再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 青年劇場九月公演に向けて。

『飯沢作品と出逢う』

稽古開始まであと一か月ちょっと。ということは、そこから一か月ちょっとするともう本番を迎えているわけで、大体この時期はその世界の住人と肩を並べるべく、自分の不勉強を呪いながら、戯曲やら関連本やらを漁る訳だが、見えてくるのは飯沢氏の「智の巨人」振りである。エッセーでは僕ら演劇界の若輩にとっては「大先生」「偉人」とされる人物たちを笑いを交えながら切り刻み(でもそのおかげで「偉人」の人となりが偉人伝より伝わってくる)、その見識の広さで演劇界を、社会を、世界を切る(これもよく伝わるのです)。
戯曲においては、その目線を鋭意生かして軽々と飄々と常人の考えつく遥か上の世界を構築し、でありながら、「やっぱりリアリズムなのである」と纏め、抗え切れない圧倒的な力に「笑い」の力で対抗する。声高に反対を表明するのとは違う、「笑わせ」ながら我が身を思わざるを得ない所に観客を巻き込む。その練りつくされた戯曲。ご本人はその智を持って、事態を俯瞰して眺める、考えさせる。
さて『もう一人のヒト』である。
戦争の狂気に対し、虚飾塗れようが、地べたに這いつくばろうが「人間」の「生活」に「焦点」を当てながら、思い切り皮肉めいて魅せる。でもだってそれでこその人間。計算されつくした「人間だもの」の嗚呼、人間悲喜劇―
さて、この令和元年にどう演り、客席とアダプトできよう…
飯沢氏曰く「私が、長い間、この案を持っていながら舞台上に載せなかったのは、俳優を得られそうになかったからである。」―なるほど、初演は民藝、再演は24年前青年劇場。今は…
曰く「私は、自作が拙速のいわゆるアチャラカで上演されることは、好ましくない。」ーアチャラカの意味が直ぐに理解できる現代人は、少なくなりました。たとえそうなっても大丈夫です。
曰く「人々が謹直に演じて下されば下さるほど、作品の機笑性は多く発揮されるのである。」―謹直に、ですね。ハイ!(…本当の意味は後で調べよう)
曰く「現在の日本の喜劇の最大の欠点は、習練による技術を軽視し、それを誤魔化すため不必要に誇張して却って真実を失っていることである」ーこの事は、私が生まれた1974年時点で言われたことですが、大丈夫です、現状もほぼ、変わっておりません。もっと酷くなっている所も散見します(苦笑)、その轍は踏みません。
曰く「私は劇作家であり同時に演出家である。大抵の劇作家は鳥なら卵は生みっ放しで他人に孵化させる人が多い。これを書物に置き換えてみると随分と乱暴な話である。せっかく苦心して書いた自分の思想を、ひどい編集者に任せるようなものである。神経質な私は自分の思想が、他人がいじくり廻して変てこな自作の舞台を見た時のショックの方より無理してでも自分で演出した方がまだ健康上はよろしいようである。」(中略)
―(ドキッ)…まあ、そうおっしゃらず、飯沢さん。
曰く「貧乏な青年劇場(青年座にあらず)という新劇団に書き下ろすので、場面は一場面に限った。」(略)ーこれは別の作品について言っているのだが。この芝居は、大別して二場面とさらに大きく一場面。つまり三場面あるのですよね、飯沢さん?
曰く「一人のミスキャストもなく、総ての出演者が生々と、役を生活しているのを見るのは、まことに快いものである。」―【場当り的な演技でなく、役を生きる】それはもう、いつも思っていることです!

…本を通じてだが、ご本人の哲学と出逢う。
表立ってくるものに総攻撃を浴びせる今、その事だけに右往左往してしまいがちだが、創り手である僕たちは表からは見えないものに敏感でなくてはならない、表で見えるものが生み出される為に、裏でどのようなことが行われているのか。表で起きている間に裏では何が起きているのか。わかる、わかりやすいことが流行っている、「見える」ものが風靡している。
でも見えないものは「ない」のではない「ある」けど見えないのだ。

暑い夏になりそうです。

藤井ごう
(種々のご本人の書かれた本やら、インタビューから都合よく抜き出しました。陳謝)

2019年06月17日(月)
初日 最新 目次 HOME