Sports Enthusiast_1

2005年06月30日(木) 自分の馬を信じろ

千葉のオシム監督のインタビュー記事を、某スポーツ誌で読んだ。オシム監督がジーコジャパンをどのように見ているか――聞き手の核心はそこにある。が、オシム監督の回答は極めて慎重。評価を避けた。
その雑誌には、トルシエ前代表監督も登場していた。トルシエはやや、オシムよりは軽い対応だった。トルシエは、ジーコは将来に向かって、若い才能を見出し育成することを怠っている、というような意味の言葉を発していた。オシムは老獪であり、トルシエは敢えてピントを外した。
考えてみれば、ジーコを中心にして登場したオシム、トルシエの3人は同業者。同業者が同業者の足を引っ張るのは業界仁義に反する。監督の評価を同業者に求めたこの雑誌の企画はみごとに、同業者にすかされた。
では監督の評価はどこのだれの役割なのか――言うまでもなく、ジャーナリストの役割なのだ。ジーコを評価したいのなら、オシムやトルシエの言葉を借りることなく、雑誌の責任、編集長の責任で行えばいい。日本のスポーツジャーナリズムは選手、監督、協会関係者、審判を批評しない。自らの責任で、「ジーコジャパン」を評価したらいいではないか。
オシム監督は、インタビューの最後に「自分の馬を信じろ」と言った。代表監督の馬は、選手、スタッフだ。では、雑誌にとって「馬」とは何か――それは、雑誌(編集長)が擁する編集者、記者であり、彼等が集めた情報、取材データであり、雑誌としての見識、見解にほかならない。ジャーナリズムだけが手を汚さないでいられる時代ではない。雑誌は結果を恐れず、勇気を出して、署名入りでジーコ(ジャパン)を評価したらいい。



2005年06月23日(木) 実力を認めなければ・・・

筆者は、当コラムの「予想通りだったけれど」(2005年06月09日)において、コンフェデレーションズカップ、「Bグループで勝点4以上ならば、ジーコジャパンの実力を認めないわけにはいかない」と書いた。書いた以上、ジーコジャパンの実力を認める。Bグループで欧州王者のギリシアに勝ち、世界王者のブラジルと引分けたのだから。
ただし、その実力は、2005年6月時点の、ということといたしたい。このような留保をつけた言い訳をすれば、ギリシャは明らかにチームとして調子を落としていたし、ブラジルはロベルト・カルロス、ロナウドを欠き、アドリアーノがいまひとつだった。日本戦におけるブラジルのDF陣は、セレソンのレギュラークラスではない。
でも、サッカーというスポーツでは、このように言い訳をしていては成立しない。サッカーに限らず、スポーツというのは、相対的な力学なのであって、実力が同じならば片方がそのとき力を落としていれば、もう片方に勝利が転がり込む。実力が上でもそのときの調子が大きく狂えば、実力が下でも勝つことがあるし、引分で終わることもある。
ただ、忘れてならないのは、日本と引き分けたブラジルと、日本に勝ったメキシコが決勝トーナメント(T)に進出したという事実だ。ブラジルが本気を出さなかった、という意味ではない。テレビ中継で見る限り、ブラジルが手を抜いた事実はないと思う。ないと思うが、必ずしも勝つ必要のないゲームなので、負けない試合をしたとも思える。
日本がブラジルと引き分けたということは、日本人サポーター、選手を含めた日本のサッカー関係者にとって、忘れがたいゲームの1つとし記憶されるものなのかもしれないが、ブラジルにとっては、公式大会において、引分で決勝Tを決めた、数あるゲームの中の1つにすぎない。もちろん、日本のこの引分に意味がないとは言わないけれど、ジーコジャパンがコンフェデの2大会続けて、決勝Tに進めなかった、という事実を忘れないでいただきたい。善戦したのだからすべて許されというのではなくて、決勝Tに進めなかった事実を、関係者一同、重く受け止めていただきたい。



2005年06月20日(月) 快挙

ジーコジャパンがコンフェデで欧州王者のギリシアを破った。本当にいい知らせだ。試合内容、勝因などは二の次三の次、理屈抜きの快挙だ。とにかく、欧州(ドイツ)で欧州王者に勝ったことに意義がある。
欧州はアジアのサッカーをまったく評価していない。にもかかわらず、FIFAにしてみれば、経済発展著しいアジアン・マネーは放っておけない。金満日本、オイルダラーの中東、大市場の中国等々を内包したアジア市場は、成熟状態の欧州市場や、経済的停滞に喘ぐ南米市場よりもはるかに魅力的だ。こうした背景のなかで、W杯出場枠については、南米・アジアが同数の4.5になっている。これには実力で上回る南米諸国及び「実力」を反映したW杯の開催を望む欧州各国が不満を持っている。とりわけ、欧州のアジアに対する視線は冷たい。
しかし、日韓大会で韓国がベスト4、日本がベスト16を確保した流れに続いて、このたびのコンフェデ杯でアジア王者の日本が欧州王者のギリシアを破った。しかも、欧州開催の大会だ。これならば、欧州としてもアジアのサッカーを認めざるを得ないだろう。
W杯におけるアジア出場枠が今後も4.5を維持する可能性は高くなったのではないか。本番のドイツ大会で、日本、イラン、韓国、サウジアラビアが大敗さえしなければ、W杯出場チャンスは減ることだけは避けられるだろう。2010年以降のW杯アジア予選もこれまでどおり、日本、韓国、サウジアラビア、イランを中心にしながら、アジアサッカー連盟に加盟したオーストラリア、進境著しい中国、カタール、バーレーン等の中東勢で4.5枠を争うことに変わりないだろう。



2005年06月19日(日) 監督批判

コンフェデレーションズカップ初戦、日本がメキシコに負けた後、主力選手の一人・俊輔がジーコ監督とヒデを批判した、という報道があった。メキシコ戦のハーフタイム、控室でも大騒動があったらしい。こういう状態では、戦う前から結果はわかっているようなものだ。
川渕キャプテンはチーム内の騒動・ゴタゴタを歓迎する、というコメントを出したらしいが、これも考えられない。川渕氏の歓迎コメントは本音ではなく、おそらく、ゴタゴタ報道の拡大を牽制するための煙幕だろう。
監督批判・ゴタゴタがあれば、該当する選手は主力であろうと控えであろうと、処分があるのが普通だ。W杯日韓大会のとき、アイルランドが主力中の主力、ロイ・キーンを大会直前に代表から外したことは記憶に新しい。ロイ・キーンはプレミア(マンチェスターU)で活躍する大選手。日本代表でいえば、ヒデに当たる存在だった。それでも、チームの規律を重んずるマッカーシー監督(当時)は、ロイ・キーンを外した。それが、チームの規律というものだ。勝つためには、個人のわがまま、規律違反(戦術不履行)、監督批判といった、チームのゴタゴタを見過ごさない。それがサッカーに限らず、チームプレーの鉄則だ。メジャーリーグでは、交代に不服を態度で示した大家が即刻、トレードされた。
ジーコジャパンには3人の監督がいると以前、当コラムで書いた。3人とはジーコ、ヒデ、宮本だが、俊輔も監督に躍り出ようとして、ゴタゴタに発展したようだ。選手の自主性で勝てるなら、監督などいらない、と言ったのはセルジオ越後氏だそうだが、まったくそのとおり。以前、ジーコジャパンは末期症状と書いたけれど、予選突破で問題の本質が見失われてしまった感がある。
ジーコジャパンはアジア予選を突破したけれど、それがトルシエの遺産であることは当コラムで何度も書いたとおり。トルシエ遺産以上の何かがあるかどうかどうかは、いずれわかる。



2005年06月18日(土) 楽天はJリーグから手を引け

神戸(楽天)がエメルソン・レオン監督を解任したことは書いた。誠に残念だ。レオンは若手育成のプロだ。いまブラジル代表フォワードに抜擢されたフォビーニョはサントス時代、レオン、ルシェンブルゴの二人の名監督の下で腕を磨いた。フォビーニョを試合で使ったのはレオンだった。
神戸(楽天)はレオンを監督に招聘した。それはチームの改造が目的でなくてほかに考えられない。下位に低迷し、将来を担う若手の人材が見出せず、カズがFWでレギュラーというチームに魅力があるはずがない。もちろん、これはカズが悪いという意味ではない。彼は努力してレギュラーの地位を維持している。Jリーガーのなかで、尊敬すべきプレイヤーの一人だと思う。けれど、神戸(楽天)が強くなるためには、カズを追い越す人材が出ていなければいけない。
そこそこの外国人選手と契約し、そこそこのJリーガーを寄せ集め、降格スレスレの地位に甘んじているのが神戸(楽天)のいまの実態だ。どこかで飛躍を求めるのならば、少なくともレオンの手腕と情熱に3年はかけてみるべきだった。
楽天はプロスポーツを理解していない。クラブを知名度アップ程度の広告手段としてしか見ていない。チームを強化しサポーターの期待にこたえ、地域の活性化に寄与しようとする意欲を感じない。小手先だけの強化策、知名度におんぶした選手獲得――どれをとっても中途半端だ。
神戸(楽天)がユースにどれだけの強化費用を使っているか知らない、高校、JSL、J2等々にどれだけのスカウト網をもっているか知らない。ただ、結果として神戸(楽天)はいい選手を保有していないし育てていない。
クラブを強くするためには、カネが必要だ。指導者、外国人選手、移籍、レンタル、若手の発掘と育成・・・これらの手段が有機的に機能するためには年月が必要だ。J2に降格することだって覚悟しなければいけない。J1のトップクラブとしていま君臨している浦和だって、J2に降格したシーズンがあったではないか。でも、サポーターは応援し続けたし、浦和市内には、サポーターが集まるスポーツバーや居酒屋が繁盛している。そこに集うサポーター諸氏は、浦和の戦いを肴に酒を飲み試合を批評し、自分達のクラブのいまと将来を語り合う。非日常(ハレ)の世界に漂うことによって自己を活性化し、あくる日から日常(ケ)の世界に立ち戻っていく。スポーツ文化とはそういうものだ。スポーツを利用してモノを売ればいいという魂胆だけではだめだ。販売促進を目的にしたクラブ運営では、地域住民そして地域文化に貢献することがない。
楽天にはスポーツ文化を育む資格がない。即刻、Jリーグから撤退してもらいたい。



2005年06月16日(木) 相撲改革は幻想

相撲が芸能であることは前に当コラムで書いた記憶がある。いま世間を騒がせている「花田家問題」に興味はないが、花田家の一方が「相撲改革」を錦の御旗に掲げ、自らの正当性を確保しようとしていることを知った。筆者には、その主張は誠に奇異に聞こえるし、また、あるスポーツ評論家がそれを支持していると知ってさらに驚いている。
相撲人気が色褪せているというけれど、伝統芸能なのだから仕方がない。たとえば、歌舞伎と相撲、どちらが人気があるか知らないけれど、相撲は歌舞伎程度の人気で落ち着くと思う。相撲は男の宝塚であって、宝塚は男装が売り物で相撲は肉体美と時代錯誤の丁髷が売り物だ。それを好む好まないは、趣味の問題であって、相撲が合理的なスポーツに路線変更する必要はない。
部屋制度が相撲界に残る以上、場所優勝に合理性はない。個人競技ならば総当たり戦でなければならない。部屋制度が維持されていながら、総当たり戦を実現したとしたら、寝起きを共にし師弟関係で結ばれている同部屋力士に真剣勝負を求めることになる。筆者は彼等が本気の勝負をするはずがない、と確信する。
相撲を合理的な近代スポーツに変形すれば、「スモウレスリング」というものになる。それは、格闘技としては味気なく、いま以上のファンを集めることはないと思う。総合格闘技にデビューした曙の戦績及び試合内容を見た格闘技ファンは、力士の強さに疑問を抱いた。相撲が総合力に欠けた格闘技てあることは立証済みだ。
ならば、なぜ相撲が一定の人気を維持してきたのか――筆者は相撲のもつ型の魅力が人気を支えてきた、と考えている。相撲には型があり、それが美学を形成していると考えている。強い横綱を頂点にして、弱い大関あり、外国人、小兵、業師、押し相撲専門・・・ありといった個性派役者(=キャラクター)を揃え、張り手、投げ技、はたきこみ・・・という多様な技が繰り出され、強い横綱が優勝するかと思えば、弱い大関が優勝したりもする。こうした出し物の魅力がファンの支持を集めてきたのだと思う。
相撲は、プロレスに似た面をもっている。プロレスにはストーリーがあり、レスラーは役割を演じている。総合格闘技のように本気ではないけれど、では素人に真似できるかといえば、できない。相撲も同様、一流になるためには稽古が必要であり、下から勝ち上がらなければならない。けれど、勝ち上がってきた力士同士、場所中15番において、勝ち負けを融通し合うことがないとはいえない。無気力相撲として指摘されるのか、はたまた、白熱の演技で素人にばれないかどうかは別にして。
いずれにしても、場所、番付、個々の取り組み、繰り出される技等々を含めて、トータルな意味で相撲に貫かれているのは、型の美学なのだ。
勝つことを目的として、合理性に基づいて相撲を「改革」したとしたら、おそらく、型に貫徹された相撲の美学は失われるに違いない。「スモウレスリング」は見るに耐えないスポーツになるだろう。
力士は異形であり、存在するだけで価値がある。力士がタニマチに呼ばれてお座敷に上がるとき、服を脱いでいることがある。少なくともタニマチと記念写真におさまるとき、力士は服を脱ぐ。筆者は有名力士のそうした写真を何度か見たことがある。タニマチと呼ばれる熱狂的ファンは、強い力士と一緒に酒を飲むことを喜びと感じ、彼等と自分が近しいことが、自分の権力の一部だと考える。筆者はそういう関係を否定しない。相撲界が“ごっつぁん”体質だからといって、何が悪いのか。相撲界は非合理的な伝統社会であって、だからこそ、現代社会が生み出すことのできない「商品」を供給する。テレビで写る本場所だけが相撲ではない。たとえば地方巡業は、エンターテインメントとしての相撲の本質が滲み出ている。社交家としての力士は、夜の世界でも活躍している。これらも相撲の重要な一部なのだ。
筆者には、相撲は遠い存在だ。力士をお座敷に呼ぶ金もなければ趣味もない。本場所の取り組みの結果に興味を感じない。歌舞伎を見ることがないのと同様に、相撲を見たいと思わない。
けれど、伝統芸能としての相撲のあり方を否定する「合理主義者」ではない。そういう世界があることをもちろん容認するし、芸能として国技であっていいと思っている。



2005年06月15日(水) 楽天に神戸はまかせられない

J1の神戸は15日、エメルソン・レオン監督の退任と前神戸コーチのパベル・ジェハーク氏の新監督就任を発表した。
神戸の監督はここのところ、ハシェック氏、松永英機氏、レオン氏と落ちくまもない。プロの監督に結果を求めるのは当然だが、リーグ戦1勝1分け2敗、ヤマザキナビスコ・カップ4連敗(1次リーグ敗退)でクビを切るのはいくらなんでも早過ぎないか。監督のみならず、神戸はトルコ代表の人気者・イルハンと契約しながら逃げられた「実績」もある。インターネット業界では経営に定評のある楽天社長(=オーナー)だが、サッカークラブ運営では滅茶苦茶だ。道楽とは言え、ひどすぎる。オーナーのマネジメント能力に大きな疑問符がつく。
そもそも、神戸は監督よりも、リクルートを含めたチームづくりに問題があることは前に書いたことがある。改革すべきはまずもって、マネジメントサイドであって、現場指導者ではない。
報道では、神戸のゼネラルマネジャー氏は「(レオン監督で)結果は付いてこなかったが、チームは良くなってきた。だが、まずは結果を求めたい。パベルは神戸になじんでいるし、日本のサッカーをよく知っている」とコメントしているようだが、監督の首をいくら挿げ替えても、チームづくりに方向性がなければ、即刻結果が出るはずもない。日本のサッカーを知っている人材の方が監督に向いているというのなら、最初からレオン氏をよぶ必要はないだろう。
住友金属が鹿島アントラーズになるには、ジーコをキーマンにして、何年かかけて地域と一体化した土台作りを行ったという。千葉は少ない予算ながら、オシム監督という厳しい指導者を呼び、猛練習で現在の地位を築いたという。
数試合で結果が出なければ監督を変えるのは南米では常識だが、あちらは監督も選手も日本より層が厚いのであって、事情が違う。事情が異なるところで、表面だけをまねてもいい結果に結びつくはずがない。楽天のオーナーはプロ野球を含めて、スポーツクラブを運営・経営する資質に欠けている。こんな環境では選手が可愛そうだ。もっとクラブ経営に情熱のある企業もしくは経営者に神戸及び東北楽天イーグルスをまかせ、楽天(社長)はスポーツ界から撤退したほうがスポーツ界のためになる。



2005年06月13日(月) 休んだほうがいい

プロ野球には、連続試合出場という記録がある。意味のある記録だとは思えないが、記録にこだわる選手や球団は、無理をして代打出場で記録達成をつなごうとする。記録のための記録づくりだ。連続試合出場に意味があるとしたら、結果的に連続出場した場合だけだろう。
プロスポーツという競争社会において、レギュラーを維持することの困難さは、素人には想像がつかない。ケガをしないこと、ケガに強いことが名選手の条件の1つだとも言われる。ならば、その実態のままで記録を更新することが大事ではないか。こそこそと、最終回に代打出場して記録を更新したとしても、自分は大記録保持者でございます、と胸をはれるものだろうか。
筆者は個人記録にあまり、興味がない。団体競技の場合、たとえば野球の投手が200勝にこだわるけれど、投手分業制の今日、先発投手に与えられる勝利投手という記録が貢献度という実態を反映していると言えるのだろうか。本塁打にしても、試合に勝ってこその本塁打の価値だろう。
筆者は専門家が選ぶMVPこそが、選手の真の価値だと考えている。たとえば、イチローがヒットの本数で大リーグ記録を更新しても、彼の属するマリナーズがいい成績を残せないのならば、ムダ打ちとは言わないが、すなおに喜べない。
団体競技であっても個人が記録を意識することによって、それがモチベーションとなり、技術向上や勝利への貢献に結びつくのかもしれない。そういう面を否定はしないが、個人記録保持者を無条件にリスペクトする気持ちにはなれない。



2005年06月12日(日) 代表なんて・・・

ブンデスリーガのチャンピオン・バイエルンミュンヘンが、アリアンツ・アレーナ(ホームグラウンド)の杮落としでドイツ代表Aと試合をした。ドイツA代表はバイエルン以外の代表選手で構成されており、代表の顔であるカーンやバラックといったバイエルンの選手はクラブ側での出場だった。
筆者はその試合を昨日、録画で見たのだが、試合の模様は異様だった。日本で行われる日本代表の試合で代表チームが激しいブーイングを浴びることをだれが想像できようか。でも、ドイツではそれが現実なのだ。
アリアンツ・アレーナの杮落としなのだから、この試合はイベントであって、もちろん真剣勝負であるはずがない。ところが、A代表のGK・イェンス・レーマンがボールを処理しようとすると、バイエルンのサポーターから激しいブーイングが浴びせられる。世界のサッカーを見慣れているはずの解説者S氏までもが「信じられませんね」とあきれ返る状況だ。バイエルンのサポーターは代表GKにはバイエルンのカーンが選ばれるべきだと考えているため、この試合でA代表のGKを務めるイェンス・レーマンはカーンのライバルに当たる。そのため、とりわけ激しいブーイングを浴びている、というのがS氏の解説だ。
日本ならば、浦和のホームグラウンドで浦和と日本代表が試合をして、日本代表が浦和のサポーターからブーイングを浴びている光景を想像したらいいのかもしれない。代表ではDFの左を中澤(横浜)と坪井(浦和)が争っているから、浦和のサポーターは中澤にとりわけ激しいブーイングを浴びせることになるのかもしれない。しかし、最も過激だといわれる浦和サポーターであっても、日本代表にブーイングを浴びせることはあるまい。浦和と日本代表の試合が実現したとしても、せいぜい、親善試合としてフェアプレーを楽しむ、というのが日本のサポーターだろう。
ドイツは地域の独立意識が強い国家であることは、よく言われていることだが、これほどまで「中央政府」が嫌われているとは思わなかった。日本では地方分権が内政の最重要課題の1つだが、サッカーの代表人気がクラブ人気を下回ったとき、それが実現しているときなのかもしれない。筆者はバイエルンが2−0でリードした時点でテレビチャンネルを切り替えたため、どちらが勝ったかはわからない(4−2でバイエルンが勝利したとのこと)。
昨日、欧州サッカーでは代表よりもクラブの方が優先する、というダバディ氏の論考を当コラムで紹介したばかりだが、この録画中継が絶好の事例紹介となったわけだ。なんともいいタイミングだった。
日本で日本代表ばかりを追いかけているだけでは、世界のサッカー事情は何一つ分からないということだ。「絶対に負けられない戦い」などと時代錯誤のキャッチフレーズを流して絶叫中継をする日本のテレビ局というのは、ローカルというかドメスティックというか、なんともおめでたい存在なのだな、と感じてしまった。
だが、筆者にはサポートすべきクラブがないぞ。だれか、東京の下町にクラブとスタジアムをつくってくれぃ。



2005年06月11日(土) ダバディ氏の卓見

今朝のA新聞に掲載された、フローラン・ダバディ氏の「W杯出場−サッカー文化成熟の契機」を読んだ方は多いだろう。ダバディ氏は日韓大会当時の日本代表監督であったトルシエ氏の通訳を務めたことでよく知られている。その中でダバディ氏は、マスコミがW杯出場を狂気のごとく報道していることに比べ、サポーターは極めて冷静であったこと、海外組と呼ばれる日本代表選手がいろいろな意味で「成長」を遂げていること、などを指摘している。
ダバディ氏の指摘の通り、いまのところ、日本サッカーは代表を頂点とす一元性に拘束されており、それは日本社会の一元性の相似形だ。また、代表優先は東アジアのサッカー界に共通して見られる傾向だ。一方、欧州のサッカーでは、クラブ(リーグ)と代表の関係は拮抗しており、サポーターも複次元的にサッカーを受け入れる。スペインの場合は深刻で、世界のサッカー大国スペインだが、代表試合がバルセロナ(カタルーニヤ)で開催されることはない。カタルーニヤ(バルセロナ)のサッカー会場でスペイン(マドリード)国旗を振ることはあり得ない。スペインのように地域の独立性が強い国家においては、代表の意味は複雑だ。ダバディ氏は欧州で育ったから、日本の代表に一元化されたサッカー状況を理解しにくい。
それだけではない。日本のサッカー状況はクラブ、選手、サポーター、スタジアム、メディアを含め、「優しさ」に溢れていることも、ダバディ氏が指摘するとおりだ。筆者も、日本が代表チームをサポートする環境は世界一だと指摘した。そして、Jリーグの「お嬢様サッカー」に切歯扼腕していることをたびたび当コラムで書いた。トルコ、スペインでサッカーを見た友人は、向こうのサッカー会場には「暴力」が充満していた、と話していた。
ダバディ氏は日本サッカーの「優しさ」の向こうに、「守られている日本」を見ているのであり、欧州サッカーの「厳しさ」の向こうに、世界に開かれているがゆえに、移民問題や軍事的脅威に直面している「欧州社会の現実」を見ている。日本社会は移民を受け入れず、市場は閉鎖的であり、米国の軍事的支配を受け入れることで、他国の軍事的脅威から免れていると。
ダバディ氏は欧州サッカーとEUの関係を、国家(代表)を越える共同体(クラブチャンピオンリーグ)の関係に重ねている。だが、EU憲法がフランス、オランダの国民投票で否決された。欧州が再び連合から国家に回帰する可能性も否定できない。欧州の政治情勢はサッカーよりも不透明だ。
さはさりながら、ダバディ氏が日本サッカーと日本社会に求める「成熟」とは、多元的、複合的な共同体のあり方を意味している。その指摘に耳を傾けることは、日本人として、とても重要なことであることに変わりない。たかがサッカーというなかれ、サッカーは十分、その契機になり得るのだから。



2005年06月09日(木) 予想通りだったけれど

W杯アジア地区予選は、韓国、サウディ、イラン、日本の4カ国がドイツ行きを決めた。終わってみれば順当、予想通りの結果だ。筆者は、最終予選について、当コラムで、
《イランとのアウエー戦は、勝点0を覚悟しなければいけないかもしれない。北朝鮮との2試合で勝点6、バーレーン戦同で勝点4、イランとの2試合は、勝点1、2、3、4が考えられ、日本の勝点は悪くて11、良くて14の範囲となる。14ならばトップでドイツ行き、11でも2位でドイツ行きだと思うが、どうだろうか。私は、北朝鮮との2試合に、日本が普通の試合をすれば、ドイツに行けると思っている。(「いい練習にはなった」2005年02月02日・水)》
と予想したけれど、概ね間違っていなかった。バーレーンのアウエー戦で日本が勝ったため、最終のイラン戦を待たずに勝点12で予選突破となった。アウエーでのバーレーン戦、北朝鮮戦(バンコク無観客試合)は相手国の自滅の感もあった。日本に追い風が吹いたわけだが、拍子抜けというか予想外だったのはなんといってもバーレーンの不調だった。筆者を含め、大方がバーレーンの実力を読み違えたことになる。
予選突破で日本は世界レベルと言えるのかといえば、そうも思えない。今月ドイツで開催されるコンフェデレーションズカップで日本はBグループで、ブラジル、ギリシア、メキシコと予選で戦う(Aグループはドイツ、オーストラリア、アルゼンチン、チュニジア)。Bグループで勝点4以上ならば、ジーコジャパンの実力を認めないわけにはいかない・・・



2005年06月08日(水) やれやれ

すったもんだの北朝鮮戦は日本が2−0の圧勝。北朝鮮の反撃の弱さに拍子抜け。終わり良ければすべて良しの格言通り、日本は開催国ドイツを除いて世界で最も早い予選突破国になった。かくもおめでたい日なのだから、ジーコジャパンの批判もやめておこう。
それにしても、アジア予選最大の難関と思われたバーレーン、北朝鮮のアウエー2連戦――北朝鮮戦は平壌からバンコクに開催地変更されるというハプニングはあったものの、意外や意外、両チームとも歯ごたえがなかった。理由は定かではないが、バーレーンは、有力選手が近隣諸国のプロチームにスカウトされ、各国リーグ戦で消耗してしまった、と報道されている。北朝鮮はどうなのか。主力選手がケガ、出場停止でベストメンバーが組めなかったと言われている。アジア勢は近年、台頭著しいと言われながらも、選手層の薄さという問題を抱え、代表チームを長期間にわたり維持していくノウハウが確立していなかった。日本サッカーは少なくとも、バーレーン、北朝鮮よりは、総合力で上回っていた。北朝鮮戦、レギュラーのヒデ、三都主、俊輔が出場停止、加えて、小野、高原がケガにもかかわらず、彼等の代役が主役以上の結果を出した。このことから、「固定メンバーの熟成」よりは、「調子のいい選手の抜擢」により、「多様な組合せ」を使いこなすことが、代表チーム運営のセオリーだと言っていい。雨季のバンコクで、90分走りきれた選手のスタミナも勝因だろう。
ドイツ大会予選は、代表運営にとって数々の教訓を残した。海外組と国内組、組織と個人、4−4−2と3−5−2、自由と規律・・・筆者は、アジア予選を突破したからと言って、これらの答えが出たとは思っていない。



2005年06月06日(月) 藤田が名古屋とは、

意外な結末なので驚いている。報道によると、年俸は推定1億1000万円で、日本代表GK楢崎(名古屋)の1億円を上回るJリーグ日本人最高額とのこと。
筆者は、藤田は最初にオファーを出した浦和に移籍するものだとばかり思っていた。ところが、その浦和は、契約を残して移籍する際に発生する違約金で折り合わず、一方の名古屋は、磐田が設定した違約金1億5000万円を満額で用意。藤田中心のチーム作りも約束したという。
筆者はもとより、Jリーガーの価値が高くなることに異論はない。「大物」と呼ばれる選手がリストラではなく、ニーズに従って流動化することはいいことだと確信している。Jの全クラブがこれまで以上に、保有している選手の有効活用に努めてくれることを望んでいる。そういう意味で、藤田の移籍はJリーグの中では、良い流れだと思う。
藤田の名古屋移籍は、総論としては誠に結構なのだが、では浦和のトップ下の人材不足が解消されたのかといえば、そうではない。浦和といえば、エメルソン、田中(達)、永井の3トップ(FW)、三都主、山田のサイドハーフは日本代表クラスだし、ボランチの長谷部、鈴木も若手のホープ。こうなると、どうしても全日本クラスの司令塔がほしくなる。現在ケガで手術を予定しているという小野が帰ってくることもあり得るのかもしれないが、いまのところ、それを予感させるような報道はない。
となると、アルバイ、ネネのどちらかを削って、外国人を呼ぶしかないのかとも思う。浦和は欧州と太いパイプを持っているとも言われており、千葉のように、東欧の代表クラスを呼ぶ手もなくはない。ブッフバルト監督を含めた、浦和のフロントがどんな選手を獲得するのかも楽しみの1つだ。もちろん、一度ボランチに下げた長谷部を、トップ下に戻す手もなくはない。ただ、山田のトップ下というのは、適材適所とは言いがたいように思えるが。



2005年06月05日(日) マナマからバンコクへ

日本代表がバンコクに到着した。アウエーのバーレーン戦に勝利した日本は、バンコクで北朝鮮戦に勝つか引き分けるかでアジア予選を突破できる。北朝鮮はすでに3位以下が決定しており、これまでのところ予選で勝利がない。
ご承知のように、この一戦は北朝鮮のホームゲームとして、平壌で行われるはずだったが、先に北朝鮮で行われたイラン戦におけるジャッジをめぐる観客の混乱をみたFIFAが、第三国・無観客試合を決めた。
北朝鮮は先のイラン戦で監督が退席処分を受けており、日本戦は監督不在になる可能性が高い。一方の日本はバーレーン戦で主力のヒデ、俊輔、三都主がサスペンション。先発はおそらく、柳沢、玉田(大黒)の2トップ、小笠原のトップ下、三浦、加地、福西、稲本の中盤、中澤、宮本、田中のDFでおさまるのではないか。MF3選手が出場できないから、3−6−1はないだろう。
筆者は北朝鮮のサッカーが嫌いではない。いまの日本代表より、スピード、パワーにおける可能性、すなわち、ポテンシャルは高いと思う。戦術的な未熟さ、経験の浅さ、GKのレベルの低さを克服すれば、東アジアで中国と並んで脅威的存在になる。とりわけ、警戒すべきは北朝鮮のパス&ゴーのシンプルな攻撃だ。プレスをかけたところで、相手のスピードでかわされることが恐い。相手をスピードに乗せない守りに特別な方法はない。先んじた執拗なチェックだけだ。日本はファウルを恐れず、身体で相手の走りを止めなければいけない。「一対一で勝つことが試合に勝つことだ」とヒデは言ったそうだが、その通りだと思う。がむしゃらな相手をはぐらかそうと思ってはいけない。相手が気迫でくるなら、気迫で迎え撃つことだ。
ジーコジャパンには3人の監督がいる。総監督はいうまでもなく、ジーコ。守備担当は宮本、攻撃担当がヒデ。ジーコには、チームを規律でまとめる資質がないから、この2人にピッチの指揮を任せている。ヒデは孤高の存在で、世界レベルの要求を選手に出していると思う。ヒデが好調な限り、ヒデ効果はプラスに働き、結果に結びついている。
ヒデが選手に発している要求は本来、監督の仕事だ。選手は調子が悪くなれば、いくら指示をだしても周りの選手が聞かなくなる。プレーをしない監督が必要なのだ。幸い、ドイツ大会に向けたアジア予選ではヒデの調子が上向きで、選手も彼についてきた。ジーコジャパンとは、結局はヒデ次第。場合によっては、ヒデを切ることも辞さなかったトルシエ。ヒデに前面的に拝跪するジーコ。代表監督のあり方としては、前者だろう。
ヒデがいなくなった日本代表は、ジダンがいなくなったフランス代表と同じ道を辿るのだろうか。おそらく、その可能性が高い。サッカー協会が、U20代表→オリンピック代表→フル代表という年功序列の三角形をイメージしている限り、才能のある若手の経験の場は少なくなる。
いま、日本サッカーのすべてを再構築するときだと思う。



2005年06月04日(土) 超人ヒデ

日本がバーレーンにアウエーで勝ち、ドイツに一歩近づいた。日本の1本のシュートがネットを揺らし、バーレーンの1本のシュートがポストを叩いた。おそらく、両チームの決定的な場面の数に差はない。実力も似たようなものだ。にもかかわらず、結果に差が出たのは、Jリーグという基盤をもつ日本と、それをもたないバーレーンとの差だろう。もちろん、そのことに比例して、選手の経験の差も大きい。
日本の勝因は、決勝点を上げた小笠原か、3−6−1(3−4−2−1)というシステムを採用し、彼を先発に起用したジーコ監督か・・・
筆者は、バーレーン戦を勝利に導いた功労者として、ボランチで出場したヒデを第一に挙げる。ヒデは攻守にわたり献身的プレーに徹した。彼が走った距離は両チームの選手の中で一番長いのではないか。その存在感は群を抜いていた。日本代表において、“ヒデ”が規律そのものであったと言って過言でない。俊輔、小野(欠場)、稲本、三都主・・・と日本の中盤には「いい選手」がたくさんいるが、チームの背骨となる選手はヒデをおいていない。彼は普段の言動から、「個人主義的」な人間のように思われるが、少なくともピッチの上ではそうでない。ジーコジャパンという規律をもたない集団に、ヒデがその存在で規律を植えつけている。調子のいいヒデが入った日本代表は、個の集合体から規律をもったチームに変貌する。
第二の功労者は中澤、宮本、田中の3バックだ。「鉄壁」という見出しもあったが、まさにそのとおり。裏をとられない配慮と読みの深さ、ハイボールにも強さを見せた。北朝鮮戦、イラン戦で見せた球際の弱さも克服した、と言いたいところだが、バーレーンというチームは、北朝鮮、イランに比べて当たりが弱い。殊勲の3バックが、次の北朝鮮戦でどれだけ強さを見せられるか。大いに楽しみだ。
蛇足だが、バーレーン戦前、イランvs北朝鮮が試合途中まで放送された。この映像を見る限り、北朝鮮は強くなっている(結果は0−1で北朝鮮が負け)。バーレーンよりは、スピードがあるし当たりも強い。監督の選手交代の早さは懸念材料だが、それだけ決断力があるともいえる。バンコクで日本が苦戦することだけは間違いない。北朝鮮を下したイランは、チーム戦術、個人技、体力において、日本を上回っている。いま、イランがアジアナンバーワンのチームだろう。



2005年06月02日(木) 痛い

小野が骨折した。これは痛い。ジーコ監督がわけのわからない3−4−2−1もしくは3−4−3という新システムで臨もうとしているバーレーン戦、変則システムであっても、彼が攻守の要、カウンター攻撃の基点となることにかわりないはずだった。
小野が負傷欠場ならば、前に上げる予定のヒデが小野の代わりにボランチに下がり、最も安定した3−5−2に戻るものと思っていた。ところが、報道によると、バーレーン戦の日本の布陣は、DFがいつもの3人、サイドハーフが三都主、加地、ボランチが◎ヒデ、福西、2シャドーに中村、◎小笠原、1トップに柳沢らしい。
さて、ヒデの代わりに2シャドーの一角に入った小笠原だが、小笠原が先の調整試合でどのようなパフォーマンスを見せたのだろうか。筆者には、2試合を通じて、小笠原のプレーで印象に残ったものはなにもない。得点を予感させるシュートを放ったかどうか――あるいは、得点に結びつきそうなアシストに近いプレーがあったかどうか――という観点からすると、小笠原の司令塔としての可能性はゼロに近いように思える。たまたま、調子が悪かったのかどうか。
小野の欠場という「災いを転じて福と為す」ためには、小野の位置にヒデが入ることは正しい。イランに負けた後のバーレーン戦では、ヒデの頑張りで日本が守り勝った。もちろん、アウエーのバーレーン戦は守り勝つことがテーマだから、慣れ親しんだシステムの方がいい。結論は2トップに戻すこと。3−5−2のトルシエ路線でトルシエの遺産で勝つか引き分ければいい。ところで、トルシエといえば、フランスリーグのマルセイユの監督を解任されるらしい。彼の監督としての手腕は母国では通じないのだろうか。



2005年06月01日(水) 支離滅裂

いったいジーコ監督は何を考えているのだろうか。報道によると、バーレーン戦の布陣は、ワントップ(柳沢又は鈴木)、2シャドー(中村・ヒデ)、以下、サイドハーフ、2ボランチ、3バック(は不変)だという。システムとしては、3−4−2−1もしくは、3−4−3か。
この陣形を理解することは難しい。中村にゲームメーカー、ヒデにポイントゲッターの役割を期待しているというが、支離滅裂とはこのことだ。思い出してほしい。イランに負けた日本がその次のホームバーレーン戦で辛勝できた主因は、ヒデの積極的な守りだった。圧倒的な運動量と一対一の強さでバーレーンの中盤を封じ込め、相手の中盤の攻撃の基点をつぶしたのがヒデだった。ヒデの闘争心と守備力で日本は守り勝ち、結果、相手のミスで決勝点をもぎとった。
アブダビ合宿直前、日本代表は親善調整2試合を0−1で失ったため、日本の得点力不足が指摘された。が、そもそも日本代表がこれまで、攻撃陣の活躍で勝利した試合が何試合あるというのだ。日本代表は、ジーコが監督就任した日から今日まで、トルシエが育てた守備力という遺産で勝利してきた。そのことを象徴するのが「3バック」、つまり、「3バック」とはトルシエサッカーを意味する記号だろう。
さて、ドイツ行きを左右する重要なアウエーでのバーレーン戦――日本代表の基本戦略はなんといっても「守り」だろう。かりに3−4−2−1でヒデが前に残れば、中盤の守りのリーダーシップは小野か福西が取ることになる。筆者は福西を信頼していないので、小野ということになるがしかし、小野は中盤の守備のリーダーではない。あくまでも、下がり目で相手マークの緩いエリアから自由な立場で攻撃の基点となる。日本代表における守りの絶対神は実はヒデであって、アウエーの日本は、固い守りからカウンター攻撃で得点をうかがわなければいけない。そのカウンターの基点こそ、ボランチ小野にほかならない。
先のアウエーのイラン戦で日本は攻め勝とうと焦って、不慣れな4−4−2を採用して負けた。今度のアウエーのバーレーン戦でも、3−4−2−1という不慣れなシステムで臨もうとしている。アウエーで敢えてリスクを負おうとするジーコサッカーとは・・・
実は、ここにジーコサッカーの本質がある。ジーコ監督というのは、何度もここで書いているように、規律や戦略をもっていない。彼が信じているのは「個」だけだ。「個」崇拝は、優秀な選手から指導者になった者が陥りやすい傾向だ。日本プロ野球では「長嶋巨人」がそのとおりだった。長嶋氏もチームのコンセプトをもたず、実績重視で選手を集め、ドリームチームをつくって、今日の「弱い巨人」の基礎をつくった。ジーコ監督もヒデという「個」にすべてを託し、監督の仕事を回避しようとしている。ヒデが超人ぶりを発揮して得点を上げれば、日本は勝てるだろう。だが、それが日本代表のあるべき姿なのだろうか。反対にヒデの調子が悪ければ、日本代表は得意のはずの「守り」が機能せず、崩れることになる。
サッカーだから結果はわからない。しかし、ジーコ流のヤマカン、場当たりサッカーでは、日本のサッカーの質の向上はない。


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