創造しているのだ。お互いのエネルギーがどれだけ深く交われるかは、自分の世界、宇宙へのこだわりをどれだけ手放せるかということに関係している。わたし自身を振り返った時、こだわりや執着をどれだけ捨てて無になれるのか。お坊さんは、わたし自身の心の映し鏡を演じてくれたのだと思った。「真実はお前の心の内側にある、それを育てて行くのもお前だ」、大いなる自己が心の中から訴えていた。

人は自分以外のいろいろなエネルギーを身につけて生きている。国や社会、組織や、家、恋人などなど。そう考えると、誰にも、何にも頼らず、依存せず自分は自分の足でしっかり自分の道をゆく、生きてゆく、自分はいつどんなときも自由なのだと言えるように、心を解き放っていこうと思った。



2005年08月19日(金) ヌヴェールからの手紙

本棚を整理していて、ふと眼に留まったポストカード・ファイルのなかから、1枚の美しい絵はがきが出てきました。

2001年にフランスに一人旅をしたとき、ヌヴェールの修道院に泊めてもらったのですが、そのお礼にわずかばかりのお金を郵送でお送りした後、修道院に務めていらっしゃったシスターからお礼の絵はがきをいただいたのでした。

「みゆき様
お手紙ありがとうございました。そして宿泊費にとお送りくださった000フランは確かに受け取りました。お書きくださったように半分を宿泊費に、そして残りを聖堂のための献金にと渡しました。ありがとうございました。

ヌヴェールでの短い時を「心に残る恵みの時」とお手紙にありましたが、お書きくださったように、愛されている者として・・・愛する者となること・・・祈りのうちに「愛とは・・・」の問いかけを心に投げかけ、その答を語りかけてくださったのも「愛」そのものでいらっしゃる神が、あなたをどんなにか愛しておられるかの証です。

父である神に「愛された者である」あなた、そして私、互いに愛の道を歩み続けましょう。

お手紙の中にベルナデッタの聖堂よりも、ベルナデッタが最初に葬られた庭の小さなおみ堂に心ひかれたとありましたね、そうです、聖書の言葉に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、ただ一粒のまま残る、しかし死ねば豊かに実を結ぶ・・・ヨハネ12/24」とあります。

実を結ぶとは、それはあなたの内に活きていること、ベルナデッタはあなたのなかに生きています!! わたしはあなたのこの受け止め方に感動しました。あなたが心の奥深くに強い感動と愛を憶えて帰られたこと、ほんとうに嬉しく思います。

12月26日にパリを経って、日本に3週間の予定で帰国することにきまりました。東京は目黒ですから一度お電話差し上げますね。

良いクリスマスをお迎えなさいませ。

お元気でね!!

Sr.Yasuko」

このはがきを読んで、4年前のフランスの旅を思い出しました。聖母マリアの奇跡を見たくて、ルルドの泉に行き、その帰りに、ルルドで聖母のご出現を受けた少女ベルナデッタが暮らしたフランス中部の田舎町、ヌヴェールの修道院を訪ねたのでした。

この旅の様子は、以前、写真をHPで紹介していました。そのなかでコメントしたように、わたしはキリスト教会が言う「罪」という言葉の概念がわからず、シスターに「罪とは何ですか?」と尋ねたのです。するとシスターはこう答えました。

「罪とは、愛さないことです。愛しても、愛しても、まだ足りないのです」

奪うことや、嘘をつくことや、人を傷つけることや、怒り自体が悪いのではなく、ましてやそれをする人が罪深いのでもなく、すべて、愛が足りないから起きるのであり、世界が平和になるには、ただ、愛するだけで良いのだと彼女は説明しました。それは、生涯をかけて神に尽くし、奉仕する人の言葉でした。記憶や知識からではない、本物の経験から、この世は愛で創られていることを熱心に語るシスターの思いは、深い内的な世界からまっすぐに天に向けられており、その清らかな道筋には光がいっぱいに満たされているのでした。

人生のなかでたったの1日、遠い国の空の下で偶然に出会い、別れた人の言葉や優しい態度が、いまでも美しい映像としてよみがえります。

日常の生活のなかで、いろいろな否定や罪悪感や怒り、そして恐れに出会うことがあります。けれども、それらを変えて行けるのは愛だけだと、もう一度思い出したいと思います。この世が愛で創られているのなら、すべてのものに愛は浸透しているはずで、もしそれらが感じられないのなら、その力は無視され、単に素通りしているだけということなのでしょう。もしこれを理解して、自分のなかに受け取ることができたら、それ以外に人生でするべきことは何一つないとさえ思うきょうこの頃です。




2005年08月13日(土) クリスタル・グリッド瞑想会・報告

ヒーリングルームをオープンしてから、様々なクリスタルのワークを行なっています。きょうは、クリスタル・グリッドの瞑想会の報告をしたいと思います。

まず最初に、集まったメンバーで、最近もっとも気になることをテーマに話し合いました。家族のこと、会社のこと、いろいろな話題が出ましたが、共通している思いは、自分が属している場所になんらかの不調和を感じている、そして、その不調和を変えていきたい、もっと調和した世界にしていきたい、ということでした。

まず、不調和という現象は、不調和を感じる心が生み出す現象でもあります。「エメラルド・タブレット」にも書かれているように、この宇宙には「上にあるが如く、下もかくあり」という法則があり、外側の世界と内側の世界は同じものであると捉えることができます。霊気療法の創始者である臼井博士も、鞍馬山で瞑想し霊気を授かったとき、大宇宙と小宇宙の関係を悟ったと言われています。大宇宙のバランスを取っていくためには、小宇宙、つまり自分自身の心と身体のバランスを取らなければならないと気づき、病気や外側に起きている現象は、自分の心と身体の状態を調和させていくことで変えていくことができると発見したのです。

では、わたしたちの回りに見えている不調和には、どのような自分の心の不調和が反映されているのでしょうか? 集まったメンバーでそれぞれの状況と、自分の気持ちを整理して話してみました。すると、不調和の原因と思える人物に対して、勇気を持って、自分の本音や正直な気持ちを伝えてこなかったこと、相手を傷つけることも、自分が傷つくことも恐れて関わることを避けてきた自分の心の弱さがあることに気づきました。

この時点でテーマは正直であること、となるように見えましたが、さらに深く話していくと、私たちの過去の経験のなかに、組織や目上の存在に対して、きちんと自分の意見を言ったことがあり、決して私たちは弱いのではないということがわかってきました。となると、ここで問題になるのは、自分が弱かったから、パワーがなかったからではなく、本来持っているはずのパワーを出していない、使っていないということです。トラブルになるのを避けて、その場をいい顔してやり過ごしてしまったり、感情的になってしまったり、苦手な人と正面から向き合って来なかったことが、不調和を生み出した原因となります。

そこで、テーマは「真実ありのままの自分を100%表現する」「ポジティヴな態度で人と関わる」に決定しました。

私たちの心は潜在意識でつながっています。ある意味で、ひとつの心を共有しているとも言えるのです。ある人に対して否定的な思いを持つ時、その思いは相手のエネルギーの場のなかに入っていき、その人の心に影響を与えていきます。たとえば、神経質で怒りっぽい人が近くにいたとします。その人に対して「この人はまた怒って嫌な態度を取るに違いない」と思うと、その思いは相手のエネルギーの場に影響を与え、私たちが思ったとおりの行動を取らせてしまうのです。怒りや恐れなどの否定的な思いに捕らわれている人の心は、深いところで光とのつながりがないため、高次の意識になりにくい状態になっています。そのため波動が低く、簡単に他人の影響を受け、他人が期待する役割を演じてしまうという仕組みです。

反対に、そのような相手に対してもポジティヴな思いを持って接すれば、同じように相手のエネルギーの場に影響を与え、怒りや恐れを和らげ、心を開く方向へ持って行くことができます。

わたしたちは、相手のためだけでなく、自分たち自身がポジティヴでいるためにも、ポジティヴな祈りのグリッドを作ることにしました。


中央にはクリスタルの玉を置きます。創造の源のエネルギーであり、純粋で清らかな心の中心と見なします。これがわたしたちの目指すものです。そしてその回りにアクアマリンを置き、私たち自身の心にある弱さや、不正直さ、そして否定的な相手への思いを水のエネルギーで流していきます。そして癒しのペリドットで、自分の内面の強さを引き出すパワフルなインディゴトルマリンを囲んでいきます。その回りに優しいピンクのエネルギーを配置し、自己愛(ローズクオーツ)と心のなかのもやもやを吸収してくれるモルガナイトやグリーントルマリンを次々に置いていきました。そして、いまの自分にとって可能な限りの高次の視点を持ち、スピリチュアルな意識を保つためにラリマーを、心を強く保つことをサポートするためにアメトリンの原石を、私たちの道を示すために、ブッダの形にカービングされたトパーズを置いていきます。ホイール状になったグリッドはどんどん広がっていき、6つのヒマラヤ水晶と、魂に光を与えるカルサイトの玉を置いて、完成です。
(*これらのクリスタルの意味は実際に使用したクリスタルのエネルギーであり、一般的なものではありません)






私たちはこのクリスタルの大きなホイールと共に瞑想し、このエネルギーと一体化していきます。まずはしっかりと天と地の光を呼吸で取り入れ、自分自身が光とつながります。そしてその光が全身を満たすのを感じながら、ハートチャクラを開いて、他をゆるし、認める波動をどんどん広げていきます。自分の行ないや、言葉や、思いの波動を通して、その素晴らしい光が外側に流れ、自分の運命を最高のものへと開いていくよう祈ります。また、その光が周りの人たちのエネルギーの場にも自然に浸透していき、その光に触れた人たちも、その人たち自身の内なる光とつながり、その人にとっての最高の可能性が開かれるようにイメージし、エネルギーをセットしていきます。この瞑想のなかで、自分のエネルギーと周囲の人々のエネルギーを霊的な次元で交流させ、現実のなかで調和を生み出すことができるのを私たちは感じました。

「パワー」や「ポジティヴな態度」と聞くと、真っ先に思い浮かぶのは、オレンジや濃いレッドなどの色のクリスタルですが、そういった現実的な意味での肉体のパワーではなく、必要だったのは、内なる光です。出来あがったグリッドを見ると、実に淡い、ペールのパステルカラーがほとんどでした。すべての人の心の内側のエネルギーには光がたくさんあり、光を重ねていくと透明になっていく、このことがクリスタルを通じて、理解できたのでした。これこそが、光、そう思いました。

また、次の機会も、新しい発見と共に光のクリスタル・ホイールを作ってみたいと思います。参加してくださった方、共に体験をシェアしてくださり、ありがとうございました。心より感謝致します。*^^*


*ワークの内容は、参加者の許可を得て掲載しました。またこのグリッドは3日間保存されます。


2005年08月09日(火) 美の呼吸

きょうは、わたしが雑誌記者時代にお世話になったカメラマンの恩師のお見舞いに行って来た。リウマチで身体の痛みを訴えて、2週間ほど前から入院している。久々に会う恩師は髪は白く薄くなったものの、相変わらずの江戸っ子ぶりで、「よう!」と笑顔で迎えてくれた。75歳になった今、現役は引退しているが、現役時代ロック界では「世界のK.H」と呼ばれ、彼を慕うアーティストは多かった。つい先月も、アメリカの某有名バンドがプロモーションで来日することになり、写真を撮ることになっていたと聞いてビックリした。もちろん、ご指名だ。

来日の近くになってリウマチが痛み始め、取材をキャンセルしようとしたところに来日が延期になり、ちょうど良かった、と笑っていたが、さすがだわ、とわたしは思った。

この恩師と一緒に働いていた頃、何度となくミラクルを目撃した。どんなに時間が足りなくても、彼は素晴らしい写真を撮った。コンサートの写真でも、多くのカメラマンが、許可された頭3曲の撮影時間の間にカメラを何台も駆使して何本ものフィルムを撮りまくっているとき、彼はさっさとベストショットを撮って、1曲目が終わる頃にはいなくなっていることもあった。どんなに気難しいアーティストでも、彼のカメラの前に立つと、なぜか、とても自然な顔になり、心を許して写真を撮らせるのだった。楽屋裏だろうが、廊下だろうが、屋外だろうが、どんな状況でも、絶対に外さない、しかも、たった1枚の写真の中に、まるでマジックとも言えるような、誰も見たことのないような、そして本人でさえも知らない、その人のもっとも自然で内側から輝くような表情を見事に切り取るのだった。キレイな、カッコいいキメ写真を撮るカメラマンは多かったが、彼の写真は、表情の中にその人のドラマをしっかり捉えながら、年代もののワインみたいに芸術的で洗練されていた。

それをミラクル・ショット、とわたしは呼んでいた。この人の手にかかると、誰でもが本当に素敵に映った。わたしが写真を撮ってみたいと思うようになったのは、そんな恩師の写真をたくさん見ていたのがきっかけだった。どんな人にも、そして人生のどんな時でも、人間の中にはなにかすごい力があるのではないかということに、私は気づき、写真を見るたびに心が打たれるような気持ちになった。書くだけでなく、撮ってみたい、そう思うようになったのはわたしにとって、とても自然だった。恩師と同じメーカーの一番安いカメラを買い、写真を勉強したいから教えてほしいと頼んだのだった。

勉強、といっても、私が自分のカメラを持って現場に行くようになった以外はなにも変わらなかった。いつものように機材を一緒に運び、インタビューを終えて撮影時間になると、わたしはテープレコーダーを置いて、カメラを構え、恩師がカラーで撮影を始めたら、わたしも横からモノクロで撮影した。そうしたことを何度か繰り返しているうちに、だんだんとわかって来た。恩師は相手と呼吸をあわせる。自分の呼吸ではなく、相手の呼吸で撮るのだった。輝く瞬間を撮ろうと待ち構えたり、やたらに撮りまくっているわけでははなかった。ただシンプルに、心地よい調和したエネルギーの中で無駄なくシャッターを切っていた。この空気のなかで、相手は心地よく振る舞うことができ、自然に素顔が出て、その時のその人自身を撮らせるのだった。

撮影が終わった後、口が悪い恩師はよく「なんでぇ、アイツ、てんでへんなやつだったな! でも、なかなかいい顔しやがったな」なんてことを言っていた。これは大成功、という意味で、わたしはこんな言葉を聞くのがとても嬉しかったものだった。

久々に会った恩師といろいろな話をし、いま、自分が石の写真を撮っていることを話すと、「石はいいよなぁ、汗はかかねぇし、何時間撮ったって文句ひとつ言いやしねぇだろ」と笑った。たしかに、石は動かないし、話さないけれど、わたしにとってはいろんな表情があって、どこからどう撮ると一番美しく見えるか、どこから光が当たるときれいか、カメラのファインダーをのぞきながら、わたしは石のいろいろな顔を見て、その中でもっともいい顔を見つけてシャッターを切っている。それは、そのものの本来の姿を見るために自分のエネルギーを相手に合わせていくということであり、相手が人間だろうと石だろうと、あまり変わらない。かつて、この目の前の恩師が無言で教えてくれた、あのミラクル・ショットの呼吸が、いまのわたしの中にも生きていることを感じた。そして、それは写真を撮る時だけでなく、日常を通して無意識に自分のエネルギーを広げて行くのに役立っていることに気づいた。そのことに、わたしは感謝を述べた。

「人間はなぁ、頼まれるうちが華なんだ。俺も写真撮ってくれって、頼まれるうちが華だよな。何も頼まれなくなったら、ただ食べて、排泄して、呼吸しているってだけで、これは生きてるとは言わねぇ。そういうのは死に損ないって言うんだ」そんな話をしながら、別れ際に握手をしようと恩師の手を握った。すると、恩師は力をこめて両手でしっかりとわたしの手を握り返し「じゃあ、頼んだよ」と言うので、思わず「なにを??」と聞いたら、「元気で生きろってことだよ!」と言われた。

自分がどうしたい、こうしたいとか、自分の使命は何か、何をするべきかなんて考えるより、自分がいま出来ること、持っているツールのすべてを使ってベストを尽くし、ただ、シンプルにやるべきことを全うすること。ただ、やる。やるべきことをやる。これが世界に対する最上の奉仕なのだろう。はい、元気で頑張ります。頼まれるうちは!
 
恩師が撮影した写真の中でもわたしがもっとも大好きなこの奇跡の1枚を掲載します。見てください。




△ジョン・レノン&ポール・マッカートニー。1967年ロンドン、アビイロード・スタジオにて。photo by Koh Hasebe


2005年08月02日(火) 魂のアファメーション

GRACE 優美:「私は宇宙の優美の中に生きている」

優美とは、宇宙の霊的な、偉大なる力が、自分のなかに滞りなく流れている優しい状態のこと。無理なく、自然に、遮るものが一切ない状態。優しいエネルギーが満ちている美しい瞬間のこと。

BEUTY 美:「私は宇宙の美のなかに生きている」

美とは、優しく流れて来た宇宙のエネルギーに対して、顔を向けること。宇宙に浸透する霊的な力に気づき、それを受け入れようと向かい合うこと。ここで初めて人は宇宙のエネルギーと対面し、その偉大な力はただ優しく流れるだけでなく、光となる。そして自分の内側にあるものとそれを混ぜ合わせる。

美、美の表現とは、創造主への賛美である。

ACCEPTANCE 受容:「私はほとんどのものを受容している。私はすべてを受容しようと努めている」

受容とは、何の情報も概念も持たずに、現れてくる現象、現実をそのまま見ること。赤ちゃんのような心。何も知らなければ判断したり、恐れたり、考えることはない。ただ、受け止めること。そこから本当の生き方、愛が生まれてくる。世界がありのままであることを、ただ受け止める。判断しない。

CLEANESS 清らかさ:「私は宇宙の清らかさと純粋性の中に生きている」

清らかさとは、ネガティヴなものが一切ない状態。ネガティヴなものは、判断から生まれ、それは誤った情報や概念から来る。もう一度、赤ちゃんのような心になり、いつもゼロからスタートし、その場その場の自分の心の内側からくる意志の声を聞く。清らかである時、自由になれる。ここで初めて行動が起きる。これが最初の一歩。


さて、いつ愛に至るのでしょう?









miyuki