与太郎文庫
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2004年10月29日(金)  やはり野に置け 〜 玉と王の対話 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20041029
 
 終盤は“泥沼流”だが、感想戦では“さわやか流”。
 ふしぎな定跡“米長玉”を創始、百科事典にも掲載されている。
 五十才目前に最年長名人となり“中年の星”と仰がれた。
 
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 やはり野に置け蓮華草
 蓮華草(れんげそう)は野原に咲いているからこそ美しい。自然のま
まの状態におくことの大切さをいう。転じて、人もその人に合った環境
の中でこそ、魅力があり、幸福がつかめるということのたとえ。もとは
「手に取るな」の句が前につく。
 
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hit51/diary-set/20030130/
── 《MyDiary 20030130》
 
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 人は、考えこむときにすぐれて見える。ゴリラも、なぜか集団で虫の
動きを(考えぶかげに)見入ることがある。TV将棋では、米長邦雄の
表情が傑出している。難局に入るや米長はみるみる老化しはじめ、数分
で十歳も老けこむかにみえる。終局つまり勝敗が決した瞬間、たちまち
米長はもとの年齢にもどる。ついさっきまでの彼は、霊長類の系統発生
をたどっていたにちがいない。最盛期の仇名はオランウータンである。
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19960605
── 《早くセネカ! 19960605 与太郎文庫》
 
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 国旗・国歌「強制でないのが望ましい」天皇陛下が園遊会で
 
 天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米
長邦雄さん(61)から「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させ
ることが私の仕事でございます」と話しかけられた際、「やはり、強制
になるということではないことが望ましい」と述べた。
 
 米長さんは「もうもちろんそう、本当に素晴らしいお言葉をいただき、
ありがとうございました」と答えた。
 
 天皇が国旗・国歌問題に言及するのは異例だ。
 
 陛下の発言について、宮内庁の羽毛田信吾次長は園遊会後、発言の趣
旨を確認したとしたうえで「陛下の趣旨は、自発的に掲げる、あるいは
歌うということが好ましいと言われたのだと思います」と説明。さらに
「国旗・国歌法制定時の『強制しようとするものではない』との首相答
弁に沿っており、政策や政治に踏み込んだものではない」と述べた。
 
 「日の丸・君が代」をめぐっては、長年教育現場で対立が続いてきた。
東京都教委は昨秋、都立校の式典での「日の丸・君が代」の取り扱いを
細かに規定し、職務命令に従わない教職員を大量に処分。99年に教育
委員に就任した米長さんは、こうした方針を推進する発言を繰り返して
きた。 (20041028 23:41 朝日新聞)
 
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 清水 司   電波物性工学 19250122 東京 /東京家政大学理事長/都教育委員長
 国分 正明  文部事務次官 19360207 東京 /日本芸術文化振興会理事長/都教育委員
 鳥海 巌   元丸紅会長  19330222 神奈川 /都教育委員
 米長 邦雄 棋士・永世棋聖 19430610 山梨 /19930521-19940606最年長名人1999都教育委員
♀内館 牧子  脚本     19480910 秋田 /都教育委員20000912“初の女性横綱審議委員”
 横山 洋吉         19420209 東京 /都教育長
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 石原 慎太郎 東京都知事  19320930 神戸 /1975落選19990423就任〜《太陽の季節 1955》
 今上 天皇  第125代天皇 19331223 東京 /19890107即位0108平成改元
 羽毛田 信吾 宮内庁次長  19420405 長野 /元厚生事務次官

 
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 国旗国歌法
 
(国旗)
第一条 国旗は、日章旗とする。
    日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
(国歌)
第二条 国歌は、君が代とする。
    君が代の歌詞および楽曲は、別記第二のとおりとする。
 付則
 (施行期日)
 1 この法律は、公布の日から施行する。
 (商船規則の廃止)
 2 商船規則(明治三年太政官布告第五七号)は、廃止する。
 (日章旗の制式の特例)
 3 日章旗の制式については、当分の間、別記第一の規定にかかわら
ず、寸法の割合について縦を横の十分の七とし、かつ、日章の中心の位
置について旗の中心から旗ざお側に横の長さの百分の一偏した位置とす
ることができる。
 
 別記第一(第一条関係)
 日章旗の制式
 一 寸法の割合および日章の位置
 縦 横の三分の二
 日章 直径は縦の五分の三、中心は旗の中心
 二 彩色
 地は白色、日章は紅色
 
 別記第二(第二条関係)
 君が代の歌詞および楽曲
 一 歌詞
 君が代は
 千代に八千代に
 さざれ石の
 いわおとなりて
 こけのむすまで
 二 楽曲=楽譜略
 
── 二十一日夕、衆議院内閣委員会で自民、自由、公明三党や民主党
の一部などの賛成多数で可決された。── 《山陽新聞 19990722 》
 

19990809 参議院可決
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 Fenton,John William 18280712 England 19...... ? 
18680404 慶応 4.0312 来日1868離日19..前妻=アニー・マリア(横浜没)
1883.... 英陸軍年金支給後消息不明

── 《Day was Day 20001224 Awa Library》
 
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 君が代と皇室 千代に八千代に続くには
 
 3月28日の当コラムで「君が代に2番を加えていたなら」と書いた
ら、何人もの方から指摘があった。君が代にはもともと2番があったの
だ、と。
 
 調べると、1881(明治14)年発行の音楽教科書『小学唱歌集初
編』に載った「君が代」には、なるほど2番がある。「きみがよは 千
尋の底の さざれいしの 鵜(う)のゐる磯と あらはるるまで……」。
歌詞はまだ続くのだが、何と1番にも「こけのむすまで」の続きがある
ではないか。曲も違う。似て非なる君が代だった。
 
 ミステリーじみているが、これは実際には余り歌われなかった。同じ
頃にできたもう一つの君が代が天皇をたたえる歌として広まり、事実上
の国歌になっていく。そこに2番はなかった。
 
 ◇    ◇    ◇    ◇
 
 天皇が「現人神(あらひとがみ)」とされた時代は敗戦で終わったが、
君が代はそのまま残った。そこに違和感があったのだろう、例えば読売
新聞は社説で「われわれは、この新生日本にふさわしい新しい国歌を要
望している」「歌わされるものでなく、歌いたくなるものが作られなけ
ればならない」と書いた(1948年1月25日)。
 
 しかし、新国歌はできなかった。ならばこのとき、せめて君が代に新
たな発想の2番を加え、戦後的なメッセージを盛り込めなかったか。私
が言いたかったのは、そういうことだ。
 
 多くの方から共感のお便りをいただいたが、うかつにも、すでに同様
の提唱者がいたのを知らなかった。
 
 例えば朝日新聞の先輩でもあるジャーナリスト伊波新之助さんは、国
旗・国歌法ができた99年、月刊『戦略経営者』9月号で「君が代に2
番、3番をつくろう」と唱えていた。2番は「国民(くにたみ)われら」
で始め、国民の繁栄や幸福を願う。3番は「集えるわれら」などとして、
日本に住む人々の共生をたたえる。そんな案だ。
 
 そのころ「人類の理想を掲げた2番を」と、朝日新聞に投書した読者
もいた。載らなかったのは残念だが、もしこんな発想が実っていれば、
いまどき国旗国歌をめぐって強制だの処分だのという騒ぎはなかっただ
ろう。
 
 さて、政府によれば、君が代の歌詞はいま、天皇を象徴とする我が国
の末永い繁栄や平和を祈る意味だ、とされている。ともあれ君が代を国
歌に定めたことは、将来にわたって天皇制を続けるという宣言でもあっ
た。
 
 確かに多くの国民はいまの天皇制を支持し、その継続を疑ってはいな
い。ただし、それは昭和天皇の人間宣言以来、国民を大切にしよう、外
国とは仲良くしようと、皇室も心がけてきたからに違いない。現在の天
皇陛下が即位に際し、「皆さんとともに日本国憲法を守り……」と述べ
られたことも記憶に残る。
 
 ◇    ◇    ◇    ◇
 
 同じ意味で、皇室が美智子皇后に続いて雅子妃を民間から迎えたこと
は、大きなできごとだった。君が代に2番はなくとも、いわば皇室が2
番の精神をもってきたと言えまいか。
 
 だが、果たしてこの延長で天皇制は安泰だといえるのか。いささか疑
問に思えてきたのは、言うまでもなく、かねての「お世継ぎ」問題に加
え、雅子妃の体調不良と、皇太子殿下の「人格否定」発言がきっかけだ。
 
 国民に祝福されてプリンセスとなった元キャリア外交官が、皇室のし
きたりや世継ぎ問題に悩み、生きがいだった外国訪問の機会も奪われて、
健康すぐれぬ日々である。それを必死にかばう皇太子殿下……そんな悲
劇と愛情のストーリーが、世の関心を集めないはずはない。週刊誌は毎
号のように競って「内幕」を報じている。
 
 正確な事実はよく分からないが、確かなのは現代社会における皇室の
存在がいかに難しいかということだろう。君が代が生まれた時代とは、
社会が全く違ってしまっている。
 
 例えば、戦前は皇位を継承できる皇族の範囲がずっと広かったし、大
正天皇のように皇后以外の女性を母とする天皇もいた。男系の男子継承
による「万世一系」を可能にした仕組みである。いまでは考えられない
ことだ。
 
 一方、これほど自由な社会も、高度情報化時代の到来も、君が代がで
きたころには想像もできなかったろう。
 
 皇族はいつもカメラの放列にさらされ、メディアの関心事だ。スター
の有名税に似てはいるが、喜怒哀楽をぶつける自由はない。それどころ
か、言論、宗教から住居や仕事まで、国民が享受する自由をほとんども
たないのだ。とくに民間から入った身には、このギャップがどれだけこ
たえることか。
 
 伝統の重みをもつ皇室は、世俗と隔たりをもたなければならない。そ
んな声も分かるが、この時代、果たしてそれだけで皇族方が楽しく、幸
せを感じて生きられるだろうか。
 
 少なくとも欧州の国々の王室のように、もっとオープンで人間らしい
生き方が許されなければ、皇室はどこかで行き詰まる。女帝を認めてお
世継ぎ問題をしのいでも、婿さまのなり手は簡単に出てこまい。
 
 君が代は千代に八千代に……と続くには、一体どうすればよいのか。
国歌の歌わせ方などよりも、その方がよほど大事な国の課題だろう。 
 
── 若宮 啓文《風考計 20040627 》
http://www.asahi.com/column/wakamiya/TKY200406270117.html

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