といっても、Y氏の実家なので、帰省というか行くって感じですが。
乗り気では無いけれどちょっとは吹っ切れたので、 機嫌良くお伺いしてこようと思います。 そんなわけで明日から関西へ。 友人3人とお会いできるのも楽しみに。」
旅支度に、軽く軽く、軽く読める本が欲しいと思い、書店に行きました。 するとこの季節のことですから例によって夏の文庫フェアとかやってて、 あーよんだパンダの携帯ストラップ欲しいなあと思ったんですが、 新潮文庫は買いませんでした。 この間551の豚まんストラップに変えたばかりだし。 (直径2センチくらいの豚まんがひっついてるストラップ。かわいい)
「夏の100冊」とかあると、 毎年、必ず30〜40冊は読んだことがあって、 きわめて大雑把に言えば大体3分の2くらいは古典や定番、 残りの3分の1は最近流行の作家の作品て感じがするんだけど、 どれにしても、好きな傾向の本って、大体はとうに読んでしまっていて、 どうにも気乗りがしないものが残ってる。
今回のコンセプトは「京都に着くまでに楽勝で2冊読めちゃった」りする本、 ということで、角川文庫のフェアの本を買ってみた。
『気まずい二人』 三谷幸喜 『今夜は眠れない』宮部みゆき
新潮より遊びがあるラインナップ、という気がする。気のせい?
以前読んだ三谷氏のエッセイ(ノーパンで街を彷徨うという 悲喜劇ものだった)が面白かったのと、 宮部氏の『火車』を未だ読了していない (母に貸したらそのままどっかに行った)ので、何でも良いから読んでみたかったから。
こないだから、鷲田先生の『普通を誰も教えてくれない』やら『ちぐはぐな身体』やらを再読。 学生時分に読んだときと、読みの深みとしては変わってないと思うんだけど、 心中に生起するものがちょっと違う。さーっと明るくなる感じ。 澱んだアクアリウムの中で、エアポンプの電源を入れたみたいで気持ちがいい。
同じく『モードの迷宮』、実は学生時代は流し読みだったんだけど、 今ならとても興味深く読めそうな気がする。
「臨床」哲学と喧伝されるわけが、社会人になってちょっとわかった気がする。 生きていく上で必要な学問。 これかあれか、ではなくこれもあれも。
「皆と同じなんてつまらない。 わたしはわたしらしい [服を着る/髪形をする/ 化粧をする/音楽を聴く/本を読む/旅をする/ ものを作る/文章を書く/絵を描く/写真をとる]」
何とか微妙なところで差異を作り出そうとしている人は大変そうで楽しそう。 一生懸命、他人の作り出した流行に後れまいとする人も、大変そうで楽しそう。
前者であることに疲れ、後者には不向きなわたしは、 「皆と同じ」であることを自己評価の物指しに入れることはあまりしなくなった。
ところで、一番つまらないのは、大した違いもないのに、 その差異を自分のアドバンテージと勘違いしてる人。 それがあんまり押し付けがましいと、ちょっと退く。
「他人様が好きでやってることに 敢えて文句を言いたれる必要はないが、 わたしがそうするかは全く別の問題だ」
それはわたしの成長過程で身についたものではあるのだけれど、 必ずしも幸福な結果を呼んだわけではなかったなと思う。 「人は人、我は我、されど仲良し」と似て非なるものだと 気が付かなかった自分にちょっとしょげる。
年と共に母に大変似てきたんだか、 それとも、元々似てたのに今まで気が付いてなかったのだか。 容姿、性格とも、どうしたものかと頭を抱えてしまうほど 母親と似てる自分が、面白うてやがて悲しき。
全くのところわたしは狭量な人間ですが、 おこがましくも母を許そうと思います。
そうもいかない人は尚のこと辛いんだろうとは思います。
愛すべき友人が悩み、苦しんでいる様子を見ると、 あまりにも乱暴なので口には出さなかったが 「とりあえず実家に帰って、親を怒鳴り飛ばすところから 始めてみては如何」と言いたくなるというものだ。 そうされて然るべき親ってのも、当然いるだろう。
子供が欲しくないことはないけれど、 誰かの人生の根っこの部分を背負うというのは 並大抵のことではないなあと思う。
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