一度だけの人生に
ひろ



 死ぬということ

何度も書いてきたことだけど、ここ最近、
芸能人の自死に触れて、改めて思うので、もう一度書く。

死ぬとはつくづく、つまらないことだ。

若い頃は、自己嫌悪なのか、あるいは死に対する
憧れなのか、とにかく死にたいと思いがちなものだ。
それはこの日記を見返してもらうとわかる。
若い頃ほど、とにかく死にたい死にたいと思ってる。
人の死に接したこともない、身近な人の死にも
好きな芸能人、有名人の死にも接したこともない。
何もわからないのに、
ともかく、生きることのつまらなさに呆れて、
自分という存在の小ささとつまらなさに絶望して、
死ぬことへの憧れを大きくしてる。

自分は、それから何十年も経ってどうなったか。
相変わらず、生きることは堪らなくつまらない。
明日が来なければいいと念じる夜もある。
自分という存在は知れば知るほど、あらゆる面で、
無用で無力で、
自分でなければいけないものなど、この世の中には
何一つ存在しないということを日々、知る。
仕事?論外。家庭?あり得ない。恋愛?ごまかしだね。

誰か(他人)にとって、何かがどうしても私でなければならない理由などない。

そもそも、生きることに意味などないんだよ。

地球という野原に生えた、
60億本の雑草のうちの一本が私だ。
その一本がいなくなることの影響は無視できるくらいに
小さい。いや、普通は無視も何も、
そもそも気づくこともなく、そしてもし気づいたとしても
普通は、やはり何も感じない。

要は何が言いたいかと言えば、死ぬこと自体には
全く何の意味も意義もない。
もし死ぬという行為自体が周りに与えられる影響があるとしたら、ごく身近な周りの人達だけに、人生が虚しく、やるせないもので、後悔し、そして取り返しがつかないということについて改めて認識してもらうという程度の意味しかない。

でもそんなの、みんなあたかも知らないふりしてるようで、
実は最初から知ってる。 意味がないじゃないか。


生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、ただいなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
 死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。ただ、負けないのだ。


2022年05月12日(木)
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