一度だけの人生に
ひろ



 幼い子供が亡くなること

バスでの熱中症で亡くなった子供が
今年も発生した。

去年の前例もあるのだから、
予見可能性という意味では十分で、
同じ事業者としてまたこんなことを
起こすなんて信じられない。
教訓を無視したという意味で
去年の事件の事業者より、
さらに許しがたいと思う。

そして、幼稚園児の蒸し殺しという
記憶にも新しい悲惨な事件が
今年も平然と再び起こるのだから、
何かを変えなくては
また起こるのだろう。

思うに子供と言うのは楽しさ、
嬉しさ、怖さ、悲しさ、寂しさ、苦痛というものに
大人よりも遥かに敏感である。
大人が何てことないと思うことに
喜んで笑い、嬉しくてはしゃぎ、
大人が何てことないと思うことをとてつもなく
恐れ、悲しみ、寂しく、苦痛で泣くものである。

そう考えたときに、この子供たちが味わった
恐怖や寂しさ、悲しさ、苦痛は
どれほどのものかと悲惨な気持ちになる。

大人が感じる苦痛と子供が感じる苦痛が
程度において違うとは思わない。

しかし、僕たち大人はいずれ程度の差はあれ、
苦痛とともに自分が死ぬことを知っている。
家族がいまわの際に側にいようがいまいが、
死ぬ場所が床の間であろうが、路上であろうが、
いずれは、自分の死という恐怖に自分一人で向き合い、
おののき、寂しく、そして苦痛のまま死んでいくのだという
運命をを知っている。

では、彼らはどうか。
そんなことは知り得ない。
ただ、恐怖と寂しさ、悲しさ、苦痛にさらされて‥
「ああ、僕は死ぬんだ」とも思わないだろう
思うとしたら最後まで「パパ!ママ!」なのかな


可哀想でたまらない




2022年09月05日(月)
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