一度だけの人生に
ひろ



 辛い生活

周りの友達の言動を注意深く
聞いて、観察していると、
みんな、案外に辛い辛いと思って
暮らしているんじゃないかと言う
気がしてきて、人生って言うのは
誰にとっても、どこか寂しく、
侘しさをぬぐいきれないものだと言う
ことにとてもやりきれない思いがします。

平均なら、
あと60年ほどはありますよと言われると、
大半の人は
「そんなに要らないよ。」
と言うと思います。

「日本は行き詰っている。」
なんて言う、TVの、一見身勝手な言葉が
真実だと思われてくる。
確かに行き詰まっている。

20代前半と言うのは、
頗る「いい気」な年代なのだと思う。
でもそれで良いのだと思う。
本当はそんな「いい気」な若者を「いい気だ」と
揶揄する苦労人の方が「いい気」なのだと思う。

「夢」と言う言葉はなんだか青臭い。
「理想」なんて言うとますます青臭い。
「自己実現」なんて言うともう、誰もまともに相手にしない。

つまりそんな言葉で表されること。
それに見切りを付けることが出来得るか否か、
だいたいこの年頃に迷い、苦しむ。
それは当たり前のことだと思う。
むしろ、とても良いことだと思う。
健全だと思う。

健全でないのは、
そんな焦燥や苦悩や、必死のあがきを
「いい気なもんだ」と嘲笑する人たちだと思う。


八つ当たり。嫉妬。
首くくりの足を引くようなことを
自己満足のためにやる人達。



この文章は、決して僕の自己弁護だけに
とどまるものじゃないと思うのだけれど。

2003年09月23日(火)



 月が泣いてる

タイトルは「つじあやの」の歌から。
特にこれと言った意味は無し。

「私の愛し方と違うなぁって思って・・・。」
後輩が言ったセリフです。
僕の「愛し方」と彼女の「愛し方」が
違うと言うわけじゃなく、ある男と彼女の
「愛し方」が違うらしいです。

「愛し方が違う」
こんな言葉を良く、はにかみもせずに平然と
言えるものだとびっくりしました。
自分が相手を愛し得ていると言う
確信、あるいは盲信かも知れないけれど、
そんな態度に僕はいつも驚きます。

2股、3股は当たり前。
いつもリザーバーを用意して
男と付き合っていながら、
「私は彼を愛している」
とまんざら冗談でも無いかのように言うのです。

2股や3股、キープ君を作るのが
いけないのだと言うつもりは無いんです。
僕が気にかかると言うか「癪」に障るのは
愛、愛って言うことで、
彼女たちは自分の打算や計算、
ご都合主義をごまかそうとしているのじゃないのか
と言うことです。
その時その時で、都合のままに男を取り替えて、
その度に「だって愛してるんだもん」と言う。


僕にしてみれば「何が悪いの?」
って言ってくれたほうがさっぱりします。

2003年09月16日(火)



 誰にも彼にも

昔は時々、自分のことを
とっても魅力的な人間だと思っている人と
出会うことがあった。
「自分は好かれるタイプの人間だ」と言わんばかりの人。
と言っても近頃はそんな人も少ない。
このくらいの歳(22,3歳)
になると少なくなるのかもしれない。

それと反比例するかのように、
「自分は嫌われるタイプの人間だ」と
思っている人が周りに増えたように思える。
そう言う僕もそうだ。
自分もそうなのに、
僕はそう言う人に出会うと、
なんとも言えない「嫌な感じ」をおぼえる。
前者ほどの不快感では無いけれど。

もちろん、程度にもよると思うのだけれど、
最近、こう思う。
自分のことを誰にでも好かれると思う自惚れやと
同じ程度か、場合によってはそれ以上に、
自分のことを誰にも彼にも嫌われると思う人は
いい気で、身勝手なのかもしれないと。

嫌っちゃいないのに、
嫌っているのだと勝手に思われるのは
迷惑で、不快なものだ。



でもやっぱり、どちらかと言えば
僕は「自分は嫌われる人間だ」と
思っている人のほうが好きだ。
自分に自信の無い人のほうが好きだ。

2003年09月15日(月)



 とぎれとぎれ

小説集を家に忘れてきたので、
「東京八景」という太宰治の小説を
探して「青空文庫」と言うHPを訪れたが
まだ入力が終了していなくて、無かった。
ボランティアの方々が打ってくれているのを
利用させてもらっているのだから、
ことさら文句を言えた義理ではないが、
1999年からずっと「入力中」と言うのは
如何なものだろうかと思う。
誰かが登録したら、他の人はもう、
入力して、寄稿したくても出来ないのだ。
やる気が無いのなら止めて欲しいと思う。
「東京八景」くらいの量ならば、
僕でも入力に半日もかからないのだから。


お酒をあまり飲めなくなった。
友人に、両親にも、指摘されたし、
自分でもそう思う。
肝臓の状態が悪いのかもしれない。


生活上の行き詰まり。
人は思想や、観念だけで死のうと思ったり、
死ねるものじゃない。
どんな時、どんな場合でも、
裏には常に直接的、実際的な「生活」の問題がある。
本当だろうか?
最近、本当なのかもしれないと思う。
だから、どうだと言うことじゃなく。


恋愛ドラマを見ていて、
「男じゃないなぁ」と思う。
そう思って、考えてみると、
僕の「男」観はやけに古い。時代劇。
義理、人情、見栄、意地、やせ我慢、最後に悲哀。
お調子者は皆、男ではない。

美。なんだか分からない美のために
身と魂とをゲヘナにて滅ぼしうるもの。


太宰のキリスト教理解を、
ドナルド・キーンはヨーロッパの未開人が
日本の禅について語っているかのようなものだと
批判した。それが確かなら、その太宰を
通してキリスト教を見ている僕の、キリスト教理解は、
人間のレベルには達していないようです。



あぁ・・いい子だけは嫌だ。




真顔でポツリと呟いて、その言葉に
「あなたはもう、子じゃないでしょう?」
と、ニヤリと応える人が、世の中の1万分の1以下で
ありますように。

2003年09月13日(土)



 閑話

今日(10日)のトリビアで
「太宰治は芥川賞をくださいと
頼み込んだこんだことがある」と言うのがあった。
結構、高得点というか、高へぇ〜だったと思う。
僕もクスッと笑ってしまった。
もちろん、そんなことは
僕は中学生の時から知っていたけれど。

少し、太宰治を読んだことのある人なら
このことをトリビアだとは思わないと思う。

日本人の特質なのか、
人類共通の固定観念、心情なのか、多くの人は、
有名な人、立派といわれる人、
一つの分野において秀抜の能力を発揮した人に
対して、その人はその分野以外においても
全く出来た人間で、性格温厚、無欲、公平、
酒は飲まず、煙草もやらずと言ったら言い過ぎかもしれないけれど、
とにかく「全てのことにおいて立派な人」なんだと
思いがちだと思う。

思われるほうはたまったものじゃないだろうなぁと思う。
太宰に限ったことじゃない。
スポーツ選手でも、政治家でも、医者でも、弁護士でも・・・



2003年09月09日(火)



 進化、退化

この頃、僕はあまり他人に関心がない。
後輩の言葉を借りると「愛想が悪くなった」
そう言われて思い返すと、
僕は今までずいぶんとつまらないことに
とても気を使っていたのだなと思う。
特に人に関しての興味が無くなったわけではなくて、
周りの物事に対して全般的に、なんとなく以前よりも
興味が無くなった。

生活していく上では楽だけれど、
あんまり良いこととは思えない。
そんな風な、自分の変わりようを
一番意外と思い、不安に感じているのは僕自身だから。

つまらないと思うのだ。
「ここで、ああしなければ、
あの人に悪く思われるかもしれない。」
悪く思われたって、だから、どうなると言うのだ。
逆に、良く思われたから、どうなるんだ。
良く思われても、別に、つまらない。
こんな風に感じる。

今までの僕と正反対の考え方だ。
一見、健全な考えのようにも思えるけれど、
僕の受ける印象としては
なんだか、以前より、生活に対して
いわば「不真面目」になったように感じる。

ヤケクソに近いのかもしれない。

ついこの間まであんなに
大切に思っていた「人間関係」と言うものや、
それ以外の全てのこともほとんどが
僕自身にも、僕の将来にも、現在の生活にも、
なんら影響の及ぼすことの無い、及ぼすことの出来ない、
どうしようもないこと、
どうでも良いことのように思えて・・・。


そうしたら、どうなるんだ?
どうにもならないじゃないか。


自分の現在から将来のある一点までが
すっかり見えてしまったような、
見えてしまうような感覚。




いい気なものですね。

でも、その点においては
僕は昔からそんなもんでしたよ。
それで、これからもそんなには変わらないような
気がします。十年後も、僕は相変わらず「いい気」に
過ごしているような気が。

そこまで行くのなら、それも悪くないと思います。
そこまで変わらずに行けるのなら。

2003年09月03日(水)
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