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■ 川口圭子『花いちもんめ』戯言
演出の戯言「周年<執念」 「どこでもいい、なにもない空間―それを指して私は裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る。もう一人の人間がそれを見つめる―演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ」 かの演出家ピーター・ブルックはその著書「なにもない空間」でこう書いた。後進の多くはこの言葉に多くの影響を受け、道標にしてきた。だが問題は一人芝居だ。一人芝居の場合、もう一人の見つめる人間は舞台上に存在しないのだ。 戦後80年を迎え、体験者が減り、風化も叫ばれる中、周年事業として反戦を叫ぶのではなく、『当事者でない僕らが、安直なシンパシーでなく、戦争って悲惨云々ではなく、或る体験を観る方と共有することができるのか』をテーマに川口圭子さんと宮本研さんの名作に対峙してきた。棄民の歴史、集団自決、国家や軍隊の強制云々だけではない、ただの被害者としての顔を持つことができない、深い闇がそこにはある。 私上、最少人数での稽古を重ねながら辿りついたのは、客席が「見つめる」という行為をどう信じることができるのかということ。想像力の翼を広げ「今」に参加してくれるのを信じて、そこに存在する。あったことを「なかったこと」にしない為に、あの戦争から80年の時を経、忘れ、新たな戦争へと着実に近づいている「今」に。某参議院議員がエビデンスもないまま、ひめゆりの展示を挙げ「ひどい、歴史の書き換えだ。自分たちが納得できる歴史をつくらないといけない」と訴えるような「今」に。 嘗てご自身で演られた演目を「新たにちゃんと創りたい」と相談を受けてから3年以上待ってもらい、今日の公演日を迎える。これはある意味、どうしても伝えたい!という川口さんの執念でもある。「周年」よりも創り手の「執念」は勝るのだ。 狭いところで恐縮ですが、最後まで目を逸らさずご覧ください。 藤井 ごう
2025年05月12日(月)
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