Sports Enthusiast_1

2005年07月30日(土) 「巨人軍」を斬る

サッカーの試合がないので、プロ野球について書く。
筆者にとって理解できないのが、「巨人」ファンという存在だ。読売は有り余る戦力を金でかき集めたにもかかわらず、この時期、地力優勝の可能性をなくした。後半戦、巻き返したとしてもせいぜいAクラスがやっとだろう。
そんな読売がホームで中日の川上にわずか2安打完封負け。前日も阪神に一方的に負けている。普通ならば、試合後、ファンからブーイングを浴びるだろう。とりわけ、ブレーキになったのが清原。彼はチャンスに併殺打を打ったりと元気がない。高い年俸、走れない、ホームランはムダ打ち、空砲が多く、勝利に貢献しない。となれば、スタンドから、「引っ込め」の野次の一つが出てもいい。ところが、ホーム東京ドームでは、彼が打席に立つたびに、飽きもせずの大合唱に包まれる。凡退しても三振しても、同じような光景なのだ。
サッカーだったら、清原のような選手には、見方サポーターから、ブーイングが浴びせられる。だらしのない負け方が続けば、サポーターは選手の乗ったバスを取り囲み、クラブ側に今後の対策を厳しく問う。日本のサポーターは甘いほうで、南米ならば、練習場に死んだ鶏が投げ込まれる。
スポーツジャーナリズムも黙ってはいない。早速、監督更迭記事が氾濫し、クラブ側は人選に入らざるを得なくなる。ところが、日本プロ野球の人気球団読売に対しては、ファンもスポーツジャーナリズムも、何の反応もないどころか、十年一日のごとく、大応援団がメガホンを叩きカネや太鼓を打ち鳴らし、歌や手拍子で応援し続け、新聞は提灯記事を書いている。こんな不健全な環境を筆者は知らない。
読売に比べれば、阪神は健全だ。大阪の某スポーツ新聞は過激だし、負け続ければファンは球場に足を運ばなくなる。無気力選手には、スタンドから厳しい野次が飛ぶ。阪神ファンこそが、ファンのあるべき姿なのだ。
読売で厳しいのは、オーナーのナベツネ氏ただ一人。彼は弱い「巨人」を批判し、選手を罵倒し、マスコミとも戦っている。ナベツネ氏ただ一人が、健全な批判精神をもって、巨人に接しているといえる。ただ残念ながら、ナベツネ氏は野球を知らないから、過激な方針が結果に結びつかない。ナベツネ氏がもっと野球を勉強していれば、監督人事・球団運営等において、的確な対策が講じられるのだ。
たとえば、後半戦、読売は若手起用に切り替えた。堀内監督の選手起用が転換されたのだ。それはいいことだが、大きな政策転換というものは、同じ指導者の下でやってはいけない。新しい哲学は新しい哲学者が説くべきなのだ。古い哲学者が新しい哲学を説いても信用されないのが世の常というものだ。
それだけではない。選手は新しい哲学を信用していいものなのかどうか迷うはずだ。哲学者が掌を返すように、自らの体系を変えたとしたら、それを信じる人はいない。監督だって同じなのだ。選手が安心して、新しい方針の下に結集するためには、オーナーに信任された新しい指導者でなければいけない。シーズンが終わってから新人事を発表するのは、時間の無駄というものだ。せっかく後半戦という実践の時間をもっているのだから、新しい方針を新しい指導者の下で始めればいい。そうすれば、来シーズン、助走期間がまず要らなくなる。選手だって新方針に乗りやすい。
人事というのは、合理的でなければいけない。合理的であればあるほど、いい結果を早く出すことができる。
ナベツネ氏はすでに、オーナーとして、単純なミスを犯している。堀内監督の方針が転換されたいま、堀内監督を起用し続ける合理的理由は、筆者には見つからない。



2005年07月26日(火) 国家のための「代表」ではない

東アジア選手権を戦う日本代表だが、ジーコ監督は同大会において、控え、若手を中心にすると明言し、田中(浦和)、村井(磐田)といった、フレッシュな選手選考を行った。その一方、故障が完治せず、Jリーグでも15分限定で出場している久保(横浜)の召集にこだわった。召集に応じない久保及びクラブに対し、「代表は国のために・・・」という意味の言辞で非難したと伝えられている。
この発言は危険だ。代表ならなんでも優先という時代ではない。欧州のクラブでは代表戦出場よりは、クラブ優先が確立している。なぜならば、選手(久保)の個人的事情を考慮すべきだからだ。選手はできるだけ長く現役を続け、生計を支えなければいけない。故障をおして代表ゲームに出場することが、選手生命を失う可能性に結びつくことだってある。クラブの事情もある。横浜が後半巻き返すためには、元気な久保を必要としている。「代表」というのは選手にとってもクラブにとっても、絶対的価値観でないはずだ。
もっと重要なことがある。代表召集を断ることをもって、久保が「国家への貢献や忠誠」という観点で貶められる理由はない。ジーコ監督の「久保批判」は、サッカーとナショナリズムを結びつけた危険な発言だ。日本サッカー協会は、ジーコ監督に対し、久保と横浜への謝罪及び発言取り消しを勧告したほうがいい。
日本の多くのサッカー愛好家は日本代表を応援するけれど、国家のために代表選手が戦うことを求めていない。代表が勝つことが国家の威信に結びつくとも思っていない。日本の多くのサッカー愛好家は、近隣の某国のように、「将軍様」や「共和国」のために戦う代表を求めていない。代表選手は国の奴隷や道具ではない。国の代表より、選手個人の尊厳が優先されなければならない。
久保はこの期間を利用して故障を直し、復活して代表に戻ってくればいい。代表復帰の条件は、Jリーグで活躍することだ。それができなければ、久保が代表に戻ることはない。そんなことは久保自身がもっともよく分かっていることだ。
日本のサッカージャーナリズムは、代表監督の“危険な発言”を批判してほしい。ジャーナリズムがまずもって、代表万能、代表絶対、代表=国家の威信、という思考回路を断ち切ってほしい。ナチスドイツは、「民族の祭典」と称して、国家と五輪を結びつけた。国家とスポーツを結びつけたがっている政治家は、いまの日本にだっている。



2005年07月25日(月) お詫びと訂正

昨日、当コラムで東京Vの新監督がぺリマン(元清水監督)になると書いてしまったが、誤りだった。報道では、東京Vは25日、ブラジル人のバドンが新監督に就任すると発表したらしい。筆者はバドンの名前を知らなかったが、ブラジル全国選手権で首位に立つポンチプレタを指揮。このたび、東京V監督就任のため、ポンチプレタ監督を辞任して来日する。契約は今季終了まで。バドンはグアラニ、サンパウロなどブラジルのクラブで豊富な指導歴を持つ。
いずれにしても、バドンはブラジルでは有名な監督のようだ。サンパウロといえば、先のリベルタドーレス杯優勝クラブだから、強豪にして名門だ。そこの監督を務めたというから、相当の力量だろう。



2005年07月24日(日) 折り返したJ1

Jリーグは連戦が終わり、再び、休戦に入る。折り返しを過ぎたところなので、課題が多かったクラブにとってこの休戦期間は、その克服の絶好の機会となるはずだ。
3試合も大量失点による大敗を屈した東京Vの次期監督として、元清水監督のぺリマンが就任するらしい。とりあえず筆者が反対したラモスの監督の芽はなくなって、まずは賢明な選択だとは思うが、ぺリマンに期待できるかとなると、疑問符もつく。その理由は2つある。ぺリマンの指導理念がイメージできないことだ。清水時代、どのようなサッカーをやったのか、筆者の記憶に残っていない。もちろん、このことは筆者の記憶力の悪さに起因するものであって、ぺリマンが悪いわけではない。もう1つは、ぺリマンがいかなる人材を発掘し育成したのかも記憶がない。この2つについては、ご存知の方より、ご教示をいただきたい次第だ。
千葉は過激な攻撃重視=2バックを修正し、3バックに戻して守備を安定させた結果、2連勝した。おそらく、この流れを後半に向けて持続するだろう。順位はさらに上がるだろう。
浦和は切り札エメルソンの移籍、アルバイの放出で外国人枠2つが空いたところに新外国人を補充した。2人ともどんな選手なのか情報がないので、評価を控える。
好調鹿島も外国人を補強するらしい。優勝に向けて万全の体制づくりか。
これ以上戦力を補強できないくらい選手が余っている磐田は、コンビネーション醸成の絶好の機会。磐田の最大の課題はFWの安定につきる。ゴンが先発するようなら、チーム改造は遅れるばかりだ。
J2落ちの最有力候補の神戸は、現体制では強化に時間がかかりそうだ。どうせJ2に陥落するのならば、もっとトライアルしてほしい。指導者選び、補強、戦術選択等々すべてが中途半端。J2に落ちて、一から出直したほうがいい。
Jリーグとは関係ないが、監督といえば、フランスリーグマルセイユの監督を解任されたトルシエが、アフリカのナイジェリア代表監督に就任した。アフリカでは、代表監督として実績あるトルシエだけに、期待される。
来日するマンチェスターユナイテッドのファーガソン監督が、A新聞にコメントしていたけれど、ファーガソンも指導理念の一番に「規律」を挙げていた。ルシェンブルゴもレアルマドリードの監督に就任したとき、同じように「規律」を強調していた。ベンゲルもヒディングもレオンもそうだ。グローバルに活躍する多くの監督が「規律」を強調する。「創造性」「自主性」という言葉は見出せない。サッカーがチームプレーである限り、規律(組織)があり、その下に自由や創造性が帰属する。何度も当コラムで書いてきたことだけれど、日本の一部ジャーナリズムはいまだに、そのことを理解していない。早く目を覚ましてほしい。



2005年07月22日(金) ラモス監督には反対だ

東京Vのアルディレス監督が解任された。筆者は当コラムで彼を名将と賞賛したこともある。そんな「名将」に何が起きたのか、どこでどう歯車が狂ったものか外部の人間には分からないのだが、結果からみて、クラブが彼を解任した措置は当然だ。
東京Vといえば、前身は日本リーグの読売クラブ。Jリーグ発足時にはヴェルディ川崎と改名し、カズ、ラモス、北澤、柱谷といった代表レギュラークラスを抱える常勝軍団だった。当時の日本代表はW杯アメリカ大会アジア地区予選をドーハで戦い、イラク戦、試合終了直前のロスタイムに同点ゴールを決められ、W杯出場を逃した。この試合は、いまでは伝説と化し、「ドーハの悲劇」として日本国民の記憶の中に生き続けている。
4年後のフランス大会では、日本はアジア地区予選プレーオフでイランを破り、初出場を決めた。ところが、W杯直前合宿において、カズ、北澤の2選手が日本代表から外されるというハプニングが起きた。二人が代表から外された理由は不明だが、当時大スターだったカズの代表落ちは大きなニュースだった。
さて、読売クラブ→ヴェルディ川崎→東京ヴェルディと呼称は変わったものの、このクラブが読売グループにより経営されていることに変わりはない。そして、Jリーグ黎明期、日本サッカー界の人気を独占した常勝クラブであったにもかかわらず、その中心選手だったカズ、ラモス、北澤らはW杯に出場していない。そして、いま、カズはJ1神戸からJ2横浜FCへの移籍が決まり、また、S級ライセンスを取得したラモスは、東京Vの次期監督候補と噂され、境遇は異なるものの、二人は共に報道の渦中にある。
ここからが本題だが、筆者は、ラモスが東京Vの監督に就任することに反対する。ラモスが監督一年生だからではない。ラモスに限らず、だれだって、監督デビューのときは一年生だ。筆者がラモスの指導者としての資質を知らずして、東京Vの監督就任に反対する根拠は、ラモスはおそらく、彼が活躍した読売クラブ、ヴェルディ川崎のサッカーイメージを払拭できないと思うからだ。
ラモスはかつて、エメルソン・レオンが監督としてヴェルディ川崎に就任することを聞いて、京都に移籍した。ラモスの移籍理由は、彼がレオンの指導理念である規律重視を嫌ったからだといわれている。サッカー観は人それぞれで異なることは当たり前だが、レオンはその後、ブラジル代表監督に就任し、短期間で解任された後も、ブラジルリーグの多くのクラブで監督を歴任した。今シーズン、J1神戸に招聘されたが、不可解な解任にあい、いまはパルメイラスの監督におさまったようだ。
監督レオンを嫌ったラモス→ラモスが活躍した読売クラブ・V川崎→現役時代のラモスのプレーと、イメージをつなげていくと、監督ラモスが目指すサッカーの質がなんとなく見えてくる。その幻影は、おそらく、いまのJリーグのレベルにはとどかないもののように思える。
東京Vの課題は、つなぐサッカーから、走るサッカー、パワフルなサッカーへの脱皮だ。具体的には、一対一に負けない当たりの強さ、相手に走り負けないスピードと運動量、攻守の切り替えの早さ、チーム戦術を理解する規律重視・・・といった基本の復元にある。簡単にいえばパス&ゴーだ。
ラモスがどういうサッカーを目指すのかわからないものの、東京Vの改造はこのクラブの悪しき「伝統」を払拭するところから開始されなければならない。新生ヴェルディを立ち上げるには、読売クラブ以来の「伝統」を否定する指導者の方が向いている。(文中敬称略)



2005年07月18日(月) こちらの読売も・・・

野球の「巨人」(読売)とともに、サッカーJリーグの東京ヴェルディ(読売)も崩壊状態だ。再開後2試合続けて7点取られて負け、きのうも磐田に6点取られて負けた。サッカーで6点、7点というのはよほどの実力差がない限り開かない点差だ。たとえば、天皇杯で高校チームとJ1チームが試合をしても、そんなに点差は開かないどころか、高校チームが勝つこともある。
東京Vの不調の原因はなにか。素人考えだが、東京Vが今年の元旦、天皇杯で優勝したことではないかと直感している。うまく説明できないけれど、いまのJリーグ各チームは、千葉のオシム監督の指導理念の影響を受けて、選手、戦術が著しく進化している。レギュラーの条件としては、まずスピード、そして、機を見て上がり、かつ、守備で下がることができる豊富な運動量が挙げられる。チームには必ず、サイド攻撃ができるタレントがいる。FWは、DFとGKの間=点で合わせられなければ話にならない。トップ下はもちろん、ボランチ、DFも「二列目」「三列目」として、攻撃参加が求められる。チーム全員がカウンター攻撃の形を会得していなければいけない。
ところが、東京Vは足元のパスが中心で、通る確率の低いスルーパスやペナルティーエリア内でのワンツーが攻撃の中心になっている。攻撃の核であるワシントンは大柄だが意外と足元のうまい選手。だが、サイドからのロビングやGKの前であわすスピードに欠ける。平本も裏を取る以外はシュートチャンスを得ることがない。守備は攻撃と同じくらい時代遅れで、運動量が少ないから、相手のカウンターをまともに食らってしまい、攻めあがってくる分厚い攻撃に耐える人数が確保できない。加えて、相手のサイド攻撃では、簡単にマークを外してしまう。これらが大量失点の原因ではないか。
今年の天皇杯では、幸か不幸か、これまでの「ヴェルディサッカー」で先行し、残り時間は下がって守備に徹して逃げ切って勝った。結果、伝統的「ヴェルデイサッカー」で、Jリーグも勝負できると思っていたところが、ほかのチームはみな、進化してしまったというわけだ。いうまでもないが、千葉を筆頭に、新潟、清水、大宮はカウンターが得意だ。磐田も若い選手の台頭でスピードが出てきた。浦和は元々スピードのあるチームだ。上位の鹿島、横浜も・・・と、Jの各チームが東京Vを追い越していった。Jリーグ18チーム中、東京Vがまともに渉り合えるのは神戸くらいしか残っていないのかもしれない。いまの順位が当然のように、それを証明している。



2005年07月17日(日) 女子バレーを守れ

ここ数年、Fテレビの女子バレー世界大会の私物化にはあきれていた。アイドルグループを「応援隊」にして、人気を煽っていた。今年はその「応援」アイドルグループのうちの未成年者が飲酒で摘発され、補導されてしまった。Fテレビはライブドアが買収を目指したところ。そのとき、自分達テレビ局は「ジャーナリズム」だと主張し、「ネット屋」とは違うかのような発言をしたものだが、Fテレビはエンターテインメント企業であって、断じてジャーナリズムではない。アマチュアスポーツの女子バレー大会とアイドルグループをくっつけて、視聴率を稼ごうとしたのだから。
女子バレーがおもしろいかどうかは、それぞれ見る側の趣味の問題。筆者はスポーツファンだけれど、全然興味がない。セットをとるのに長時間かかるし、攻撃パターンは単調だし、ジャンプ力は驚異的だけれど、テクニックに味がないような気がする。
でも、アマチュアスポーツとしては世界中にプレイヤー、チームが存在しているので、少なくとも野球よりは国際的だ。日本では人気があり、東京オリンピックのとき「東洋の魔女」が金メダルをとって、一躍メジャースポーツにのし上がった。「東洋の魔女」は非人間的猛練習で栄光を手に入れたと聞いているが、外部の者に実態はわからない。
どちらかといえば、地味なバレーボールが東京五輪を機に日本でメジャー化した。しかし、内容にスペクタクル性が欠けているため、人気に翳りが出た。そこで、Fテレビが「てこ入れ」をしたのだ。「てこ入れ」の手法は、スポーツと乖離した内容だった。選手をあだ名で呼びアイドル化し、「応援隊」としてアイドルグループを起用したのだ。ターゲットはローティーンの少女層だ。
Fテレビの芸能路線=「てこ入れ」は、人気回復面では成功した。世界大会の会場は満席だし、応援も派手だ。アイドルグループ目当てのローティーン層が会場に詰めかけ、女子バレー人気はバブルと化した。そのバブルが「飲酒事件」ではじけたのだ。スポーツとは無縁のアイドルグループがスポーツとは無縁の「飲酒事件」を起こし、過酷な練習に励む選手たちの努力を無駄にした。
女子バレーをスポーツとして楽しもうとする層は、Fテレビの中継を見ない。芸能化する女子バレーにスティグマを感じ、自分がスポーツとして興味をもったことを恥じる。当然のことだ。
スポーツを芸能化し特殊なコンテンツに加工するFテレビには、スポーツ大会を運営する資格はない。中継をする資格ももちろんない。日本のバレーボール協会が真に機能しているのならば、スポーツを冒涜するFテレビの人気獲得路線に異を唱えるべきだ。協会が選手とバレーボールを守ろうと思うのならば、いまからでも遅くないから、人気(視聴率)偏向のFテレビとの提携を破棄すべきだ。
協会が良識を示せないのならば、協会、Fテレビ、アイドルグループの3者に選ぶところはない。芸能路線のバブルに踊った3者は同罪と見たほうがいい。



2005年07月16日(土) 読売崩壊か

プロ野球セリーグでは、読売がひどいことになっている。読売については、昨年、今年とスポーツマスコミが充実した戦力と評して優勝候補に挙げてきたが、期待を裏切っている。読売が勝てない理由については、当コラムで何度も書いた。OBを含めて優秀な指導者を抱える読売が、素人でも指摘できる誤りをただせない理由がわからない。
読売のチーム作りの失敗を象徴する存在が清原だ。打率2割そこそこ、ホームランはリーグ4位だが、貢献度は低い。
シーズン前、そもそも堀内監督は清原を戦力外と規定したが、ファンやフロントに押し切られ、「手打ち」となった。清原はシーズンに入って歴代ホームラン記録を塗り替えたので活躍しているように見えるが、勝利には結びついていない。それでも彼が打席に入ると、スタンドから歓声が沸きあがるのだから、読売のファンの気が知れない。サッカーならば、ブーイングだ。MLBでもそうだ。年俸が高いくせにお粗末なプレーを繰り返せば、サポーターが非難するのが普通なのだが。
使えない選手の起用を世間、フロンから強要され、結果が出なくても選手は責められないで、監督が非難される。この構造を見ると、読売というところは、ファンも球団も倒錯しているとしか言いようがない。
清原ばかりではない。江藤、ローズ、小久保・・・と、強打者の獲得には成功したが、彼等が強打者ぶりを発揮しない。読売のチーム作りは、各ポジションのトップ選手を集めれば総体的に最強チームになる、という単細胞発想だ。野球がチームスポーツであるということは、各選手に役割があることを意味する。そのことは守備で明確だが、打線でも同じなのだ。打線において、クリーンアップを頂点と考え、その脇に従って底と考えるのが一般的だが、実力が拮抗し投手のレベルが高い国内トップのリーグでは、打線に役割が求められる。読売がカネにまかせて野手を集めるのならば、それぞれのポジションで最も優秀な選手を集めるのではなく、各チームで最も優秀な1番から8番までの打者を集めればいい。ただし、守備を考えると、この仮説はおそらく実行不可能だろうが。
厚い選手層を誇る読売ならば、そこまでしなくても、自軍が抱える全選手を成長性、将来性を含めて再評価(棚卸)をし、清原、江藤、ローズ、小久保とダブついた「四番打者」を整理することだ。それをスクラップ&ビルド(S&B)という。S&Bの理念は、スピード、パワーという野球の基本に立ち返ることだ。
読売のもう1つの弱点は、外国人選手獲得が下手なことだ。今シーズン、スポーツマスコミの評価では超Aクラスと喧伝された2人のメジャーが、すでに解雇されている。さらに急遽即戦力として来日した3Aのストッパーも日本で結果を出すには時間がかかりそうだ。使ってみなければわからないのが外国人選手というけれど、MLB側が契約した日本人選手は、ほぼ全員がそれなりの結果を出していることから考えると、読売の外国人選手契約の歩留まりは低すぎる。海外担当スカウトに選手を見る目がない。
読売はFA、自由枠、MLBと、即戦力をかき集めてきたつもりだろうが、チーム内には競争原理が乏しいのではないか。読売の選手になったということで、若手選手が向上心を失っているのではないか。いや、上がつっかえていて、成長できないのか。
S&Bと並行して、積極的なトレードも必要だ。読売ならば一生飯が食えるということもあるまいが、二軍を含めた選手の入れ替え(上下)を積極化するとともに、トレードを活用(左右)して、チームを活性化することだ。
二軍では、筆者の好きな鈴木がケガから復活している。彼のスティールを一軍で早くみたいものだ。



2005年07月13日(水) 勝点1でもいいのに・・・

もったいない。横浜vs千葉、後半ロスタイム、横浜が坂田のゴールで2−1で逃げ切った。アウエーの千葉、ロスタイムになっても2バックのまま、勝点“3”にこだわった。オシム監督(千葉)が、リーグ戦折り返し点に至らないいまの時期、勝点3にこだわった理由がわからない。攻撃的でおもしろいサッカーを目指すオシム監督の理念を理解するが、「勝負」より「勝点」にこだわってもよかった。“潔い”といえばいえなくもないが・・・
さてこの試合、山瀬(横浜)、坂田(横浜)、田中(横浜)、阿部(千葉)といった、若い才能が輝いた。おそらく、ドイツ大会以降、彼等が日本代表を担うだろう。
なお、この試合の主審の笛は的確だった。いまのJ1の主審の中で、最高の主審の一人だろう。ファウルと適正なチャージの違いが、きちんと見えていた。激しいプレーが多いにもかかわらず、ファウルやカードが少なかった。主審の笛、両チームの選手の運動量、激しさが噛み合い、いい試合だった。厳しいスケジュールの中健闘した両チームに拍手を送りたい。いい試合だっただけに、千葉のファンの一人としては、勝点1でもよかったんだが・・・



2005年07月10日(日) 「楽天不買運動」するしかないな

再開後のJリーグについて、触れておこう。
今回は、千葉、神戸という2つのクラブの存在に注目してみた。どちらのクラブにも、有名選手はいない。神戸にはカズという往年の名選手がいるが、いまはベンチを外れている。年俸比較でどちらのクラブが選手にカネをかけているか不明だ。もしかしたら、神戸の方が上かもしれない。いずれにしても、Jリーグ中、両者が保有している選手の資質に差がない。それでも、チーム活力及びやっているサッカーの質については、大きな隔たりがある。
Jリーグの中で、オーナー(経営者)が真剣にクラブ運営に取り組むのか、それとも、無策のまま、監督を更迭し選手を非難するというパフォーマンスでお茶を濁すのか。両者のクラブ運営の差は大きすぎる。

●オーナーの責任だ―ヴィッセル神戸―
中断中、監督を替えてリーグ戦に臨んだ神戸(楽天)だが、結果が出ない。チームの惨状を見た三木谷オーナーは、今度は選手に向かって、「気合が足りない、男として情けない」とコメントしたらしい。とんでもない話だ。クラブ運営、強化策を怠り、結果が出ないといっては監督を更迭してきたツケがまわっているだけではないか。結果が出ないのは、監督や選手だけの責任ではない。だれがみたって、神戸(楽天)の戦力は落ちる。このことは何度も当コラムで指摘してきたとおりだ。
そのことに手を打たず、監督を更迭し続け、挙句の果ては選手を非難するとは見当違いもはなはだしい。では、オーナーの責任はどうなのか。神戸のサポーターは温厚だから騒がないけれど、浦和や柏だったら、サポーターが黙っていないだろう。クラブ側にチームの具体的打開策を問うだろう。神戸のサポーターなら、「楽天不買運動」でまず、やる気のないオーナーに活を入れる。「男として情けない」と非難されるのは選手ではなく、無策のオーナーではないか。
サッカーのクラブは、金持ちオーナーの私物ではない。プロ野球のときに議論されたとおり「公共財」だ。である以上、神戸(楽天)はクラブ運営に真剣に取り組んでほしい。また、神戸(楽天)のクラブ運営手法及び運営姿勢を問題視しないマスコミの責任も大きい。オーナーが、マスコミを使って選手を非難するとは・・・

●驚嘆の2バック―ジェフ千葉―
オシム監督(千葉)が、すごいことを始めた。2バックだ。再開初戦の神戸戦は相手が超守備的布陣を敷いたので2バックにしたものと思っていたが、どうもそうではないらしい。2バック千葉は初戦、そのシステムが裏目に出て神戸に先行され引分け、次のC大阪戦は0−2で負け、そして、3戦目の新潟戦、どうにか3−2で再開後初勝利を上げた。
2バックはストヤノフ(右)、斉藤(左)、4バックのSBに当たるのが坂本(右)、山岸(左)で、ボランチより上は変わらない。二人のSBが極端に上がり目のポジションをとった布陣とも言えるが、きわめてリスクが高い。千葉の陣形を想定して相手が3トップできたらどうするのか。たとえば、鈴木、アレックスミネイロ、本山のような3トップに近い鹿島と戦う場合、スルーパス一本で一瞬にして相手に数的優位をつくられてしまうだろう。MFの人数を増やせば攻撃は厚くなる。相手のクリアボールを拾いやすくなり、攻撃時間が長くなる。しかし、裏を取られたりスペースを使われる危険もある。
オシム監督は手馴れた3バックをあっさりと清算して、新システムに挑戦した。解説のM氏によると、その意図はマンネリ打破だという。選手、チームに新しい課題を与え潜在能力を引き出し、選手個々の能力を高めるためではないか、というのだ。おそらく、そうだ。しかも、試合が集中する7月に新システムを試したのは、短い間隔で試合が組まれた時期こそ、新システム習得の絶好機だと考えたからだろう。
オシム監督は、Jリーグのレベルが上がらなければ代表のレベルが上げるわけがない、という。オシム監督の情熱には頭が下がる。
神戸(楽天)は、オシムのような指導者として、ブラジル人のエメルソン・レオンを選んだのではないのか・・・



2005年07月09日(土) 野球が五輪から消える

2008年北京大会を最後に、野球が五輪から消えることになった。当然と言えば当然な話で、ラグビー、クリケットが英国圏のスポーツで五輪競技とならないの同様に、野球も中米・北米・東アジア限定のスポーツという認識が世界に定着したことになる。
野球が世界規模のスポーツになる可能性は、これで完全に絶たれたと思う。この先、野球は米国のMLBを頂点にして、中米諸国、東アジア諸国、そして、オーストラリアが細々と支えることになる。
日本人は野球が好きだが、なぜ、野球が突出して人気スポーツになったかは不明だ。プロ野球創設者が卓抜した人気獲得作戦を展開したことも無視できない。親会社のマスコミを使って大宣伝を敢行し人気を獲得したのだが、この手法はプロスポーツの正常な成長とは違った。いまのプロ野球の歪みも、そこに理由がある。
日本人はそろそろ、某新聞社の洗脳から目を覚ます。今回、野球が五輪から除外された事実は、日本人に覚醒を促すに違いない。野球を通じて世界に近づくと考えた日本人の「世界」とは、たかだか米国という特殊な外国の1つにすぎないことに気が付き出したのだ。
五輪野球で思い出すのは、幻の「ナガシマジャパン」のことだ。病に倒れた長嶋監督に代わって指揮をとった中畑氏は、長嶋氏のユニフォームをベンチに飾った。そして、選手はそのユニフォームに参拝して試合に臨んだのだ。この「神頼み」は、スポーツ(プレー)のあり方の対極に位置する精神主義だった。スポーツをすることを英語で、play(遊び)という。日本人は野球をする(play)のではなく、祈った(pray)のだ。五輪から野球がなくなって、本当によかった。



2005年07月04日(月) 1つの時代が終わった

プロ野球、読売ジャイアンツの終身名誉監督・N氏が復活した。脳梗塞の後遺症であろうか、右手はポケットに入れたままだが、たいへん元気な様子だった。N氏の完全復活を心より祈りたい。
N氏については何度も当コラムで書いた。1950〜60年代、野球少年だった人ならばだれでも、N選手のようになりたかった。N氏の存在はまさしく奇跡だった。それは、敗戦から驚異的復活をとげようとする日本経済にアナロジーされる奇跡だった。N氏は野球を通じて、天才の輝きを放った。
さて、21世紀、プロ野球をとりまく環境は変わった。日本人として非凡な才能を誇る野茂、イチロー、松井らがメジャーリーグ(=MLB)で活躍するようになった。しかし、私たちは、米国から送られてくるTV中継映像で彼等のプレーを見ても、あの日のような感動はない。反対に、MLBでは彼等がせいぜい上級の部類に属する選手に過ぎないことを知らされる。日本のトップは、MLBのやや上の部類か・・・と。
私たちが見たN氏。あれは幻影だったのだろうか。私たちはなぜ、N氏のプレーにあれほどまでに魅せられたのだろうか。それを最上、最良質のプレーだと信じて疑わなかったのだろうか。私たちはあのとき、MLBを知らなかっただけなのだろうか。そんなことはない。あのころの日本人がN氏のプレーに心躍らせ、憧れ、スーパースターとしてあがめたことに間違いはない(はずだ)。N氏こそが、最大のスーパースターである(はずだ)。あの当時、日本人がN氏をスーパースターと考えたことを、日本市場の閉鎖性に重ねるつもりはない。スポーツにおける国民的英雄というものは、国民の中で一番うまければいい(はずだ)。
時代は変わった、そして、私たちの信じた時代は終わった。N氏に託したような夢を、私たちはもう二度とみることがない(のかもしれない)。



2005年07月03日(日) Jリーグ再開

再開されたJリーグ、神戸vs千葉のTV中継を見た。この試合で注目すべきは、神戸のパベル新監督の采配ぶりだ。結論を言えば、このような戦い振りが続くのならば、神戸の将来は期待できない。
神戸のシステムは、4−4−2で、平瀬、小島の2トップ。前半は、MF、DFの8人がセンターラインより前に出ないでスペースを消す作戦に出た。攻めあがりの運動量を信条とする千葉は、DFを2人に減らし、攻めの人数を増やし圧力をかけてはいるものの、決定的なチャンスが生まれない。千葉のバックパスが増え、時間が経過する。まるで、W杯のアジア地区1次予選を見ているようだ。
前半21分、幸か不幸か、神戸のセンターライン付近から小島に出たロングボールを千葉の2人のDFが重なり合い、前にこぼれたボールをオフサイドの位置にいた平瀬がシュート、ゴールに吸い込まれた。TVで見る限り、オフサイドだと思うが、判定はもちろん、覆らない。
神戸にとって幸運ともいえる得点だが、千葉の調子も悪かった。カウンター攻撃に徹した神戸に、中盤でプレゼントボールとも思えるパスミスを再三繰り返したのだ。不用意というか、不注意というか、千葉のリズムは悪かった。
さて、ラッキーな得点で逃げ切れたとしたら、パベル采配の勝利ということになるのだろうが、ホームで度を越した消極戦法をとる新監督に、勝利の女神は微笑まない。
後半、圧倒的にボールを支配した千葉が1点を返し同点、その後は千葉の放ったシュートがポストにきらわれたり、神戸GKの超美技に阻まれで無得点、同様に、神戸もロスタイム近くに決定的なチャンスを迎えたものの、千葉GKの美技に阻まれ、引き分けた。
結果を求められる監督だが、ホームで自陣に引きこもり、カウンターに徹する展開でサポーターは納得するのだろうか。神戸の得点は、千葉がDF2人という超攻撃的陣形を組んだ結果に、オフサイドを認めなかった(ミス)ジャッジという幸運が重なったものだ。この試合、千葉が普通に守っていたら0−0の引き分け、もしくは、0−1以上で、神戸が負けた可能性の方が高い。
当コラムで何度も書いたことだけれど、神戸が抱えている問題は、監督が目先の勝点を積み重ねることで改善されるようなレベルではない。神戸に必要なのは、若く才能をもった人材を集め鍛え、リーダーシップをもった中堅・ベテランがチームを引っ張り、即戦力として非凡な外国人選手をチームに融和させて、チームの基盤をつくることだ。チームを強くするためには、少なくとも数年という年限を必要とする。その期間は、負けながら成長することだって、覚悟しなければいけない。
筆者はパベル新監督に同情する。サッカー人として、このような消極采配は望むところではないだろう。だが、親会社(楽天)が、シーズン開始から3分の1も経過しないうちに2人も監督を更迭させた実態を見たら、目先の勝点にこだわらざるを得ないだろう。楽天のオーナーは、欧州や南米のクラブオーナーを真似て、勝てないのは監督の責任だという論理を振りかざし、監督のクビを切ってみせている。そんなものは、無策・脳なしオーナーの、ミエミエの責任逃れパフォーマンスにすぎない。楽天社長は、監督のクビをきるのがプロの厳しさだと確信しているのかもしれないが、クラブや日本のサッカー情況を全く理解していない。楽天が監督更迭方式に徹する限り、神戸というクラブに未来はない。


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