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2009年08月20日(木) レッドを出せない腰抜け審判

サッカーJ1第22節、新潟vsG大阪は、G大阪が2−1で勝った。この試合、酷いプレーが2つありながら、主審は適切なジャッジができなかった。この試合の審判団は、主審・鍋島將起、副審・中込均/前島和彦の3名である。

第一のプレーは、G大阪のルーカスが肘で新潟DFの顔面を打ったシーン。当然レッドであるが、イエローだった。ルーカスは、ナビスコで中澤(横浜M)の顔面を肘で打ち、骨折させている。そのとき、主審はファウルすらとらなかったらしい。ルーカスはこの試合で2度、肘を使って新潟の選手を傷つけた。一発レッドでなくとも、イエロー2枚で退場である。

第二のプレーは、G大阪の遠藤がペナルティーエリア内で、新潟のセンタリングを手で止めてハンドの反則。主審は、遠藤にイエローを出して新潟にPKを与えた。これもミスジャッジ。遠藤は一発レッドで退場が当然。

翌日の某新聞のスポーツ欄には、「試合巧者のG大阪」と、賞賛の見出し。呆れてものも言えないとは、こういうことか。

夏休みの試合ではないか。小中学生が見に来ているのである。こういう非紳士的、悪質、かつ非スポーツマン的プレーには、どんどん、レッドを出さなければ、青少年にいい影響を与えない。不正で勝利を得ることはあってはならない。通常ならば、G大阪は2選手が退場処分にならなければいけないわけで、当然、試合結果は違ったものとなったであろう。

主審がレッドを出せないのは、G大阪がビッグクラブだからか。ファウルを犯したのがルーカス、遠藤と、ビッグネームの選手だからか。ルーカスはパリ・サンジェルマンでプレーをした選手、遠藤は日本代表の中心選手だからか。新潟の選手が同じプレーをしたとしたら、レッドが出される可能性が高いような気がする。Jリーグの審判は、権威に弱いのである。

スポーツジャーナリズムがこういう悪質プレーをした選手と主審を批判しないことが不思議だ。Jリーグ、スポーツジャーナリズムのレベルダウン、劣化が止まらない。



2009年08月07日(金) いわゆる「松坂問題」について

MLB・ボストン・レッドソックスの松坂大輔が、米国メディアから、批判の集中砲火を浴びたという。その理由は、もちろん、彼が今シーズン、まったく活躍していないことが一番である。

報道のとおりだとすると、米国、とりわけ、ボストンのファンとメディアは、松坂のいまの状況について、以下の2点で不信感を抱いているものと考えられる。まず1点目、松坂が活躍できない理由として、彼がWBCに向けて調整を急ぎたこと、2点目は、松坂が米国式調整方法を批判し、自分の調子が上がらない理由として、レッドソックスの監督・コーチの指導方法を挙げたこと――のようだ。

前出の2つの松坂批判は、実のところ、同じことだ。松坂問題の根底には、投手に係る日米の考え方の相違がある。このことは何度となく当該コラムにて書いたことだが、繰り返すならば、こういうことだ。

ご存知のように、日本が優勝した09年WBC大会は、MLBの開幕の前に行われた。投手の場合、予選を含めると、本来、基礎体力を養う時期に本格的な投球を行ったことになるから、肩の疲労は蓄積したと考えるのが一般的だ。つまり、選手生命を考え、MLBで長い年月、働こうと思うのならば、イレギュラーなポストシーズンを敢えて入れることは得策ではない。肩に限らず、人間の筋肉には、鍛錬と疲労除去の両方が必要だというのが、スポーツ医学の常識だと思える。投手の場合、使用する筋肉は肩の内部(インナーマッスル)である。もちろん、小さい筋肉であるから、疲労は蓄積しやすい。消耗品だとする考え方もあるし、筆者はこうした筋肉に関する一般的な考え方を支持している。

ところが、日本の野球界においては、肩は投げ込みよって鍛えなければならない、いや、鍛え続けなければいけない、という考え方が浸透している。発展途上の高校生が行う甲子園野球では、200球近くの投球数を連続3日間続けることを“熱投”といって、メディアが賞賛するのである。予選を通じて、17〜18歳の高校生投手に対して、投球数制限をかけることなどあり得ない。予選、本戦を通して、ひたすら、投げ続けることが日本の高校生投手の「宿命」となっている。

日本では、プロ野球においても、こうした考え方が維持されていて、最近でこそ、先発(スターター)、中継ぎ(ホールダ−)、抑え(ストッパー)の分業制度及び先発投手陣中5日のローテーション制度が確立しつつあるものの、一流投手(エースと呼ばれる)は、先発完投しなければいけない、という価値観が支配している。それゆえ、1試合の投球数を100球程度とする考え方は、徹底されていない。

投手の分業制度は、球数制限だけから来るものではない。投手の出場回数を増やすという考え方もある。米国の野球が、先発陣とブルペンとに分けるのは、各投手(個体ごと)で異なる資質を伸ばそう、という考え方に由来する。たとえば、短いイニングならば、剛速球で打者を牛耳れる資質の投手ならば、ブルペン(中継ぎや抑えで起用)にしたほうがチームの勝率は高まるし、そういう資質の投手が試合に参加しやすくなる。逆に、軟投で制球力のある資質の投手ならば、100球程度で2〜3点の失点を覚悟の上で、スターターとして、いわゆる試合をつくる任務を負わせる。米国では、投手の職場をできる限り広げて、出場機会を増やそうと努める。

米国の職場は、実力主義、弱肉強食の競争社会であるとよく言われている。だが、必ずしもそうではないところもある。たとえば、歩合制の不動産仲介業者(「エージェント」と呼ばれる。彼らは独立事業者で、プロ野球選手に境遇が似ている。)を例に取ると、新人や売上が低い者には、顧客からの問合せや依頼が名指しのエージェントにではなく、オフィスにあった案件等)を優先的にまわしてあげるような互助制度が自然発生的に常備されている。こうした互助精神は、周囲の補助によって営業マン全体の力を増したほうが、自分たちの業績も連鎖的に上がること、さらに、エージェントの定着率が上がれば、職場の雰囲気がよくなり働きやすくなることを経験的に知っているからである。

松坂の場合、日本での実績はともかくとして、MLBではルーキー同然だった。そんなルーキーが昨年、大活躍をした。ボストン市民は、ルーキー営業マンが周囲の助け(互助の精神)により大成し、ナンバーワン営業マンに成長したことをわがことのように喜んだのである。ルーキーの成功は、その者の努力もあるが、それだけで達成されるものではない、というのがアングロサクソンの経験主義的了知なのである。

ボストン市民は、松坂が米国(MLB)で成功した要因の1つが彼の努力であることを認めつつも、もう1つの要因が、レッドソックスのコーチ、監督、チームメートの助けだったものと確信しているはずだ。だから、春先、松坂がWBCに入れ込む姿をみて、大いに心配をしたはずだ。「おいおい、マツザカ、そんなことしたら、シーズンでたいへんなことになるぞ」というわけだ。

WBC参加は、選手にとってリスクが高い。シーズンで活躍できなくなったら、ギャラは下がるしレギュラーの座を奪われる。もちろん、ファン、メディアの批判も強まる。こうしたリスクを克服するには、シーズンで活躍する以外ない。イチローは序盤の不振を克服したが、松坂の場合は残念ながら、うまくいかなかった。

そればかりか、松坂が米国流調整法を批判したと報道されたことは致命的だった。前出のとおり、ルーキー松坂の大活躍の裏には、レッドソックスの監督・コーチ・チームメートの助けがあった(はずだ)というのがボストン市民の共通の感情だ。「マツザカは助けてくれた監督・コーチを、逆に、批判したのか」と、もう黙ってはいられない。ボストン市民から総攻撃を受けるのは当然である。

“郷に入らば、郷に従え”である。松坂がMLBで仕事を続ける気ならば、米国の価値観に従うしかない。肩を消耗品としてとらえるか、鍛えれば鍛えるだけ強化できるものなのかは、筆者は医学者でないからわからない。しかし、アングロサクソンの経験主義を尊重するならば、それは前者のようであるような気がする。松坂は米国の調整法に従うべきである。MLBと日本プロ野球を比較すると、MLBの方が選手生命の長い投手が多いように思われるからである。このことは、データで証明できることなのだろうか。


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