を読んだほうが役にたつ。)
とかいいつつ、音楽ってそれ自体が、心地よさを人間に“感じさせる”ための思考と技術の集大成ともいえるので、「思考は無力」を正確に言うとすれば、「あなたの思考に私は負けました、あなたの思考はすばらしく私の思考は下らないです」になるのであるが。。要するに、ロマンは常にテクノロジーに支えられているのであーる。
というか、Craig Davidを聞いていたら、身近で美声を聞きたくなってしまい、恋人サマに今日も家に来るように依頼したのであった。(なので、ごはんを用意しなければならないので手間がかかるが、でもまあ、やはり、恋人は美声の持ち主に限りますよね、ふむ♪)
2006年01月10日(火)
孤独を愛する動物。
 今さっきメールチェックをしたら、彼からURL付きのメールが届いておりました。で、「なお。さんのことが書いてあったので送ってみました。やはりなお。さんはターシャ(注;彼が子供の頃に飼っていた猫の名前。)似です。読んでみなさいな(笑)」と書いてあったので読んでみたのでありました。で、「なるほどなw」と思った。。確かに、こういう解釈でいくと私は「猫」似である。 まず、教えてもらったURLから少々引用。 ★にゃんこはツンデレ!! −猫と女性と愛の真実− http://d.hatena.ne.jp/kagami/20051210#p1 『犬と人間の関係は主従関係に似ていて、犬は飼い主に従う性質を持っています。が、猫と主従関係を持とうとしても受け入れられません。
なぜなら、猫は自分を独立した存在として受け入れて欲しいと思っているからです。「あなたはあなたで、私は私」とお互いを尊重しあうのが好きなのです。
「従わないし、依存もしない。だから自由にさせて」という猫。 彼らは独立心が強くて、孤独を愛する動物なのです。 その本音を理解してあげましょう。(石田卓夫「ねこのお医者さん」)』
私は確実に断言する。猫はツンデレたん!! 猫の場合は、犬のように飼い主にはずっと甘えるということがなくて、いつもはツンツンして、ツンツンしている時は、全然飼い主のことなんか気に掛けないで勝手に振舞ってるけど、突然デレデレ甘えてくるみたいな…。
(略)私は犬も好きですし、貞節で忠義を尽くしてくれる人間の女性も好きですけど、やっぱり、一番好きなのは、気まぐれで独立心旺盛なタイプ、猫たんと、そして猫タイプの女性が一番好きだなあと、猫飼ってて再確認しましたね…。
そして「俺は猫の生態を理解しているので大丈夫です、小学生の頃から飼ってたのでw」という言葉で、彼からのメールは閉められていたのでありました。ふむ。。 という日記を書いたら、早々と知人のYサマから、 "「ツンデレ」は良いことだ。忠実な女を好む男にろくな男はいないではないか(苦笑)”というご意見を頂きました。確かにそれは一理あるかもね、あは(笑)
2006年01月09日(月)
タントラと性交渉と身体の宇宙性。
 以下、タントラについてメモしてほざき。 あ、ちと最初に注記しておきますと、タントラというのはいわゆる性行為によって「エネルギーの質的転換」を起こし、「身体の宇宙性」を感じるという思想です、はい。ウィキペディア(Wikipedia)での定義は こちら。 よって、引用後のほざきには、ある種の方々からみると“下品”と思われる箇所もあるかと思いますが、まぁ、個人的な日記でのほざきだから許してね、ってことで(苦笑)。 タントラについての補足【美しさの中を歩め--Spirit, Soul & Body】より以下引用。 (略)つまり私の中では「生活の質的向上」と「エネルギーの質的転換」は対立概念ではない。どちらかを選べ、ということではない。だって、そもそも性的ヨーガ自体が、性行為自体において「エネルギーを質的転換」を成功させようというものなのだから。
要するに、「性的ヨーガによるエネルギーの質的転換」と「禁欲と非・性的なヨーガによるエネルギーの質的転換」の二通りの方法がある、ということ。そのどちらも「生活の質的向上」が結果として得られる。だって、もし生きているということ自体の価値を高めるためにこそ、修行もあるのであって、決して修行というのは生きることの喜びに背を向けることではない。
(略)現代の性的ヨーガがあるとすれば、それは、パートナー間の性生活を高めるという方向でしかありえない、というのが私の考え。またこれは強調するが、そういうことが「性生活の質的向上」になるのは、そこに実際の「エネルギー転換」が起こるからこそであって、それがここでいう質的向上そのものなのだ、ということ。つまり、「身体の宇宙性」を実感することがすなわち質的向上そのものだ、と言いたいのである。
以上タントラについての補足【美しさの中を歩め--Spirit, Soul & Body】より引用。
まず、「現代の性的ヨーガ」なるものがあると仮定すれば、それってつまりは“パートナー間の性生活を高めるという方向でしかありえない”ってのは、まったくもって現実的な考えだと思うし、個人的にも同感である。(→一般的に考えてもわかるとおり、複数の相手と性交渉をすればそれだけ「病気」のリスクも高まる。それに、複数の相手と性交渉をしたからといって「性生活の質的向上」が得られるかはかなり怪しいし、また「エネルギー転換」が起こるとも限らない。) で、方法としては“「性的ヨーガによるエネルギーの質的転換」と「禁欲と非・性的なヨーガによるエネルギーの質的転換」の二通り”があるワケである。 というか、昔から非常に非常に不思議でたまらないのであるが、たまに(いや、ごく頻繁に、と言ってしまっても良いかもしれない頻度で)現在のパートナーとの性生活に「満足していない」にも関わらず、「でも、良い人だから」という理由でその相手と付き合い続けていて、なおかつセックスし続けている女性(いや男性も居るには居るのだが、圧倒的に女性が多いと私は感じる。)に出会うのであるが、あれって一体何なんだろうなぁ、と。。 そういう方々というのは上の引用で言うところの、「性的ヨーガによるエネルギーの質的転換」にも当てはまらないし、かといって「禁欲と非・性的なヨーガによるエネルギーの質的転換」にも当てはまっていないように見えるのである。 というか、あんまり長くなるのも何なので、非常に凝縮して書いてしまうと、そういう方々って、私から見ると、パートナーシップにおいて「身体感覚」と「精神性」なるものが「完全に分離している」人たち、というように見えるのである。何だかすごーーーーく不思議な感じがするのである。 なんていうのかなぁ、ふむ。話を聞いていると、「貞操観念」という建前によって、満足していない性生活を正当化し、目の前のに実在している相手、ではなく、自分の頭の中に存在している「ファンタジーとしての相手」とセックスしているような感じを受けるというか何と言うか。 というのも、性別問わず、ある種の人たちならすんなりわかっていただけると思うのであるが、「身体感覚」の共有なくして「精神性」の共有ってあり得ないし、「身体感覚」抜きで「恋愛」関係って成立しないよねえ。。 ってことは、この場合、「身体感覚」と「精神性」が「分離」している、その「分離」の大きさを(主に女性側が)「演技」でごまかしているのかもしれず、これを経済学的見地から言い換えると、(主に女性側が)提供する「演技」というサービスに対して(主に男性側が)経済的価値(お金や物など)を支払うことで、外形上は性行為に見える性行為が成り立っている(でも内面的・精神的には少なくともどちらか一方が満足していない)、ってことになるのかもしれないけど、こういう解釈って、血が通ってないので一般受けはしないのであるが。。。 というか、ここでいう「身体感覚」とは、作家の山田詠美氏の金言、「始まりは肉体である。なりゆきは、心である」における「肉体」と同じ意味である。 要するに、人は、相手の姿を「見る」、匂いを「嗅ぐ」、雰囲気&オーラを「感じる」など、五感で相手の「身体」が“存在している”ことを知覚することからしか、いわゆる「恋」はできないのである。(注;そもそも、生物学的に言ってしまえば、恋とは「性欲の表れ」であり、恋人同士というのは「発情し合っている者同士」のことであるよ。) というか、わけのわからないことをほざいてしまったけど。 結局、私は、「精神性」を過剰に重視することが究極の愛や恋愛であると勘違いしている種の人たちが苦手なのかもしれず。。だって、なんだか、「精神性」とか「スピリチュアル」とか「でも良い人だから」とか「相手の性格がうんぬん」とか言ってる人たちって、言ってることと裏腹に、すごーーーく「スピリチュアル」から遠い気がするんだよねぇ。。 それに、一般的に言っても、身体と心が「分離」しているのって、病気になりやすい状態だなワケですし、「精神性」とか「スピリチュアル」とか「でも良い人だから」とか「相手の性格がうんぬん」とか言いながら満足していない相手と性交渉するのって、すごくあなた自身の身体と心を蝕む行為なのかもしれないし、話をしてくれた欲求不満の友人へは「もっと自分を大事にしたほうが良いんじゃないのかねぇ〜」とだけ告げたのであった。(意味もなく長くなってきたので無理やり終了。。)
2006年01月07日(土)
“恋愛”そして“イメージ”の差異。
以下、昨日思ったことをダラダラと日記化。(よって、まとまりのない文章になること確実。。)
昨夜、恋人サマと彼の友達2名と一緒にごはんを食べに行った時、彼の友人Y氏に「なんで君らはそんなにうまくいってるのかねえ、それが不思議だー」と、すごく不思議そうに言われ、その流れでY氏の恋愛相談へと流れ、よくわからないうちに、恋愛についてアドバイスする役割を担わされそうになって焦った。。(注;確かにうまくいっておりますが、たまにケンカもしておりますです。なので、うまくいくための「ケンカのコツ」だけ話しておきました、はい。。)
というか、私は、基本的に、人の恋愛にアドバイスをするのは苦手なんですよなぁ、ふむ。。自分でも不親切だとは思うのであるが、適当なことを言って妙にこじらせるのも罪深い行為だとも思うし、相手の話を聞いているうちに相手の内に潜む問題点に気づいたとしても、それを相手に告げたところで何も変わらないようにも思うし。(だって、一般的に考えても、部外者である私が何か言ったところで、当事者間に影響を与えるほどの効果はない可能性は高いでありましょう。)
そりゃ、関係を上手くいかせるための方法やテクニックや原則というのは世の中に存在している(→だって、なんやかんや言って、みんな「人間」という動物なのだから共通性は多いわけである。)けれど、そもそも、「恋愛」と一口に言っても、人によって結びつき方や共有している価値観も違うワケなのである。
よって、「恋愛」という二文字が想起させるイメージって人それぞれ違っていて当然だし幾通りもあるワケで、結局のところ、答えは「禅の実践」だということになってしまう。。(注;あくまで私の考えでは。。)
要するに、その人“個人の”「恋愛」という概念に対するイメージと、現実の“二人の”「恋愛」が乖離しているというのが不満が出てくる根本的原因なのではないかと思ったり。(→なので、大きく二つに分けるとすれば、共有できるイメージを持つか、もしくは、「禅」的な方法を用いる、要するにイメージするのは止めて目の前の相手の特徴をよく観察し合う、という方向性があるのかもな、と思ったりもしたんだけど、断定できないので()で括りつつ終了。。)
2006年01月05日(木)
「遊び」における神聖な真面目さ。
 この前、 『ホモ・ルーデヒンス』(ホイジンガ著)を再読していたら、恋人サマへ贈りたい文を発見♪今年も神聖な真面目さの中で遊びましょう、その方が楽しいし♪ということで、以下、年末にプレゼントしてくれた 『海からの贈りもの』と "The Sea Around Us"のお返しに、恋人サマに捧げまする。 (略)遊び―真面目という対照関係は、いつも流動的である。遊びの劣等性は、それに対応する真面目の優越性と絶えず境を接していて、遊びは真面目に転換し、真面目は遊びに変化する。遊びが真面目を俗界に置き去りにして、美と聖のはるかな高みに翔けのぼってゆくことさえあり得ないわけではない。
(略)子供は完全な真面目さ(これを神聖な真面目さ、と言っても少しも間違いではないが)の中で遊んでいる。(略)人間は子供のうちは楽しみのために遊び、真面目な人生の中に立てば、休養、レクリエーションのために遊ぶ。しかし、それよりもっと高いところで遊ぶこともできるのだ。
(略)もう一度強調しておきたいのは、本当の、自発的な遊びの心でさえも、深い真面目さの中に沈潜したものでありうるという、そのことである。遊んでいる人は、その全身全霊をそこに捧げる。
『ホモ・ルーデヒンス』(ホイジンガ著)、31−58pより引用。
《注》ちなみに、著者のホイジンガ自身は、本書のなかで、恋愛や愛情関係は「遊び」ではないという立場を採用しているのですが、これは勝手に推測するに当時の社会の風潮や、宗教的論争を避ける意味合いがあったのかもしれませんです、はい。 というか、現代でさえも、恋愛や愛情関係は「真面目」であることが良しとされている風潮もあるのですが、皆様もよくご存知の通り、「真面目」を強調しすぎるのもまた心象的に不自由だというのも事実ですよね、ふむ。。 そしてまた上の引用にあるとおり、 「遊び―真面目という対照関係は、いつも流動的である」も事実であるワケです、はい。 ということで、私は、「流動的な心」というモノを前提とした上で、“現代の”恋愛や愛情関係においては、ホイジンガ自身が記している通り 「本当の、自発的な遊びの心でさえも、深い真面目さの中に沈潜したものでありうるという、そのことである。遊んでいる人は、その全身全霊をそこに捧げる」という心の置き方は、人間関係にも当てはまるように思った、ワケなのであるよ。 まぁ、私自身がしんみりした人間関係を好まないというのもあるけど、要するに、思いっきり遊んでいる瞬間って、実はすごく真面目だってことだと思うのである。 というか、この本は文庫でなおかつ名著なので、私のくだらない解釈読むよりは、「遊び」というものを一度深く考えてみたいのならばこの本自体を読むことをオススメします、はい(苦笑)♪ ★画像はDALIのUntitled (Landscape with Butterflies), circa, 1956 http://dali.karelia.ru/html/dali.htm
2006年01月03日(火)
謹賀新年&今年の目標♪
 明けましておめでとうございます♪ というか、いきなりではありますが、以下今年の目標。 業務的な目標は、当然のコトではあるのですが「内部の部外者に徹する♪」です。それとライフワーク分野の目標はこれ♪ ★お金のいらない国2〜結婚って?家族って?〜 http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/okanenoiranaikuni2.html 「お金」というモノがなかったとしたら、今現在の社会はどのような社会なのか?を考えることによって、「お金」という資本主義的な価値尺度の意味を明らかにする。 一方、プライベートでの大目標は以下。 『完全納得できるライフスタイルを実現するために、実際に色々なことを試しながら、自分なりの“完全納得できるライフスタイル”の定義を、しっかりとしたものへと再構築する♪』 なぜに「完全納得」にこだわるかというと、 「スピードより方向が大切だ」(リチャード・L・エヴァンス)だからw で、上記3つの大目標を達成するための前提となる小目標としては、 �_燭呂箸發△譟峽鮃�」あってこその人生&将来なので、昨年に引き続き「メンタルタフネス」の強化に努めつつ、「玄米菜食」「呼吸法」を生活に取り入れる♪(→これは実は年末から既に始めているので、継続するのが目標。) ��納得できるライフスタイル実現のため、小さなことから大きなことまで、「いいな」「試してみたいな」と思った物事はとりあえず試してみる♪ �5せ�ち良い人たちと出会い付き合う。心地よく刺激的な人間関係に恵まるよう、自分を磨く♪ �て表颪良�を広げる♪(オススメがあればぜひとも教えてくださいw。分野は問いませんww) というか、みなさまにとって実り多き楽しい1年になることを心より願っておりますです。今年も無駄なほざき(無駄吠え、とも言う。。)が多いかと思いますが、ぜひともよろしくお願いいたしますw ★お知らせ★ このページ上部には、密かに「名言」が書いてあるのですが、新年ですしそれをちと変えてみました。で、ちと引用が長くなりすぎたので短く凝縮してしまったのですが、「実際の引用はこれですw」ということで以下、より正確な引用をお知らせ♪ 「わたしたちの暮らしはいま、ウィリアム・ジェームズがドイツ語で言ったところのシュリッセンハイト(細かく引き裂かれた状態)にしだいに近づいている。
女はこのままでは、粉々にされてしまう。それゆえにわたしたちは、ひとりの時間を求めなければならない。ひとりで静かに過ごす時間。ゆっくりと考える時間。祈りの時間。自分を自分の内部に向かわせて、わたしたちを分断しようとする各種の遠心的な力に抵抗しなくてはならない」
(アン・モロウ・リンドバーグ『海からの贈りもの』)
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