一度だけの人生に
ひろ



 不可解な良識

世の中の人は「まっとう」だ。
昔から思っていたけど、世の人は
あるいは、自分の周りの人達は、
なんて「まっとう」で「良識ある人」なんだ
ろうと、感心する。
いや、感心と言うより、自分だけが変わり者で、
おかしいのでは無いかと苦しくなる

例えば、私は私の嫁が嫌い、あるいは好きではない
と言うと、必ず決まって周りの人達は
「そんな風に思うのはおかしい」
「夫婦として終わってる。異常だ」
と言った反応を示す。
物心がついたころから、異性を好きになり、
そのうちに何とも思わなくなり、あるいは
嫌いになり、また別の異性を好きになり、
再び何とも思わなくなり、あるいは嫌いになり。
否も応もなく、幾度となく繰り返したこの
サイクルを、書類に印鑑を押して市役所に
提出しただけで、止めることが出来るだろうか。
止まるだろうか。
書類の提出の有無に関わらず、付き合いが長く
なれば倦怠し、相手の欠点が分かればイヤになり、
よそに良い人がいれば、顔を見るのもイヤになる。
いくら幻想…夢を抱いたところで、結局その
懐かしい現実を再確認するだけで、このサイクルを
止め得ようか。

このサイクルを否定することが夫婦としての良識
で、あるいは人としての良識だろうか。
一人の人を永遠に好きでいて、恋い焦がれていた
いと思う心情には、私も深く頷かざるを得ないが、
かと言って、この自然な人の変遷を敢えて否定し
て、否定することを夫婦や人としての良識と考え
なければいけないのも不可解だ。
当然、私の嫁も、もう私を好きではないと思うし、
あるいは嫌いかも知れないが、私はそれで自然と
思う。やむを得ないものと思う。

実感は偽れず、現実もまた、偽れない


好きじゃなくたって良いじゃないか、それが夫婦
だと言い得ず、「妻に夢中です」などと述べて、
それを良識人の資格のように思い、夫を想わぬ妻
は、妻を想わぬ夫は悪だと言わんばかりに。
どうして、世の中にはこのように実感とかけ離れ
た嘘やごまかしが溢れていて、それが良識であり、
あるべき姿とされているのかいまだに理解できず、
いまだに困惑します。

そして、こんなのは、あくまで一例に過ぎません



2016年12月29日(木)



 恋がすべて

なんとなくで生きてきて、早くも36歳。
だいたい、人生のお先が見えてきたようで、
生きていくのも馬鹿馬鹿しく、何のために生きているのだろう
と思うと、やるせない思いだ。
もはや、就職することも、結婚することも、
子供ができることも、無い。あとはひたすら働いて
自らと周囲の人の生活を支えていくだけの人生に決まってるし、
それが「正しい人生」なのだ。

わかってても、苦しい


子供の成長が楽しみだろう?
と、人は言う。確かに元気に育ってほしいし、
出来るだけ良い、楽な人生を歩んでほしい。
でも、それが俺の生きがいになるだろうか。
別に偉くなってほしいとは思わないし、立派な親になってほしいとも
思わない。どんな人生の選択をしても、人生は苦しいし、つらいことも
たくさんある。
かといって、代わりに選択してあげることもできないし、代わりに
苦しむこともできやしない。
がんばれとしか言えない。何とか応援してあげることしかできない。
その子の人生の楽しみはその子のもので、その子の人生の苦しみも
その子のもの、いずれも俺が代わりに受けることができるものじゃない。
子供の行く末を楽しみにがんばれと人は言う。それが正しい親で、正しい人生

わかってても、苦しい


と思って見返してみると、20代前半の
大学生のころから「人生のお先が見えて気がして、何のために
生きていくのだろうか。やるせない。」などと言っているのだから
結局、同じところで足踏みをしているようで、可笑しいような
悲しいような気持ち。


結局、人生で、本当らしく思えたことは恋だけでした。
何度恋をしても、恋の馬鹿馬鹿しさを痛感するだけだったけど。
人は恋をするために生まれてきたのだと思う。


2016年12月11日(日)
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