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JIROの独断的日記
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2008年01月16日(水) <故杉原千畝氏>功績たたえポーランド大使館が叙勲←杉原氏の偉業は海外の新聞でも紹介されています。

◆記事:<故杉原千畝氏>功績たたえポーランド大使館が叙勲(1月16日19時5分配信 毎日新聞)

第二次世界大戦中、ナチスの迫害から逃れようとしたユダヤ人に「命のビザ」を発給した故杉原千畝・元リトアニア領事代理の功績をたたえ、

ポーランド大使館(東京都目黒区)で16日、叙勲式が開かれた。マルチン・リビツキ大使から、杉原氏の孫千弘氏(43)=バンコク在住=に

「ポーランド復興勲章コマンドルスキ星十字型章」が手渡された。

杉原氏は40年夏、ポーランドからリトアニアの日本領事館に逃れたユダヤ人ら約6000人に、日本政府の指示に反して日本通過のビザを発給し

「日本のシンドラー」と呼ばれた。千弘さんは「功績が認められ、光栄に思う」と語った。

昨年10月、レフ・カチンスキ大統領が、大戦中にポーランド国内のユダヤ人を救った計53人の叙勲を決めていた。


◆コメント:優れた仕事(行為)は素直に賞賛し、優れた行いを為した人物を尊敬するべきだ。

杉原千畝氏のことについては、色々と当初の美談にケチを付けようとするような文章や出版物もあるようだが、卑しい行為だと思う。

世の中には「美談」を聞くと何とか粗探しをしようとする人がいるが、結局、それは讃えられている人への嫉妬心から出ているのだろう。

私はかつて、杉原氏のことを調べたが、日本語より、外国語の情報の方が遙かに多い。

インターネットの情報の8割が英語だから当たり前かも知れないが、他国の人々のほうが率直に杉原氏を尊敬していることを物語っているように、

私には思える。かつて、調べたときに発見した、アメリカの一地方新聞だが、Saltlake Tribune(ソルトレーク・トリビューン)という新聞が、

1994年3月24日付で掲載した「杉原千畝、自らの職を賭して、ユダヤ人の命を救った、物静かな英雄」という記事の翻訳を再掲したい。

◆杉原千畝、自らの職を賭して、ユダヤ人の命を救った、物静かな英雄(1994年3月24日付 Saltlake Tribune紙)


1940年の初夏のある日、リトアニアに駐在していた日本人外交官、杉原千畝は、早朝5時15分、窓の外のざわめく音で目が覚めた。

そっとカーテンの隙間から外をのぞいて、彼はひっくり返るほど驚いた。そこには何百人という外国人がひしめいていた。

杉原は、何か暴動が起きたのかと勘違いして、妻子にクローゼットの中に隠れていろ、と少々狼狽気味に言った。

彼は、あたらめて、領事館の外の人々を見た。彼らに、自分(日本)に対する敵意は無かった。彼らはただ、絶望していた。

彼らの目は真っ赤に充血して、幾晩も寝ておらず、疲れ切っているようだった。髭が伸びきった老人、まだ幼い少年。赤ん坊を抱いた母親・・・・。

彼らは、杉原の姿を見つけると、祈るように、黙って手を組んで哀願する意思を示した。

この人々は、迫り来るナチスから逃げようと必死の、ユダヤ系ポーランド人達だった。

ユダヤ人達にとって、杉原だけが生きながらえる最後の頼みの綱だった。ポーランドからヨーロッパの他の地域への出口は既にナチスによってふさがれていた。

唯一の逃げ道は、リトアニア経由でソビエトの奥地を通り抜けてウラジオストクに行き、そこから日本へ渡るルートだった。

彼らの願いは杉原に、普通の人間は一生経験しないほどの辛いジレンマをもたらした。

人としての良心と国家の命令との板挟み。

生と死。



ユダヤ人にビザを発行することは、「ユダヤ人に構うな」という祖国の命令に背くことになる。

当時40歳の外交官だった杉原は、東京の本局に3度至急電報を打って、ビザ発行を許可してくれるよう申請した。3度とも拒否された。

彼は、ずっと後、死の前の年に、在日米軍の新聞、"Stars and Stripes"紙のインタビューに答えて、こう言っている。
「私は、何とかしなければと、思いました。ユダヤ人達はもしナチスの手にとらえられたら、どれほど恐ろしい運命が待ち受けているか、と私に向かって必死に訴えました。私は彼らを信じました。そして、彼らを助ける以外の選択は無い、と考えました」

「私は倫理的な見地から考えなければいけないと思いました。私が彼らを突き放せば彼らは殺される。しかし、私は命令に背いてもクビになって、帰国するだけです。選ぶ道は明らかでした」

杉原は、1940年7月31日から28日間、日本政府が杉原にリトアニアからベルリンへの転勤命令を出すまで、手書きのビザを書いて、書いて、書きまくった。

朝から晩まで、一人一人と面接して次々にビザを発行した。あまりの重労働に彼はみるみる痩せ、衰弱した。

杉原の妻、幸子(ゆきこ)までもがストレスで参ってしまい、生まれたばかりの子供の面倒を十分に見てやれないような状態になったほどだった。

しかし、それでも、杉原はベルリンへ転勤するため、領事館を引き払いホテルに移ってからも、

そして、ドイツへ向かう列車に乗ってからも、最後の最後まで、ビザを書き殴り、窓越しにそれを待つ人たちに渡した。

彼が書いたビザは合計約1600枚だったと推定される。しかし、一家族には一枚のビザで足りるので、これにより、6000人のユダヤ人の命を救ったのだ。

ベルリン行きの列車がついに動き出したとき、杉原はユダヤ人に向かって深々と頭を下げて謝った。
「残念ですが、これ以上書けません。申し訳ない。皆さんの無事を祈ります」

幸子夫人は今でもその時、残されたユダヤ人のショックの表情を忘れられないという。

それでも、列車が動き出した時、誰かが叫んだ。
「ニッポン、バンザイ!」

「杉原さん、私たちは絶対に貴方のことを忘れない!」

ユダヤ人難民は皆遠ざかる列車に向かって叫んだ。

「また、会いましょう、必ずね!」

殆どのユダヤ人は、2度と杉原に会うことは出来無かった。しかし、彼を忘れる者はいなかった。

マサチューセッツ、Farmingtonで既に隠居しているメリヤス商、サミュエル・ミンスキーさんは、

杉原のビザのおかげで、母と兄弟と一緒に日本を経由してアメリカに移住出来、アメリカで父にも再会出来た。
「皆、シンドラーの事ばかり話題にする。しかし、彼はユダヤ人を彼の工場で、ただ同然の労働力として働かせたのです。勿論、シンドラーを否定はしません。しかし、我々はもうひとり、信じがたい善行をただ、自らの良心に基づいて実行した偉大な人物を忘れてはなりません。」

「杉原は、彼の行いにより、カネを儲けるどころか失ったものの方が遙かに大きいのです。彼の善意がなかったら、私は、絶対に今ここでこうして生きていられなかったでしょう」

杉原は控えめな人だった。

自分の英雄的行為について、自分の兄弟にすら、何十年も話さなかった。

だから、彼は日本では何の評価も受けていなかった。

杉原は、この世を去る前年、こういった。
「彼ら(ユダヤ人難民)は紛れもなく人間なのです。その彼らが助けを求めてきたのです。私はあれを実行するだけの決心が出来たことを嬉しく思います。日本人として、私は当然の事をしたに過ぎないのです。」


やはり、私は杉原千畝氏は立派な人だったと信じて疑わない。

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