刑法奇行
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2005年12月28日(水) 続・キャッチャー・イン・ザ・ライフ

 慶應生のサイトの中に日吉での刑法各論の授業評価が出ていた。「授業はオヤジギャグを盛り込みつつ行われます。よく言うギャグはオッケー牧場!それでも先生はかなり有名な方なので、授業自体はいいです。」と。何かこう冷静に書かれるとね。多様な事例も盛り込んでいるし、ガッツ石松のオッケーじゃなくて、オーケーなんだけどなあ。映画「OK牧場の決闘」に関連するんだけどな。まあいいか。

 ところで、確かに年々、クラス会やら同期会の回数が増えてきている。これは、想い出再生という意味では評価できるだろう。しかし、そろそろ人生も終盤だから、ここらで総括していこうかということだったら、say say sayという感じである。まだまだ、やりたいことも多いし、なりたいことも多いのである。もっとも、原点に返るという意味では、貴重な再会かもしれない。おそらく、そこに意味があると思うのである。

 U田さんのブログでも引用されており、以前この奇行でも取り上げた「ライ麦畑でつかまえて」などは、この原点の1つである。主人公ホールデンは妹のフィービーに、自分がやりたかった仕事について次のように言うのである。「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子どもをさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」(サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』[村上春樹訳]287頁)

 また、薫君がいろいろあって、最後に由美と歩きながら考えたことである。「でもそのうちにぼくにははっきりと分かってきた。ぼくには突然のようにぼくが考えていることが分かった。ぼくは溢れるような思いで自分に言いきかせていたのだ。ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。・・・ぼくは森のような男になろう、たくましくて静かな大きな木のいっぱいはえた森みたいな男に。・・・そして、ちょうど戦い疲れた戦士たちがふと海の匂い森の香りを懐かしんだりするように、この大きな世界の戦場で戦いに疲れ傷つきふと何もかも空しくなった人たちが、何故とはなしにぼくのことをふっと思いうかべてたりして、そしてなんとはなしに微笑んだりおしゃべりしたり散歩したくなるような、そんな、男になろう・・・・。」(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』189頁以下)

 あの頃の未来に今立っているとは思えないのだから、依然として「途上」なのである。まさに、「旅はまだ終わらない」のである。

ジャスティス for エンプチー in 年末


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