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JIROの独断的日記
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2006年01月27日(金) 「このドミニカン派の坊さんは聖者だというけど、僕は少し怪しいと思う」(「モーツァルトの手紙」より)

◆「モーツァルトの手紙」(岩波文庫)より

 

 (姉あて)1770年8月ボローニャにて。(引用者注。このときモーツァルトは14歳)

 現在ぼくはまだ生きていて、ピンピンしています。驢馬にのってみました。イタリアではこれが習慣なので、ひとつやってみなくちゃ、と思ったからです。

 あるドミニカン派の坊さんとお近づきになりました。 この人は聖者だという話だけれど、ぼくは少し怪しいと思う。

 何故って、この坊さんは朝食にはチョコレート(注:日本風にいうと、ココア)をコップにいっぱい平らげたかと思うと、

 すぐそのあと、スペインの強いお酒をなみなみとついで、キュっとやるのですよ・・・。

 お酒を相当やったあと、最後にコップいっぱい酒をぐいのみした上で、でっかいメロンを二切れ、

 それから桃と梨とコーヒー五杯。鳥を皿に山盛りと、たっぷり二皿のレモン汁を入れたミルクもお腹に入れちゃうんですよ。

 これも「おつとめ」と思って我慢して食べているのかも知れないけど・・・ぼくにはそうは思えない。

 この坊さん、おやつもまた色々と召し上がるんです。さよなら、じゃ、また。

 ぼくのかわりにママの手にキスをしておいて。


◆所感:250年前の今日、ザルツブルグに人類史に永遠に名を残す天才が生まれた。

 

 1756年1月27日である。

 モーツァルトは音楽家の息子だが、父親のみならず、当時の全ての音楽家が唖然とするほどの、桁違いの天才だった。

 父親のレオポルド・モーツァルトは早くにその才能に気が付いて、息子がまだ6歳の頃から、ヨーロッパ中を旅して、その才能を喧伝した。

 それは有名な話で、私は学生の頃から知っていたが、何となく「幼い子供をあちこちで売り込んで一稼ぎしようとした、あまり感心しない父親」

 という極めて現代的というか浅薄な解釈しかできなかった。



 ところが、ずっと後年、イギリス駐在中、幸いにもザルツブルグに行くことができた。

 読者諸氏でも行かれた方は多いと思う(因みに、わたしが行ったときには、黒柳徹子を見かけた。ザルツブルグ音楽祭を見に来たらしい。すごいオーラだった)。

 話が逸れたが、実際にザルツブルグへ行ってみて、とても美しいが、実に狭い街(というか、村というか・・)だったので少々驚いた。

 そして、モーツァルトの父親の気持ちが分かった。

 あれだけのものすごい才能を持っていて、ザルツブルグの田舎でじっとしていては、どうにもならない。

 早くに色々なものを見せて見聞を広めないと、才能が花開く機会を失ってしまう。

 それに、当時、音楽家は独立した自由業ではなく、宮廷に雇って貰わなければ食えなかった。

 王族・貴族の雇われ職人だったのだ。食事もコックなどと一緒にしていたのである。

 だから、父は息子の為にできるだけ、やんごとなき方々に拝謁し、「演奏を聴いていただき」、

 できれば雇っていただけることができれば、それが息子の為になる、と考えたのであろう

 (しかし、結果的には、モーツァルトは初めて、このような権威への服従を拒んだ音楽家になった。それが、貧乏の原因にもなったのだが)。


◆あちこち旅先からこのような手紙を姉や母に書いて送ったのである。

 

 モーツァルトが旅先から書いた、夥しい数の手紙は幸い残っていて、

 この人類最高の天才が、どういう物の見方をする人間だったのかを知る、非常に貴重な資料となっている。

 有難いことに、日本語に翻訳されており、岩波文庫で読むことができる。



 上で紹介したのは、初めてのイタリア旅行の際に書いた多くの手紙のごく一部だが、面白いでしょう?

 14歳というから、今の日本なら中学2年生の少年が、朝っぱらからモリモリと食いまくる、「生臭坊主」をじっと観察している様子があたかも目に浮かぶようである。

 「この坊さんは聖者という話だが、ぼくは少し怪しいと思う」という。

 つまり、若干14歳にして、大人達の「既成の評価」よりも、自分の目で見た事実から下した判断を重んじた。

 他の手紙を読んでみても、モーツァルトが大人達の虚栄心や世俗的な欲望を冷静に観察し、指摘する記述が随所にある。

 モーツァルトの音楽だけを聴いているだけで十分楽しいが、へえ、こういう人間だったのか、という意外感が味わえる、大変興味深い史料である。


◆お薦め:ディヴェルティメント第17番 K.334 ウィーン室内合奏団

 

 モーツァルト:ディヴェルティメント、演奏:ウィーン室内合奏団

 スレたクラシックファンはバカにするだろう。あまりにも有名だからだ。 第3楽章は「モーツァルトのメヌエット」とかいって、単独で演奏されることが多い。

 有名な曲だとわざとよけるというのは、まだ、修行が足らんよ。

 例えば、ベートーベンの「運命」を、「あー、ポピュラー音楽ね」なんていう奴。ダメ。大した感受性じゃ有りません。

 同様に、このディヴェルティメントが分かんないようじゃダメだね。 まあ、他人のことは、いいや。



 わたしゃ、この曲が好きでね。 理屈じゃないんす。好きなんす。(「好き」に理屈は要らんですよ)。

 ディベルティメントは日本語では「喜遊曲」とか「嬉遊曲」というが、この訳、上手いとおもうよ。

 全曲素晴らしいのだけど、3楽章の「モーツァルトのメヌエット」だけ取り上げても、ただごとではない。

 「典雅」(正しく上品なこと。整っていてみやびやかなこと。広辞苑)と言う言葉を音楽にするとこれになると思うのだ。

 上品、みやびやか。うきうきするような音楽。


◆ところが、弾く方は大変なんだそうだ。

 

 ちょうど二ヶ月ほどまえに、 「バイオリニストは肩が凝る」(鶴我裕子 NHK交響楽団第1バイオリン奏者 著)を紹介した(因みにこのリンク先、Amazonのカスタマーレビュー「N響マニア」は私です)。

 この本でN響のバイオリン奏者鶴我裕子さんが、まさにこのディヴェルティメントについて触れているところがある。

 第一バイオリンばかりがやたらと活躍する曲なのだが、特に、最後の楽章の難しさはプロでもハンパじゃないのだそうだ。



 モーツァルトの曲はK.334と言う具合に頭にKが付く。

 これは、モーツァルトの全作品に番号を付ける、という大変な仕事をした19世紀、オーストリアの植物学者,鉱物学者,音楽研究家、

 ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル氏に因んで付けられた記号で、「ケッヘル番号」という。



 それで、ディヴェルティメント第17番は「K.334」なのだが、第一バイオリンの人たちはあまりに難しので、この334を「さんざんよ」と呼ぶのだそうな。

 このCD,モーツァルト:ディヴェルティメント、演奏:ウィーン室内合奏団で第一バイオリンを弾いているのは、

ウィーンフィル関連の質問に僭越ながらお答えしますにも書いたが、ウィーン・フィルの伝説的名コンサートマスターだったのに、

 1992年登山中滑落死した、ゲアハルト・ヘッツェル氏だ。

 これ、名盤ですよ。こんな名演はないですよ。


◆クラシックのポッドキャスティングをしている方にリンクしていただきました。

 

 JIROの独断的日記ココログ版の方にTBを下さった、眉墨(まゆずみ)トーシローさんは、

 数少ない「クラシック音楽を紹介するポッドキャスティング」である、ポッド ムジーカを運営しておられる。

 先日ココログ版にTBを頂戴したので、先方のサイトにコメントを書かせていただいたら、次回の放送第4回目で取り上げて下さるという。

 眉墨さんはアマチュアオーケストラでフルートを演奏なさるそうだ。モーツァルトに造詣が深く、語り口がとても柔らかい。是非お聴き頂きたい。


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