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JIROの独断的日記
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2004年03月02日(火) 「国民が刑事裁判に参加へ、裁判員法案を閣議決定」←止めた方がいいと思います。

◆記事:国民が刑事裁判に参加へ、裁判員法案を閣議決定

政府は2日の閣議で、国民が裁判官とともに刑事裁判の審理に参加する裁判員制度を導入する法案など司法制度改革関連九法案を決定した。今国会での成立を目指す。裁判員制度の施行は公布後5年以内。今国会で成立すれば2009年までに現在の裁判形態が大幅に変わることになる。

裁判員制度は20歳以上の有権者から無作為に選出した裁判員が一審の審理に加わり、有罪・無罪の決定や量刑を判断する仕組み。日本では戦時中の1943年、採用された例があるが、戦後は職業裁判官による審理が定着した。新制度の対象となるのは死刑や無期懲役などにあたる重大事件。裁判員に選ばれた有権者は非常勤の国家公務員となり、裁判の評議内容など職務上知った秘密については生涯、守秘義務を負う。第三者に漏らした場合は1年以下の懲役または50万円以下の罰金が科せられる。裁判は原則として裁判官3人、裁判員6人で構成するが、被告が起訴事実を認めている場合は裁判官1人、裁判員4人とすることも認めた。評決に際しての裁判員の権限は裁判官と対等で、多数決によって決定する。 (11:01)


◆コメント:周りの人間の意見に流され易い日本人には無理だと思います。

裁判員という名前にするらしいが、要するにイギリス・アメリカの陪審員制度を真似しようということですが、私は反対である。それは、主に、次の4つの理由による。

1.一般人の判断は感情的にならざるを得ないこと。

記事によれば、裁判員が関わるのは、死刑や無期懲役に相当する重大犯罪だということだが、そのような重大な決断に素人を絡ませてよいのか?法律知識が無い素人は、有罪か無罪かを決するにあたり、最終的には直感に頼らざるを得ないだろう。直感的というと、まだ、聞こえがよいが、要は感情に基づいて判断をする。

極端に言えば、同じような犯罪でも、裁判員に女性が多ければ、被告人が非常にハンサムである場合と、人相が悪い場合とでは、絶対に前者に対しては甘い判断を下すだろう。そんなもので、被告人が無期懲役になったり、死刑になったりしてよいのだろうか。

2.日本人は、周りを見て自分の立場を決める傾向があること。

陪審員の裁判における評決は、最後はあくまでも自分で考えて、行うべきものであり、他の裁判員全員が無罪と言っていても、自分は有罪と思ったら、あくまで有罪を主張しなければならない。これは「和をもって尊しと為す」日本的美徳の正反対であり、多くの一般人にとって、実行が困難であると思料されること。

3.裁判にはどうしても専門的な知識と論理的思考の訓練が必要であること。

これは、1の延長上にある問題だ。

例えば、刑法学には、「因果関係」という問題がある。過去に本当にあった事件で、刑法の教科書に良く使われるのを示す。

被告人Aはジョギング中に被害者B(既に死亡)と肩がぶつかり、口論となり、それがエスカレートして殴り合いになった。AはBの顔をめがけて殴りかかったところ、Bが顔をそらして、耳たぶに軽い切り傷を負った。

Bはたまたま、ある宗教を信仰していて、その宗教では神棚に供えてある「御神水」(ごしんすい)は神秘の力を持っており、如何なる傷をも治す力があるとされていたので、Bは耳たぶの傷にその水を塗った。

ところが、実際にはこの「御神水」は何年も神棚に供えたまま交換しておらず、恐ろしく汚い水で、Bは水の中に含まれていた細菌が傷口から血液中に侵入したため、敗血症を起こして死んでしまった。

この場合、Aは如何なる刑事責任を負うのであろうか?というのが、因果関係をめぐる問題である。

2つの事象PとQの間に「PなかりせばQなかりし」(Pがなければ、Qが無かった)という場合にPとQとの間には「条件関係」がある、という。条件関係があるところには、すべて刑事責任がある、とする学説が「条件説」である。

それに従うと、Aは殺人罪になるだろう。さて、これでいいのか?

これは、ほんの一例であり、刑法の教科書には、他にも錯誤とか、共犯とか、相当理屈っぽい話がたくさんある。それらをまったく知らない人間が、他人に刑罰を与える決断をする、というのは、やはり無理があると思われるし、妥当な結論に至るかどうか、甚だ疑わしい。

4.社会環境(裁判中は問答無用で何週間も仕事から離れるのですよ)の問題

イギリスでは、昔から陪審員制度があって、市民の義務のひとつに「陪審員の義務」、つまり、国から陪審員をやれといわれたら、応ずるのが市民の義務だ、という意識が根付いているので、本人も嫌とは言わないし、勤め先も、「それは、やむを得ない」と仕事を休むことを快く認める。果たして日本で同じような意識と社会的風土が醸成されるだろうか。

どんなに忙しい、やりかけの仕事があっても中断して、「明日から4週間、裁判員になるので休みます」と、言わねばならない。職場を代表とする、周囲の人々はそれを全く抵抗無く認めなければならない。その覚悟、というか社会的な意識がなければ、陪審員制度は成立しない。

以上が、私が裁判員制度の導入に反対する理由である。


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