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JIROの独断的日記
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2005年01月31日(月) 「障害がある人間」=「劣った人間」とはいえない。(追加あり)

◆アインシュタイン、ビルゲイツは高機能広汎性発達障害だ

 

今夜、テレビで自閉症の子供さんを取り上げていたけれども、どうしても、障害を持った、「可哀相な」「気の毒な」人、という雰囲気を出そうとしている。ナレーションが気に入らん。故意に、悲劇的なトーンで話す必要はない。

自閉症は、精神科で扱うが「発達障害」という分野である。原因はまだ、判明していないが、周りに人がいないように振る舞う、とか、自分の世界に閉じこもる、とか、言葉の発達が遅れているとか、まあ、そんなことが書いてある。

しかしながら、同じ自閉症の領域に属する発達障害に「高機能広汎性発達障害」というのがある。

「高機能」とは、知能のおくれがない、ということで、それでは何が問題なのかというと、



  • 相対的対人関係の質的異常
  • コミュニケーションの質的異常
  • 幅狭く常同反復的である行動・興味・活動のパターン

の三つの領域に障害があることで特徴づけられる発達障害だそうだ。

 ところが、小見出しに書いたとおり、相対性理論は分からなくても、相対性理論のアインシュタインと言えば誰でも知っているあのアインシュタインも、我々(の過半数)が使っているWindowsを作った、ビル・ゲイツ氏も「高機能広汎性発達障害」なのだ。

異常とは文字通り「常」と「異なる」と書くわけで、そういう意味なら、なるほど、二人とも異常なのだろう。

しかし、アインシュタインとビル・ゲイツよりも自分の方が優れている、と自信を持って言えるひとがいたとしたら、そのほうが、ちょっと、危ない。


◆障害を持つ音楽家たち。イツァーク・パールマンの場合。

 

ここでは、身体に障害がある人を取り上げる。私の得意分野、音楽の世界には、身体的障害がありながら、「超一流」の評価を得ている人が何人もいる。

例えば、イツァーク・パールマンという、一応アメリカ人だが、その名の示すとおりユダヤ人のヴァイオリニストは、現存するヴァイオリニストの中でも最高の技術と音楽性を併せ持つ、希有な天才だが、足が不自由である。

 小児麻痺で足の自由を失い、ステージに出てくるときは、巨体を松葉杖で支えながら出てきて、普通のヴァイオリンのソリストは立ってヴァイオリン協奏曲を演奏するが、彼は椅子に座って演奏せざるを得ない。

その椅子に辿り着くまで、両手は松葉杖で塞がってしまうから、指揮者が彼のヴァイオリンと弓を持って一緒に出てきて、パールマンがどっこいしょ、と椅子に座ったところで、彼に、楽器と弓を渡す。

すると、パールマン先生は、指揮者に向かって「ちょっと待って」という仕草をし、自分の燕尾服の内ポケットをゴソゴソ探りはじめる。

 何をやっているかと思うと、おもむろに指揮棒を取り出し、「ああ、あった」とか云いながら、指揮者に渡す。観客にどっとウケる。と毎回分かっているのだが、やるのである。

彼のサービス精神である。ステージに出てくるとき、痛々しいので、観客がどんな顔をして良いか分からぬ、という雰囲気を敏感に察して、彼の方が気を使って色々考えた末、こういう「コント」を思いついたらしい。

ヴァイオリンを弾き出すとその上手さは、筆舌に尽くしがたく、それは競演するオーケストラのヴァイオリンセクションを初めとする音楽家たちの表情を見るとよく分かる。

彼ら以上にヴァイオリン弾きに苦労が分かる者は居ない。ソリストにとっては、一番怖い「聞き手」であるが、ベルリンフィルのような、超・超・一流のオケの連中もコンチェルトの後で、拍手を惜しまない。

ある日本のオーケストラのヴァイオリニストは「彼は、足が不自由だが、彼のヴァイオリン演奏を聴いていると、それ以上に自分が、手が不自由な人間に思えてくる」と評していたのは、言い得て妙である。なにより、パールマンの音楽を聴けば、脚が不自由であることなど忘れてしまう。パールマンといえば、まず彼の音楽を想起するのが普通の音楽ファンであろう。つまり、音楽家としての彼の評価に、身体的障害は全く入り込む余地がないのだ。


◆全盲のヴァイオリニスト和波隆義

 

ヴァイオリニストの和波孝禧(わなみたかよし)氏は(1945年生まれだから、今年還暦かあ。もう、そんなになるかな。)生まれたときから、視力が無い。

しかし、ご両親が大切に育てられ、そのうちに音楽的才能があることに気づき、鷲見三郎(すみさぶろう)氏、江藤俊哉氏に師事し(このお二人に教わるというのは大変なことなのだ。日本で一番偉い(つまり優秀な弟子が沢山いる)、先生なのだ)、後は省略するが、もう何十年もヨーロッパを中心にソリストとして活躍している。

ライプツィッヒ・ゲバントハウスなどという、由緒あるオーケストラ(メンデルスゾーンがここの指揮者だった)から呼ばれるというのは、目もくらむほど大変な修行の成果だろう。

話が少し逸れるが、目の不自由な人はどうやって音楽を覚えるかというと、ちゃんと点字の楽譜というものが存在するのである。というか、実は、点字は楽譜が最初だった、ということは余り知られていない。文字の方が後から出来たのだ。何かの本でずっと昔に読んだ。

さて、和波孝禧氏はソリストだけではなく、ここ10数年で大変有名になったサイトウ・キネン・オーケストラで、ソリストとしてではなく、オーケストラのメンバーとして演奏をすることがあるのだが、和波さんを見ていると全く奇跡としか云いようがないことが、目の前で起きる。

つまり、オーケストラは指揮者の棒を見て、曲の一番最初の音を出すタイミングとその後のテンポを知る。最後の音を長くのばして、切るときも、棒を見る。

いうまでもなく、これらは視覚情報である。和波さんは全く何も見えない。最初の音をどうやって合わせるか(クラシックではロックバンドのように「1・2・3・4!」などとカウントすることは絶対にない。)?

何もしないのに、他の人とぴたりと合わせて弾きはじめるのである。

 あまりにも自然なので、一瞬、誠に失礼ながら、本当は見えるのではないか、と思うほどである。

ご本人は、「非常に単純化していえば、集中力と訓練によって可能です。」と仰るのだが、どうにもこうにも、初めて生で拝見したときは驚いて、しばらく、何も声が出なくなったことを覚えている。

分からないなりに想像すると、音楽家は管楽器奏者や声楽家でなくとも、必ず音を出す前に、ブレス(呼吸)をするし、フレーズの切れ目でも呼吸をする。

 音楽の本質は歌であるから、呼吸の無い音楽というのは、無いのである。

 しかし、管楽器奏者も弦楽器奏者も同じステージの隣の人間にも聞こえないぐらいの呼吸音しか、出さない。オーケストラ全員のブレスがいちいち、「スーハー、スーハー」と聞こえたら、やかましくて、音楽にならぬ。

だが、和波孝禧さんはこのときのわずかな、空気の変化を、目が見える者よりも敏感に感じ取っているのではないかという気がする。しかし、それだけでは、音を切るときやテンポが変化するときはどうするのか、説明にならぬ。兎に角、不思議なことなのである。

 なお、和波孝禧さんに関しては、本が2冊ある。ひとつは、母上がお書きになった母と子のシンフォニー―盲目のヴァイオリニスト、和波孝禧を育てた母の手記という、大変に有名になった本である。息子が目が見えないことを、全く気にしなかった訳はないが、一緒に旅行に行ったり、ヴァイオリンのレッスンに行ったりした、母上の溢れるばかりの愛情に、親とはこういうものか、と、胸が熱くなる。

 もう一冊は、和波孝禧さんご自身の著書がある。音楽からの贈り物という本で、プロの演奏家になって独立して、結婚して(奥様はピアニストでいらっしゃる)、演奏活動や日常生活で感じた、音楽のこと、生活のこと、目が不自由な人が世間の人々に知って欲しいこと、などが、端正な文章で綴られていて、私は、視覚障害者云々というよりも、プロの音楽家、プロのヴァイオリニストが書いた、大変貴重な本だと思っている。


◆ある能力がたまたま欠けているからといって、それで終わりではない。

 

色々な「障害があるといわれている人」が世の中には居るが、アインシュタインの例で分かるとおり、本当に障害と言い切れるのか?障害とはなにか?というケースがある。

また、二人の音楽家で明らかなとおり、ある能力は確かに欠けているが、それを補って余りある能力、才能を持っている人がいる。

だから、「障害がある人」=「劣った人」と単純に決めつけるべきではない。


2004年01月31日(土) BSE問題「米国、全頭検査拒否」←米国は、全頭検査している和牛をいまだに禁輸している事、知っていますか?
2003年01月31日(金) フランツ・シューベルト

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