一度だけの人生に
ひろ



 透明

薄く、淡く感じられて、
それなのに嫌な圧迫感、閉塞感だけが
色濃く・・・。

何にも、なりたくないなぁ〜。


少しも注釈なしで、文章をつなげたら、
きっとそれが僕の心の中のありのままで、
実際、一番「本当」なんだろうと思う。
誰にも、そして僕にも
いまいち何を言いたいのか
分からない、文章の連続。
誤解だらけで、矛盾だらけで・・・。

そんな唐突な、
はた目には支離滅裂な文章を
書いた時に限って、
妙にすっきりとした感覚を覚える。
そんな文章を書いてしまったときは
逆に「うまく言えた」と感じる。

それを思うと、
僕は、絵は分からないけれど、
抽象画と言うものが思い浮かぶ。

本当のことって言うのは
結局そんな風にしか表すことができないの
かも知れないと太宰だったか、
誰だったかが言っていたのを思い出す。

僕は僕のダメさ、弱さ、
ずるさ、くだらなさを知らない人を
信用しない。
僕の弱さを信じない人を信じない。


2003年04月28日(月)



 どなたかへ

どうか放っておいてくださいね。

僕ら、助け合って生きていくことを
ちっとも恥ずかしいことだと思っていません。
少しの楽しみを、それも僕らみんな一緒だからこそ
得ることの出来る楽しみを十分に楽しんでいきたいと思います。
大きな苦しみを、それも僕らみんな一緒だからこそ
こうむってしまう辛さをみんなで分け合って生きて行きたいと思います。

この嬉しさはきっと
(僕の)人生で最高のものだと思っています。

後悔は数え切れないくらいたくさんあっても、
僕は生まれてきたことをちっとも後悔しません。

2003年04月26日(土)



 自己批判

「ほんとうに私は、どれが本当の自分だかわからない。読む本がなくなって、真似するお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、いったいどうするだろう。手も足も出ない、萎縮の態で、むやみに鼻をかんでばかりいるかも知れない。何しろ電車の中で、毎日こんなにふらふら考えているばかりでは、だめだ。からだに、厭な温かさが残って、やりきれない。何かしなければ、どうにかしなければと思うのだが、どうしたら、自分をはっきり掴めるのか。これまでの私の自己批判なんて、まるで意味ないものだったと思う。批判をしてみて、厭な、弱いところに気附くと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、角をためて牛を殺すのはよくない、などと結論するのだから、批判も何もあったものでない。何も考えない方が、むしろ良心的だ。」

太宰治『女生徒』


耳の痛い言葉。
「角を矯めて牛を殺すのはよくない」が
半意識的であり、また、やはり半分は無意識的だから
余計に辛い。

迷って、立ち止まってみる。
周りの多くの人は内心迷っているのか、
それとも迷い無く、何かに突き進んでいるのか
分からないけれども、とにかく進んでいく。

僕のように立ち止まっている人も
少ないながら、いるみたいだ。

どっちが真摯な態度なのか分からない。


2003年04月25日(金)



 ちょっとしたはずみ

「この人のために一生つくすのだ、とちゃんと覚悟がきまったら、
どんなに苦しくとも、真黒になって働いて、
そうして充分に生き甲斐があるのだから、希望があるのだから、
私だって、立派にやれる。あたりまえのことだ。朝から晩まで、
くるくるコマ鼠のように働いてあげる。」

太宰治『女生徒』

こんな気持ちを持つ男は、
女性から見たらつまらない男になるのかもしれないけれど、
こんな気持ちを僕は本当にたびたび思う。
この考えの是非は、今は考えない。

僕の恋愛は(愛と言わないで恋愛と言う)
なぜかいつも僕が相手に尽すことになる。
前回のDさんのことでも十分にその性質は発揮された
と思うけれど、一方的に僕が我慢することになる。
きっと自分から望んでそう言う風にしているところがあるのだと思う。
気障な言い方をすると「尽すのが好き」なのだ。
また、別の言い方をすると
尽すこと、我慢すること以外の
愛情表現が分からないのかもしれない。


2003年04月24日(木)



 益体の無い自意識

「益体のない自意識と戦っているつもりで・・・。」

後半は忘れたけれど、
こんな言葉が、ある漫画の中で出てきました。
結局、僕の悩みとか苦しさなんて、
どこかそんな部分が必ずあるんだろうなと思う。
そう思うと、どうしたら良いのか、
ますます分からなくなる。
自意識過剰。
それはそうだろうけれど、
それだから、どうしたら良いのだろう。

見え透いているんだよ!
そして僕、見え透いているでしょう?


「自分には、あざむき合っていながら、
清く明るく朗らかに生きている、
或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。」
太宰治『人間失格』


2003年04月23日(水)



 不眠

う〜ん不眠です。何がいけないんだろう・・・。

今日は健康診断でした。
去年までは健康診断なんてダルイだけ
だから、でなかったのだけれど、
一応今年は就職云々の話があるから・・・。
久しぶりに身長・体重を測りました。
身長が五ミリほど伸びたような気がします。
(前回の数値を正確に覚えていない)

体重が・・・体重が!!!
なぜ!!ご飯食べてないのに!!
コーラしか飲んでないのに!!(←このせい)
お酒ばっかり飲んでるのに!!(←このせい)

帰省したときに
顔が丸くなったと親に言われて・・・。

ああ、痩せたい。つーか痩せる!

コーラやめよう・・・。

2003年04月22日(火)



 夢はつまり・・・

思い出の後先

by「少年時代」
それ以上の意味なし。

太宰を卒論で研究するということは、
それは太宰との決別を意味している。
なんて風なことを思ったり。
太宰ほど、読者を自分と同一視させることに
長けた作家はいないと思う。(言い方が変だ)
つまり、それだけ人間(弱い人)にある程度
共通した感覚、感情を持ち合わせていて、
しかもそれを巧みに表現することのできる
作家だったということです。

でも読んでいくとやっぱり分かるものです。
自分と太宰は違うって。
それは当たり前のことです。

でも共感って言うのは、
嬉しくて、楽しくて、幸せなものです。
それは確かなような気がします。
「愛」とか「恋」とかそう言うのは
いまいちはっきりと分からないけど、
必ず通じているんだろうなと感じます。

自己満足とか、手前勝手な解釈とか
そんな風にも考えられるけれど、
どこか、そう言う所でつながり合えると言うことを
実感として思えることはやっぱり幸せだと思うし、
それは信じたいと思ったり・・・。


太宰語録を載せちゃいます。


「私は神も鬼も信じていない。人間だけを信じている。」

「私のたたかい。それは、一言で言えば、古いものとのたたかいでした。ありきたりの気取りに対するたたかいです。見えすいたお体裁に対するたたかいです。ケチくさい事、ケチくさい者へのたたかいです。」

「世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが・・・」

「死なせて下さい、等という言葉は、たいへんいじらしい謙虚な響きを持って居りますが、なおよく、考えてみると、之は非常に自分勝手な、自惚れの強い言葉であります。ひとに可愛がられる事ばかり考えているのです。自分が、まだ、ひとに可愛がられる資格があると自惚れることの出来る間は、生き甲斐もあり、この世も楽しい。それは当り前の事であります。けれども、もう自分には、ひとに可愛がられる資格が無いという、はっきりした自覚を持っていながらも、ひとは、生きて行かなければならぬものであります。ひとに「愛される資格」が無くっても、ひとを「愛する資格」は、永遠に残されている筈であります。」



2003年04月21日(月)



 存在論的不安定

存在論的不安定なんていうと、
なんかすごいことみたいに
聞こえるかもしれないけど、
(いや、実際すごいのかもしれないけれど)
つまり「なんでここに在るんだろう」
ってことなんですけれど・・・。

自分のこと、「変わってるな」って
思うことは、今までたびたびあったけど、
こういうことで悩んだりしたのもそのひとつ。

全く、理由も必然性も、
もちろん必要性も、何にもわからない。
なんで「僕」はここにあるのか。
気がついたら、この宇宙の、地球で、
人間の形で在って、当たり前みたいな顔して
生活しているけれど、
普通に考えたら、変でしょ?

なんと言うか、宇宙があるのも、
地球があるのも、動物がいて、人間がいるのも、
それは分かるような気もするのだけれど、
「僕」がいるって言うのがすごく不気味に思える。

そのことについて考えると、
僕は今でもゾッとするし、頭の中がグルグル回って、
心が体から離れようとしているような、
心の芯を抜かれてしまったような、
とにかく、凄く嫌な気持ちになる。

芯について、辞書で調べたら、
「心」と「芯」ってほぼ同じ意味なんだね。


しん【心・芯】

表面から全容は見えないが、軸となってそのものの成立を支えているもの。
「根本(コンポン)」「中心部」などの意では、「芯」とも書く。


みんなは、こんなこと思ったり、
感じたりするものなんですかねぇ・・。

2003年04月20日(日)



 卒論

結局、卒論で太宰研究をすることにした。
僕の専攻は哲学系なので、
基本的には畑違いなのですが、
まぁ思想研究ならばショーペンハウアーを
やってもカントをやってもヘーゲルを
やっても太宰をやっても同じことですから、
つまり、誰の研究が誰の研究よりも有意義だとは
いえないわけですから。
教授は内心はきっとあんまり面白くないのだと
思うのだけれど、今回は我を通させてもらった。
なぜ内心面白くないと推測するのかと言うと、

僕の八方美人の努力の甲斐(?)があって、
先生方からは
「きっとひろおは自分達の研究している
分野の卒論を書くに違いない」と思われていたところが
少なからずあったからです。
やっぱり先生側としては自分の研究していることを
学生が卒論でやるのはうれしいことのようで・・・。





2003年04月19日(土)



 苦労人

この文章は寝不足の錯乱気味の頭脳で
思いつくままに書いたものです。
あまり真剣に読まれるとちょっとあれかも・・・^^;

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苦労人曰く、
「いい気なものだ」
この一言は、とても強い。
この一言を言われると、僕ら、何にもいえなくなる。
でもきっと苦労して苦労して苦労して、
その上で、今と同じことを言ったり思ったりしても、
どこかに必ず「苦労人」が居て「いい気なものだ」と
僕らを揶揄するのじゃないだろうか・・・。

だから、
僕らはとにかく社会の、世間の通りの良い価値観と
欲と、ごまかしと、図々しさと、
つまり世渡りの術を身につけないといけない。
「大人」が「幼い」とか「いい気」とか言う
今の僕らの考え、不安、苦しさ、
そんなものはもしかしたら、その世渡りの術を
身につけたら、感じなくなるのかもしれない。
それは、わからない。
もし、無くならなくても、その不安、懊悩、辛さは
ひた隠しに隠していかなければならない。

そんなものか?本当か?


僕はたびたびこの日記で、
自己肯定の強い人を非難したことがあったが、
思うに、人を非難するなんて、凄まじい自己肯定。

こんな感じで八方ふさがり。どうになりません。
何をどうしたって後悔が、悔恨がついて回る。
そのうちで、もっとも強い後悔は
「何もしなかった」という後悔。

何か、あるような気がするのだけれど、
僕にも何かあるような気がするのだけれど・・・。
僕にも、何か目指したいもの、
つかみとりたいものがあるような気がするのだけれど・・・。

美しい生き方とはなんだろう?
それは、分かってる・・・と思う。
僕だけじゃなくて、みんな、何が美しくて、
何が醜いのか確かに分かってると思う。
美しい生き方。
太宰曰く、キリストの孤独。寂しさ。辛さ。

「なんぢら斷食だんじきするとき、偽善者のごとく、
悲しき面容おももちをすな。彼らは斷食することを
人に顯さんとて、その顔色を害ふなり。」

ここを超えられれば・・・。


なんとなく「雨にも負けず」にも通じているような・・・。

「雨にもまけず 風にもまけず
 雪にも夏の暑さにもまけぬ
 丈夫なからだをもち
 欲はなく 決して怒らず
 いつもしずかにわらっている
 一日に玄米四合と
 味噌と少しの野菜をたべ
 あらゆることを
 じぶんをかんじょうに入れずに
 よくみききしわかり
 そしてわすれず
 野原の松の林の蔭の
 小さな萓ぶきの小屋にいて
 東に病気のこどもあれば
 行って看病してやり
 西につかれた母あれば
 行ってその稲の束を負い
 南に死にそうな人あれば
 行ってこわがらなくてもいいといい
 北にけんかやそしょうがあれば
 つまらないからやめろといい
 ひでりのときはなみだをながし
 さむさのなつはオロオロあるき
 みんなにデクノボーとよばれ
 ほめられもせず
 くにもされず
 そういうものに
 わたしはなりたい」

宮沢賢治『雨にも負けず』


2003年04月18日(金)



 将来

やるべきことが迫ってきてます。
人生の重大な節目と言ったら
大げさすぎるのかもしれないけれど、
そんな時期になってきました。

高校進学、大学進学と
そういった時期になると
決まってそうなのですが、
(前にも書いたと思いますが)
新しい生活への不安と
その生活に順調に移行できるかと言う不安が
大きくなって、とてもストレスが
たまります。

それは当たり前のことのようですが、
僕は、特に大学進学の時に酷かったのですが、
そのストレスに耐えられなくなって、
ハイテンション・・・
ヤケクソにも似た妙な興奮状態で
毎日を過ごすようになり、周りの友人から
「お前、大丈夫か?」と
心配されるほどになります。

当然、勉強の能率は悪くなり、
生活は乱れまくります。
特に大学浪人時代は酷くて、
受験二ヶ月前だと言うのに、
街を、酒によってさまよい歩いていました。
(実際、あれで、この大学とはいえ
よく受かったものだと思います。)

近頃も、そんな感じに
なって来ていて、ヤケクソまでは
行ってはいませんが、
勉強の能率、集中力が前と比べて
酷く下がっているのを否めません。

周りの友人からも、
もちろん冗談でですが、
「頭、おかしくなったんちゃうか?」っと
時々言われます。

冷静に、気楽に、
あまり思いつめないようにしないと・・・


2003年04月13日(日)



 

すごくいまさらだけど・・・。

気づいたけどさ。
「女が喜ぶ」と書いて「嬉しい」なんだね。
この漢字を作った人は男に間違いないね。

太宰は志賀直哉のことを
「結局、あいつは女房子供がかわいいだけじゃないか」
って言って非難したけど、
僕は「女房子供がかわいいだけ」なのが悪いこととは
まだ思えない。

だってやっぱ女が喜ぶと男は嬉しいもんね(笑)

2003年04月07日(月)



 嘘八百

僕は公務員一本なので、
履歴書をちゃんと考えて書くなんてことは
そんなにしたことが無くて・・・。
バイトの履歴書なんて、
読むほうも書くほうもおざなりで
十分だと思ってるし・・・。

大学の進路希望調書で
自己PRを書かなければいけなかったので、
おざなりでもよさそうではあったのだけれど、
周りはちゃんと書いていたので、
僕もちゃんと書いてみた。
何も書けなかった・・・。
実際、僕が思っている僕についてを
書こうと思ったら、この日記に書いているような
ことを書くことになる。
でも、どう考えたって、この日記に書いているような
ネガティブな自己像を書いたって、
人受けが良いわけが無いと思う・・・。
結果、嘘八百。

良い風なこと良い風に・・・
さして努力もしていないことを努力したように・・・
嬉しくも無かったことを嬉しく・・・
辛くも無かったことを辛かったように書く。
世間一般で受けの良い文章。感じ方。処し方。

自分で見るとすごく不気味な文章が書けた。

面接官や人事の人たちは、
この文章を見て、なんとも思わないのだろうかと思う。
不気味だ。すごく不気味。

完全な創作。誇張。気障。お体裁。

履歴書とは要するに、答案でしょうか?

2003年04月06日(日)



 方向

どうせ、僕らを夢中にさせるような、
僕らを満足させるような、そんなものは
世の中に無いんだ。と言わんばかりの閉塞感。
僕だけじゃなくて、僕の回りの友人全員が
感じているかのように、言い、行動しています。

僕らが弱いのだろうか?
僕らの意志の力が弱いのだろうか?
それとも贅沢を言いすぎなのだろうか?

挫折するもの。放棄するもの。
けっこう、いや、かなりいる。

迷っているんだ。
これから、何のために
生きていけば良いのか、わからないんだ。

どれが良いのかもわからずに、
人生の重大なものの決断を迫られて、
みんな苦しいんだ。辛いんだ。

トコロテン方式で、社会に押し出されていくことが、
未来を選択しなければならないことが、不安で、怖いんだ。


「【本当の】愛、【本当の】自覚、とは、どんなものか、はっきり手にとるようには書かれていない。この人たちには、わかっているのかも知れない。それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威をもって指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない。私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけない、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。誰も自信が無いのかしら。ここに意見を発表している人たちも、いつでも、どんな場合にでも、こんな意見を持っている、というわけでは無いのかもしれない。正しい希望、正しい野心を持っていない、と叱って居られるけれども、そんなら私たち、正しい理想を追って行動した場合、この人たちはどこまでも私たちを見守り、導いていってくれるだろうか。」

太宰治『女生徒』


2003年04月05日(土)



 誠実

「目の前で、腹をかき切って見せなければ、
誰も私の誠実、信じない」

こんな言葉を作家Dが言っていました。
うろ覚えですので、一字一句正確では
ありませんが。

結局、人に何かを伝えると言うことは
こんな風になるのかと思う。
人を信じるということは、結局
こんなことになるのかと思う。

人に信じてもらうためには、
突き詰めれば、
ここまでいかなければならない。本当か?

どうして許せないのだろう。
人の弱さ、自分の弱さを許せないのだろう。

「人を疑え」と、一体誰が
あなたに、僕に教えた?

「下衆の勘ぐり」と言う
言葉があるけども、じゃあ
世の中には下衆しかいない。

ちっとも疑わずに、
素直に、純粋に他人の言葉を信じている。
そんなことが、
ひとつでも良い、ありますか?



2003年04月04日(金)



 罪悪

「感覚だけの人間は、悪鬼に似てゐる。
どうしても倫理の訓練は必要である。」

太宰治『純真』


罪とか悪とかは
人間の作った概念だろうと思う。
そう考えると、自然状態の、
太宰の言う「倫理の訓練」を全くしていない人間は
罪とか悪とか言う概念がないわけです。
これはとても不思議で、不気味にも思えます。

少なくとも僕にとっては
罪悪感と言う感覚はとっても重要なもので、
重荷であり、生きていく上でもっとも苦しいものです。
なのにこの価値観、概念は人から教えられたものであって、
もともとの僕には
そんな感覚や思考はなかったと言うのですから・・・。

そんな、誰かから教えられた概念・価値観が
どうして個人の中でこんなにまで大きな部分を
占めることになるのか、不思議です。

罪の意識の重さに耐え切れず、
自殺する人だっているでしょう。
でも罪の意識と言うのはもともとは、僕らは
持っていないのです。

罪と言う意識を持っているのは
おそらく人間だけでしょう。
まぁ中には持っていない人もいるかもしれませんが、
他の動物に「罪」と言う意識があると言うのは
考えられません。

獣は戯れに他の動物を殺すことが
あるようですし、同種の個体を殺すこともあるでしょう。
でもだからと言って、トラやライオンが
罪の意識から自殺するとは考えられませんし、
ストレスを感じているとも思えません。
まぁ自殺なんてするのは人間だけですけれどね。

「知ってるか?人間は自殺する珍しい動物なんだぜ」
                  by『寄生獣』

じゃあどうして、人間は
罪の意識を持ち、そしてその罪の意識を
それほどまでに重要な価値観としているのでしょうか。

すぐに思いつくのは、
罪に対する「罰」の存在。
ようするに「罰」と言うことに対する怖れが
罪を大きな重荷として人に
認識させているのではないかと言うことです。
でも、誰からも罰せられる心配がなくても、
罪の意識に悩む人はいるだろうし、むしろ
そちらのほうが多いのではないかと言う気もします。
殺人を犯し、捕まらずに時効まで逃げ切った犯人が、
時効を迎えた後は、何の憂いもなしに
明るく朗らかに生活していけるとはとても思えません。
そういう人もいるのかもしれませんけどね。

いずれにしても「罰」がなくても
罪の意識に悩み、重荷としていく人は大勢いるわけです。

自分で言うと何だけど、(本当になんだけど)
僕も罪の意識、悪いことをしていると言う意識、
人に迷惑をかけていると言う意識に、
少なからず悩まされている人間です。
でも僕が僕の罪として感じていることを
(↑こんな書き方はキザったらしくていやだけれど)
他人に打ち明けてみても、誰も僕を責めてくれませんし、
罰しようともしません。
僕が「悪いこと」として感じていることは
みんなやっていることで、特にそれが悪いとは
思っていないようです。
一方、僕はそれが「みんなやっていること」で、
「みんなは悪いとは思っていない」と言うことを
知っても、まだ一人、罪の意識
「悪いことをした」「嫌な思いをさせた」と言う
思いに、相も変わらずかられているのです。

罪悪感・罪の意識と言うのはどこから来たのだろう。
そして、僕とみんなの違い、人を殺して平然としている人と
僕らの違いは一体どこから来たのだろう。

そんなことを卒論で書いてみようかしらと
思ったり・・・どうしようかな・・・。

2003年04月03日(木)



 ネット日記

この日記について。

僕の日記は、
「日記」じゃありませんね。
あまり日常的なことは書いていないし、
時間的にもいつ起こったことなのか正確では
ありません。

思うにネット日記って言うのは
やはり人の目に触れるってことが前提で、
また、それが書いているほうにとっては重要な
要素でもあって、だからこそ、この飽きっぽい僕が
二年も日記が続けることができたと思います。
でも二年も日記を続けると、特にそう思うのですが、
ネット日記って言うのは
基本的に小説、あるいは物語的な部分が
どうしても出てきてしまうのではないかと・・・。

人の目を意識して書いている部分が
必ず、僕だけではなくてみんなにあって、
それが意識的にせよ無意識的にせよ、
文章と内容に影響してくるのじゃないかと思うのです。
もちろん、創作として書いている人は
いないと思いますが、人の目に触れない、
つまり従来の、就寝前に手帳に書いて、
誰にも見られ無いように隠しておく、あの「日記」とは
ぜんぜん性質が違うものになるのじゃないかと・・・。
人に見せると言うことは、やはりそこにメッセージ性というか
何かしらの意図を伝達しようと言う意思があるものです。

「こういう風に書くことによって、
こういう風に読んでもらいたい」と言った意図が
どうしても出てくるもので、それは
自分ひとりが読者である「日記」には全くないものです。

いや、もしかしたら人に自分の事や、
自分の見た世界を伝えると言うことは
すべてそういう性質を持っていると言うことかもしれません。

だから、ネット日記だけを見て、
その人物の姿(人物像)を想像しても
それを現実のその人物と全く同一視することは
とても危険です。
その人物が悪意で自分を偽って書いている
場合はもちろん、全くの善意で書いていても。

しかし、逆に言うと、ネット日記に書いてある
人物が、あるいはネットで交流するその人物が、
〔ネットでは〕まさにその人であり、
現実では全く違った人であったとしても
〔ネットでは〕全く何の問題にはならないと言うのも
真実です。


ああ、なんだか凄く当たり前のことを
書いているような気がしてきた・・・。
現実生活でも、結局、人間関係では
同じことが言えるような・・・。

「人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。
自分自身においても、また他人に対しても。」

パスカル『パンセ』


まぁ何と言うか、
読む側の視点を考慮に入れて
文章を書いてしまうことがたびたびあるもので、
どうしても真実とか現実と言うものとの
「ズレ」を感じてしまうと言うことを言いたかったのです。

2003年04月02日(水)



 拒否する

Kさんのこと。

電話はけっこうショックで、
落ち込んだけれども、
もう、それほど引きずっていない。
ふった方というのはこういうものなのでしょうか・・・。

倫理的、道義的、あるいは実質的に
絶対付き合えないと言う状況を除いて、
女性をふったのは、実は僕はこれが初めてです。
つまり簡単に言うと、僕の意志だけで、
付き合うか付き合わないかを決められる状況で
「NO」と言ったのはこれが初めてなのです。
まぁ今回も「道義的」には付き合えない状況なのですが・・・。

「倫理的・道義的に」って言うのは
まぁ「筋」ってことと同じ意味です。
僕みたいな頭の固い、古いタイプの男は
「筋が通らない」って言うのも重要な判断材料に
なってたりするんです。

そう言う筋が通らない状況以外において、
僕は人から告白されると、「NO」と言うことが
出来ないタチなのです。
好きじゃなくても、そう言う目で見ていなかった人でも
断ることが出来ないんです。
日常些細なことですら、人から頼まれると「NO」と
言えない僕ですから、当然と言えば当然なのですが・・・。
ですから今回のことも、Dさん云々の話しが全くなかったとしたら、
それでもKさんに「NO」と言うことが出来たか、すごく疑問です。

まぁKさんも「どうせ付き合えない」と言うことは
承知で、最後のケジメとして電話をくれたようなのですが・・・。



2003年04月01日(火)
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