人生事件  −日々是ストレス:とりとめのない話  【文体が定まっていないのはご愛嬌ということで】

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2004年05月29日(土) 佐々木(仮)家の人々 〜 忘れていた、思い出さなくてもよかった傷の深さ

傷があったことを、傷ができた原因を、ふいに思い出す。

自分が傷ついていたことにとても驚き、慌てた。遠い昔の記憶。そんなこともあったなあ、とは覚えていたけれど、それに附随する痛みは忘れていた。否、忘れようと努力した結果で奥底に眠らせていたのかもしれない。
こんなことを思い出したきっかけはなんだったのか。傷を思い出してだいぶ経つというのに、探れない。

20数年前、父と母がけんかをしたとき、母はいつも妹を連れて、隣市にあった亡き母方祖父母の無人宅に家出をしていた。妹は乳飲み子と言うわけではない年で、私と4つしか離れていなかった。私だって、十分に子どもだったはずだ。小学校には上がっていなかった。なのに、私はいつでも置いて行かれた。

一度か二度、もっとかもしれない。私は何度も聞いた気もする。母に、「何で私を連れて行ってくれないの」と。
母の答えは決まって、「お父さん一人じゃかわいそうでしょ」だとか「あんたはお父さんの扱いに慣れているから」だった。

父母は、決して仲が悪いわけでも、相性が悪いわけでもない。ただ、母は父のことをよく見ていなかったりするわけで、父は母のそんなところをある程度は許容していて細やかに何かを言わないだけ。先日も、私は知っていたのに、母は父の好きな料理を知らなかったし、「そういう言い方は相手を傷つけるからだめだよ」と子どもである私が言ってしまうくらいのことばを母は父に投げていた。

確かに、私は父の扱いに慣れている。ことばかけも、話題も。幼少の頃から父が一番好きな男性であったし、それも今では変わらない。婚姻できない相手だとか、性的な相手にならないという点で、安心して好きでいられる。きっと、父は私にとって永遠に心の恋人なのだ。

だからといって、母が嫌いなわけはなく、何度となく母が私を置いて出て行ったという事実に傷つき、今でもその傷は生傷であった。

思い出したのはスーパー内。落ち着いて買い物ができなくなり、もしかしたら家にいるはずの恋人がいなくなっているかもしれないと、何の根拠もない不安に襲われ、自転車を飛ばした。

家に帰り、玄関先で恋人の顔を見たときの、その安堵感といったら。


2004年05月28日(金) 終わりまでの距離

簡単に妊娠していいものではない。

生命というものには死が付きまとう。死産も流産も、病死も事故死も、自然死も。気にせずに生きていても、どこかにそれらは必ず潜んでいて、それが露わになったとき、人は見えない対象、存在がなくなる恐怖に慄く。

生れ落ちたばかりの命が、限りある命と分かっている。だけど、その命尽きるテープの位置を、長く生きてもここまででしょう、とはっきり言われるときの気持ちといったら。

死産を経験し、片手の指の数の年も生きられなかった重い病気を抱えた児を看取り、それでもなお貪欲に子どもを欲した若い家族がいた。今度生まれた児は、健康優良児で。

つわりがこんなに軽かったのは初めてなんです。胎動を感じたのは初めてなんです。あかちゃんがおっぱいを吸う力が強いと感じたのは初めてなんです。日に日に身体が重くなるのを感じたのは初めてなんです。

嬉しそうに笑む母の、そのことばひとつひとつが、ずしりと胸に落ちた。


2004年05月27日(木) 一緒にいるために大切なこと

別れるとか、そういうことは一切考えなかった。

恋人に、自分の気持ちがうまく伝わらなくて激高し、まだ手をつけていなかった普段以上に手の込んだ料理の入った皿をゴミ箱に投げ捨て、ふすまをこぶしで叩くという行為に出た。泣いてわめく私を無視してご飯を食べていた恋人も、さすがにふすまを殴りだした私を放っておけなくなったのか、あわてて抱きしめにきた。

自分でも、驚いている。自分の中に、恋人に対するあんな激しい一面があったなんて。どう頑張っても、感情を押し殺すことができなかった。

嵐のような激情を過ぎると、私の心の静寂がより深くなった。感情を吐き出した後の放心と満足感と、食べ物を捨てた罪悪感で。

その後、恋人の手が、私の手を、髪を、やさしくなでる時間が増えた。

あれは、誰が悪いとかそういう問題ではなく、より寄り添うために、必要な感情放出であったのか。


2004年05月25日(火) 一人一人の意識が生んだ産物

"鳥インフルエンザ"と"HIV/AIDS"。

聞きなれない、新しい感染症には過敏だけれど、"なんか知っている"程度の感染症には無防備。それが、日本人なんだろう。情報などいくらでも手に入れられるこの国で、自ら調べて自ら身を護っている人はどれだけいるのか。"性"に関する情報を伏せておく時代は終わらせなければならないと、この数十年遠い存在の"専門家"が警鐘していたのにも関わらず、聞く耳持たずの"大人"は多いわけで。ねえ、好きな人とセックスしない人って、どれだけいるの?

厚生労働省の調査で、また、エイズウィルス感染者とエイズ発症者が増加を確認。

いざ自分に、大事な人に、降りかかってから知る、では遅いものもある。


2004年05月23日(日) 怖かったのはその思考回路

起きたときには心臓バクバク。

先日、夢で、4つ子を育てている自分を見た。授乳しながら、「ああ、乳が4つあったら!」と疲れて肩を落としていた。しかも、まだ兄弟がほしいと思っているのか、「上が4つ子だと、下に一人生まれた場合なんかかわいそうだから、せめて双子…」などと考え込んでもいた。あんた、正気か?

そんな話を恋人にしたら、「願望か? 正夢か?」と笑われた。つーか、4つ子を自然妊娠する確率なんてほとんどないに等しいから、やっぱりそれは不妊治療ってこと? 減数手術はしなかったのだね、私。

で、自分の住む県市町村に不妊治療助成制度があるか、調べてみたりして。でもまだピルを飲んでいるので、妊娠にいたるわけはなく、適応外。でもその後、避妊なしで2年、それでも妊娠しなかったら、私はひどく落ち込むだろうなあ。

病は気から、そのうちに。


2004年05月20日(木) 日常茶飯、だなんて思ったらおしまい

感情を殺すことがあっても、感情を忘れてはいけない。

そんなの慣れっこ、だなんて言ってはいけないのだ。驚くことも、嘆くことも大切。

毎日、他人の人生を見守っている。助けを求めてくる人にも、自覚がなくとも助けが必要な人にも、そっとそっと。
ああ、また?という事件など、日々起こる。妊娠に気づかずに出産、だとか、乳幼児虐待だとか。

そんなの日常よ、だなんてことは口が裂けても言えない。ひとりひとりが、重く抱えている人生。それを、ひとくくりにしてはいけない。何度でも、付き合う。似たような話に泣き、似たような経過に怒る。

当たり前のこととして捉えてしまったら、支援などできない。"そんなこと、経験しなくていい"というような非常事態に陥った人たちを、"よくあること"などと放っておくことなどできない。

やさしさと偽善の狭間で悩むことがあっても。


2004年05月18日(火) 一度きりの人生をどう生きるのかはその人次第

親は子どもがいくつになるまで"親の責任"を負わなければならないのだろうか。

10代半ばの子どもが妊娠中、病院に一度もいかずに子どもを生んでしまったり。20代の子どもが、生んだ子どもを年老いた両親に預けて姿をくらましたり。30過ぎた子どもの、複数のサラ金会社での多額の借金の返済を親が負担したり。50を過ぎた家庭内暴力を振るう病気がちな子どもの面倒を自分の年金から見たり。

私がこの中で親が親らしく子どもを守っていいと思うのは、10代だけだ。子どもがある程度の年齢に達したときを境に、親自身の人生と線を引いてかまわないと思う。引かないと、子どもはいつまでも甘えるし、自分のことなのに尻ぬぐいは他人任せだなんて親が亡くなったときにその子自身が困ることになる。

自分が生んだ子だから責任取らないと、なんて、育て方に何かそういう風に育ってしまうような、思い当たる節があっての償い的なものであれば私も止めたりしない。だけど、そうでないのならば、少しずつ距離をとらないと、親自身の行き場がなくなってしまうと思う。毎日子どものことを思い、食は細くなるわ、眠れないわ、大きなきっかけはなくともさめざめ泣いて、人によっては精神疾患発症。

あのね、子どもの人生にしあわせを願う気持ちは分かるけど、親の人生を犠牲にしたら、意味がないんだよ。自分が大変な中、子どもがしあわせだからよかったなんて心から喜べる人、誰もいないんだよ。そんなの、苦しいだけだよ。
何人の人に、何度、そのせりふを口にしたことか。言えば、いつもいつも、泣かれる。そんなこと分かっちゃいるけど考え方は変えられないし私は親だし、だけど他人にそうでも言ってもらわないと少しも楽になれないし、という複雑な心境になるから、泣くのかもしれない。

まあ、いくつになっても子どもは子ども、という親の気持ちは、子どものいない私でも、分からないでもないのだけれど。


2004年05月15日(土) いつか、きっと

結果を急いではいけないということ。

何の為に、私はこの人たちの所に定期的に通っているのかなあ、と悩んだことがあった。虐待問題のある家庭で、児童相談所は入っているし、就学前の児たちは保育園に預けさせたし、病院とも連携しているし、児たちは全員市での乳幼児健診は終わっている年齢だし、母は転居前の市の保健師の印象が悪くてうまくこちらを拒否気味だし。

手ごたえが少しもない、疲労感ばかりの訪問。玄関先で、5分も満たない話を、数ヶ月に一度する。

それを、1年以上続けていた。先の見えない支援。"支援"て何だろう? 私のしていることに意味はあるのか? 悩んで所長に相談したら、「そういう支援もある。いつでも相談乗れるよ、と母に示すのが大事なケースだから」と言われた。だから、じゃあもう少しがんばってみるか、と思った。

その2日後のことだった。ケース宅の母が、事務所の窓口に顔を出した。
「市役所まで来たので。この間ぜんぜん話せなかったから」
市役所は事務所のすぐ近くにある。だけど、素通りなら簡単にできる位置で。わざわざ寄ってくれた、その母の行動に、私は驚いた。母は子どもの近況を、私に教えてくれた。

母の来所を所長に文書報告したら、「よかったね」と言われた。

"私"という存在も、いつか、誰かに響くことがあるのだ。


2004年05月11日(火) 号泣される準備はできていなかった

私には、全然できていなかった。

まさかこんなことが連続で起こるなんて…その電話を取ってしまったことからはじまったその相談は、昨日からいっぱいいっぱいになっていた私の許容範囲量を軽く超えた。

もう、気の毒としか言いようがない。それしか言えない。いいさいいさ。号泣するがいいさ。泣くしかできないのならば、泣いていいのさ。泣けるくらいならまだいい精神状態なのだから。いきなり机に突っ伏されて号泣されてうろたえてしまったけれど、どうにかこうにか、本当に今すぐにその場で、戸惑いと情けなさに悲鳴を上げる気持ちを、次々に明るみになる言いづらくて黙っていた家庭の事情を、受け止めざるを得なくて受け止めた。

私に、何ができるわけではない。ただ、話を聞いて、一緒に考えて、少しだけいくつかの道を提示し、選択されたところに向かうに当たって支援するだけ。

泣いていられない時が来るまで、泣けるだけ泣いておいたほうがいい。


2004年05月10日(月) 早熟さ故の結果とその混乱の波紋

何か、混乱してる。

注目すべき箇所は、その、あなたの親としての責任を最初から取れなかった非を認めて苦しみ、かつそれを子どもを守るという形で、まずは怒らずに現実を受け入れようと、そう夫婦で話し合えたその事実で。自分の親としての体面だとか、早熟な子どもたちの行いを恥じる思いの前に、その子のためになるように動こうと、考えようとするその姿勢が、とてもとても、印象的だった。

涙ながらに、幼い子どもの精神の揺れと身体の変異に気づけなかった自分を責める文句を吐き出す、まだ若い女性を、今まで出会った親たちとは少し違う感情で寄り添う。そして、寄り添いながら考えた。性知識は簡単なものしかなく、彼にも誰にも相談もできないままに、年端のいかぬ少女は、何を思いながら子どもを産み落としたのだろうか。一歩間違えば、人殺しになるところで。

考えただけでも、他人事なのに苦しくてふさぎこむ自分がいた。


佐々木奎佐 |手紙はこちら ||日常茶話 2023/1/2




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