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JIROの独断的日記
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2002年11月12日(火)  1989年11月13日。 島根医科大学第二外科の英断 日本初の生体肝移植

13年前、1989年の明日、11月13日、島根医科大学で日本で初めての生体肝移植手術が行われた。日本では1960年代に札幌医大で行われた心臓移植の是非をめぐって大論争が起き、執刀医は殺人の容疑までかけられた。それいらい、欧米での内臓移植技術の発展を横目に見ながら、日本では「移植」の話題は長い間、タブー視されていた。
 
 肝臓移植を受けたのは、当時、まだ一歳にも満たない杉本裕弥ちゃんだった。先天性胆道閉鎖症という病気で肝硬変になっており、そのままでは、間もなく死を迎えざるを得ない事はあきらかだった。脳死臓器移植が認められていなかった当時、裕弥ちゃんを救う手段は生体肝移植しかなかった。しかし、日本では、まだ、だれもこの手術を行った経験のある医師はいなかった。
 
 手術を引き受けたのは島根医科大学第二外科の永末直文助教授(当時)だった。永末医師らは、永年、ブタを使った肝臓移植の研究を続けていた。しかし、人間の肝移植手術を日本で初めて手がけるのには大変な勇気が必要だった。失敗すれば、永末医師らの責任が問われ、医師生命を奪われる可能性が高かった。永末助教授の上司、中村教授は、手術を行う事が決まってから、永末医師に「永末君、私はもう13年もここの教授をしていて思い残す事は無い。しかし、君はこの手術で全てを失うかもしれない。ぼくはそれが一番心配だ。本当に君はそうなっても構わないのか」と何度も尋ねた。その度に永末医師は、「先生、大丈夫です。誰かがやらなければならないことを私たちが今度やるだけです。これで弾劾されたら田舎に帰って開業します。」と答えた。
 永末助教授の意思は堅かった。初めてこの手術のことを外科のチームに話したところ、皆、あまりの事の重大さに沈黙してしまったという。そのとき、永末助教授は、言った。「赤ちゃんは死にかけている。家族は結果を問わないからやってほしいという。我々は肝移植を標榜している。これでわれわれのチームがこの移植を拒否するなら、この研究室での肝移植の研究はすべて明日からやめよう。」・・・・。
 
 私はこの話を読んだときに、「何という立派な先生であろうか。自分はどうなっても良いから患者を救いたいという・・・。こんな立派なお医者様がまだいたのだ・・・」あまりの感動で胸が震えた。
 
 手術は成功したが、その後、拒絶反応や様々な合併症を併発し、翌年の8月、裕弥ちゃんは亡くなった。しかし、家族はそれでも永末助教授らのチームに心から感謝していた。チームの医師たちは手術後の約9ヶ月、休みはおろか、自宅に帰ることすら殆ど無かったという。それぐらい、ぎりぎりの、最大限の努力を尽くしたことが、裕也ちゃんの家族たちには十分すぎるほど分かっていたからだ。裕弥ちゃんのお母さんは、その後生れた男の子に永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」を取って、「直弥」という名前をつけた。
 
 実は私の親戚がこの手術チームにいた。だから、医師たちの壮絶なまでの努力はじかにつたわってきた。
 
 初めて、何かを行う人はかならず、世間の批判に遭う。このときもそうだった。生きている人間の肝臓の一部を切り取ることに、倫理的な問題はなかったのか。インフォームド・コンセントは十分になされたのか。つまり、島根医大のチームが名誉欲にかられてこの難しい手術を引き受けたのではないか。というわけだ。人間とは卑怯なものである。自分はリスクを取らないくせに、大変なリスクを取ってまで人の命を助けようとした医師達を批判しようとしたのだ。
 
 しかし、その後、生体肝移植は術は国内各地の大学病院で行われるようになり、大勢の胆道閉鎖症の子供や大人の命を救った。島根医大が「初めての」生体肝移植を手がけてくれたおかげなのだ。その勇気と使命感を、心から尊敬する。


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