Miyuki's Grimoire
Diary INDEXpastwill


2002年11月26日(火) 「永遠のいま」にむかって

 久しぶりにコンサートに行って来た。ハード・ロック・バンドのコンサートを見るのは本当に久しぶりで、音楽雑誌の編集の仕事を辞めて以来、初めて観に行こうと思ったコンサートだった。最後に彼らを観たのは超満員の日本武道館で、もう10年ほど前のことだったと思う。当時のアルバムは世界で1200万枚のセールスを記録していて文字通りのビッグ・バンドだったが、時が経つなかでファンもオトナになり、来日公演といっても昔ほどの規模ではなく、今回は渋谷公会堂という小さな規模で行なわれた。
 どれだけ時間が経とうとも、どれだけ時代が変わろうとも、本物はかならず残る。それはどの世界でも同じだ。音楽の世界でも、毎年幾多のアーティストが世に出てきては消えてゆくのが常がが、なかには最初のきらめきを大きく超えて、どんどん洗練されていくバンドもある。きょう観たバンドは、まさにそういうバンドだった。
 デビュー22年目ともなると代表曲が多いので必然的にセットはバンドの歴史の集大成になる。新しい曲も組み入れながら、次々にプレイされるヒット曲の数々。ところが懐古的な雰囲気はまったくなく、昔と変わらぬ躍動感のなかに、確実にいまの自分に響いてくる新たな情感や物語があるのだ。どの曲にもそれぞれの時代にバンドが経験してきたことや、感じてきた素朴な思いが音の厚みのなかにこめられていて、それが、音の鳴る瞬間に時空をこえてわたしのこころの奥まで届き、その振動はいつまでも身体の内側に響き続ける。音楽とともに成長してきた彼らの、過去も未来もない「永遠の今」が、その瞬間の音のなかに見える気がした。
 
 ふとかつての自分を振り返る。締め切りで時間に追われ、タバコやコーヒーのにおいが身体にしみこみ、業界の荒波にもみくちゃにされるうちに自分を見失っていた時代。人と自分を比べ、劣等感や罪悪感を抱いていた自分。仕事で泣き、切ない恋に泣き、自分自身がわからない苦しみのなかで、いったいいつ眠ったのかもわからないうちに夜が明けていた日々。そんなわたしを慰めてくれたのは音楽だった。音楽という見えない振動が与えてくれたダイレクトな豊かさが、どれだけわたしを助けてくれたかしれない。そのときはわからなかったこんな大事なことにいまはじめて思い当たり、ハッとしてしまった。

 そのとき、サン・テグジュペリのあの有名なセリフが頭のなかに響いた。

「本当にたいせつなものはね、目には見えないんだよ」

 ・・・時はめぐる。「永遠のいま」という瞬間にむかって!


2002年11月11日(月) 祈りについて

きょうからWeb上で「平和への祈り」と題したクリスタル・グリッド展を行なっている。今回のグリッド展はものすごくパワフルなものになった。みな、たいへん個性的で、平和への思いがこめられた美しいグリッドだ。

ひとつひとつを見ていくと、クリスタルのなかに、天使の世界や、新しい時代の子供たち、聖地やゆりかご、宇宙、マザーアース、ハイヤーセルフ、光のマスターなどなど、素晴らしいシンボルの数々を見いだすことができる。まるで、それらの存在たちがたくさんの祈る人々を励まし、導き、祝福を与えているかのよう。グリッド作り自体が「祈り」の効果と同じなので、「祈り」をテーマにしたグリッドは、膨大なエネルギーを持っているに違いない。作ってくださったみなさまにこの場を借りて感謝致します。

「平和」のグリッドというのは普遍的で素朴なテーマだけれども、こうして全部の作品を見てもわかるとおり、個人的のフィルターを通して出てきたものであっても、それはすべての人にとっての善なのであり、世界を包括する光のネットワークになってゆく。「祈り」という行為のなかには、善なるものと結びつく力があるのだろう。「平和」を祈るとき、わたしたちは、遠い昔に失ってしまった太古の神の国の記憶を取り戻し、そのエネルギーを自分に引き寄せているのかもしれない。グリッドを作ってくださった方は、作りりながら、個人を超えた感覚、「上の世界」とのつながりを感じたのではないかと思う。

ノーベル生理学医学賞を受賞したフランスの外科医・生物学者であるアレクシス・カレルは、祈りについてこう述べている。
「祈るとき、私たちは宇宙を回転させている無尽蔵の動力につながれる」

古代からわたしたちは祈ってきた。雨を待つとき、太陽を待つとき、感謝するとき、実りを期待するとき、戦いに勝つために、生きていくために、苦難を乗り越えるために。あらゆる場面で人は祈り、祈ることで豊かになった。心をひとつにして祈ることで神とつながり、わたしたちの力は何倍にもなった。そして強くなった。

いまの世界には暴力が満ちあふれ、絶望的になることもあるけれど、わたしは決してそればかりではないと信じている。なぜなら、ここにはわたしたちを育ててくれた親の愛があり、空があり、花があり、香りがあり、音楽があり、木や川がある。美しい海、美しい大地、それら慈しみ深いマザーアースによって育まれた宝物がある。わたしたちが維持しようと共通の思いを抱くかけがえのない生命がある。

これらのものを大切に思う気持ちがひとかけらもあるならば、家族や友人や仲間を大切に思い、守りたいと思う気持ちがあるならば、わたしたちには希望がある。希望を持つとき、わたしたちは神のこころに触れる。神のこころはわたしたちの思いによって実現するのであり、どこか遠いところからもたらされるものではないのだから・・・。

自然や、色彩や、クリスタルの輝きから、美という神のエネルギーを受けとり、毎日を楽しみましょう。思い切り、こころを全開にして楽しいことに熱中するとき、神がそばにいるでしょう。

楽園を作ろう。
自分のまわりに天国を作ろう。

愛をこめて、生きよう、話そう。


2002年11月07日(木) いのちのホピ

[Photo Gallery]コーナーにホピ族の村の写真を公開するにあたり、書いておきたいことがある。ここに掲載した写真は、第1メサ・ワルピの村の入り口付近で撮影された。村のなかは一切撮影が禁じられているため、どこを探してもホピの村の様子は、アメリカ開拓時代(19世紀)にイギリス人学者が撮影したモノクロフィルムがもとになって作られたポストカードや写真集以外では見ることができない。また、彼らの生活の様子もほとんどが知られておらず、日本でわずかに見つけることのできる文献も、すでに30年も前のものでしかない。
ホピは農耕民族で、現在も四方を広大なナヴァホ・インディアンの居留区に囲まれた小さな保留地の、メサと呼ばれる平たい山のてっぺんに住んでいる。写真を撮らせない理由は、もちろん伝統を守るためだ。メサをおりた道路沿いにはスーパーマーケットがあり、ホピの子供たちはアメリカ流の教育をおこなう学校へスクールバスで通い、村にはテレビのケーブルもひかれ、村の観光案内所では、村を1周する約1時間の観光ツアーも行なわれている。しかし、彼らは、写真を撮られることは絶対に許さない。それはなぜなのだろうか?

半砂漠化した辺境の地に定住することで「アメリカ流」を拒んできた彼らだったが、生活スタイルのなかに「経済活動」が入りこむことはさけられず、この100年ほどの間に中途半端に「アメリカ化」してしまった。結果、かつてはすべてが土に還ったのに、いまでは決して土に還らない廃材や壊れた車や空き缶などが村にあふれ、単に不要物として無造作に捨てられている。無形の文化はどうだろう? 神業とも呼ばれているホピの伝統工芸・木彫りのカチーナやシルバー・ジュエリーは、観光客に売られて重要な「収入源」となっている。もちろん染料は絵の具で、食器を洗うのは、ユッカの葉の絞り汁ではなく、合成洗剤だ。もはや「伝統」は、風前の灯火である。

「写真を絶対に撮らせない」という姿勢は、いま、伝統を失いつつある彼らが、民族の歴史と精神に対して守れる最後の砦のようなものなのだろう。

村のなかをツアーしているとき、ある1軒の家から食べ物のにおいがしていた。案内所のガイドに従って家のなかを見せてもらうと、とうもろこしの揚げパンがテーブルの上においてあった。玄関口には砂漠特有の赤く乾いたとうもろこしの実がほんのひとつかみほど、置かれていた。彼らはひとことで言って、とても貧しい。こんな荒涼とした土地の上にひっそりと暮らし、たとえ伝統が風化されていく運命にあったとしても、それを受け入れながら人々は生きている。そのとき、ふと思った。彼らは時にはコカコーラを飲みながらも、とうもろこしの実をすりこぎで擦って、小さな実りにきっといまも感謝しながら生きているに違いない、と。なぜなら、人が生きている限り、生命はめぐっていくものだから・・。

たった数枚の写真で、しかも村の入り口と外の風景しか写っていませんが、なにかを感じていただければと思い、掲載することにしました。すべての人がこの地球の上で、幸せでいられますようにと祈って。


2002年11月06日(水) 石のなかの虹

3日間たおれた。

ミュンヘンでムール貝を食べて食あたりして以来、どうも体調が悪かったらしく、帰ってきたとたんに熱が出て、寝込んでしまった。こんなに寝たのは久しぶりだから良かったね、とも言えるんだけど、ちょうどいま、銀河の活性化の門があいていたため、熱に浮かされて見る夢は悪夢ばかりだった。

銀河の活性化の門があいている時というのは、ふだんよりも意識がクリアーになり、直感も冴えて、シンクロニシティが起こりやすくなる。ということは、宇宙の高い次元にアクセスでき、その高いエネルギーを現実の生活に創造性として反映するこたができる、たいへん貴重な期間だということだ。しかし、今回は熱が出て意識がぼんやりしていたため、潜在的な集合無意識にアクセスしてしまった。怒りや悲しみ、孤独感、そして漠然とした不安。それらが一気にやってきて、気持ちは落ち着かず、かといって身動きできず、ひどく怖い思いをした。3日間寝込んだあと、やっと熱が下がり、意識がはっきりしたとき、それらは自分のものではなかったことに気がついた。

これらの感情を作り出した原因となる集合的な出来事とは、考えられるのはふたつ。ひとつは、北朝鮮の拉致問題。そして、もうひとつは日本経済の大低迷。どちらも、出口の見えない大きな問題だ。様々な人の立場と思いが交錯しあって、希望を見いだそうにも、その手がかりすら見つけられない。否定的で、破滅的な感情と想念の壁・・・ここから抜け出すには、そうした集合的なエネルギーに、いち個人としての自分が吸い込まれないよう、できるだけグラウンディングし、意識を別の次元に保つしかない。

そして、透明のクリスタルを手に取り、石なかの虹を見る。この世でこれほど単純で美しい被造物はない。完全な美、永遠のときのなかで結晶化した天の光。石のなかの虹をみるとき、心ざわめくことがらを忘れ、いつのまにか世界の美しさと彩りをもう一度思い出させられる。「どんなに世界がひどくみえても、それでも、世界はこの石のように完全なのだ。どんなに人のこころが神から離れても、それでも、わたしは世界を愛しているのだ」と、天のどこかで「いと高き方」が声なき声を聞かせてくれる・・・


miyuki