与太郎文庫
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2004年02月28日(土)  自作自演 〜 デーやんの処女稿 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040228
 
 折も折、数日前から未整理の資料を点検して、いまいちど捨てがたい
ものを抜きだす。ほとんど《月刊・アルペジオ 196904.. 〜 197003.. 》
関連で、すでに使命を了えた生原稿の一部があらわれたのである。
 
 出谷 啓《自作自演のレコード》他(稿了年月日*印は遺失)
 
19690308*ブラームスがお好き(編集帖に寸稿)
19690308*雨の中のサラサーテ
19690510 リヒャルト・シュトラウスかく語りき
19690616 ラフマニノフの遺産
19690717*弦楽四重奏あれこれ(巌本真理弦楽四重奏団特集号)
19690812*クライスラーの偽証
19690915*死せるラヴェルのためのオマージュ
19691117*バルトークの宇宙
19691217*火の男・ストラヴィンスキー
19700303 プロコフィエフ/ガーシュウィン/ショスタコーヴィッチ
19700303 ジャズを読む(別稿)
 
 最終号の別稿《ジャズを読む》は、与太郎がデーやんに依頼した最後
の原稿にあたる。そこで与太郎は日記に、つぎのようにメモした。
「デーやん宛に、ことしの誕生プレゼント(20040604)として返却?」
 35年前の自筆原稿を受けとったデーやんは、昔の口癖で「ギャッ」
とのけぞるのではないか。
 
 デーやんの文章を読むたびに、いまも与太郎の右手は、朱筆を握った
ときのように反応する「この表現は生硬すぎる、この文体は不自然だ、
この結論は独善的だ」などなど、人一倍不満がつのってくる。
 率直にいえば悪筆悪文である。しかし達筆美文なら、読者がよろこぶ
とはかぎらないのだ。
 たとえば、太 安万侶《古事記》の序文は達意の名文だが、気宇壮大
にして格調高いのは、文体や文章の技法よりも歴史的権威が背景にある
からである。このような筆の運びで連載しても、読者やファンが増える
とはかぎらない。
 
 そもそも、デーやんの処女原稿が、はじめて世に出るのは、その前年、
《音楽100年表 19680801 十字屋楽器店》においてである。
 すでにして彼は「今世紀最大の音楽評論家になる」と吹いていたが、
よくよく聞くと、中学時代に「評論家になると、レコードがタダになる」
ことを知って、それ以後の願望らしい。
 そこで与太郎は、彼を励まして、こう教えた。
「いまから君は“センセイ”と呼ばれたとき以外は、返事するな」
 しかるのち《音楽100年表》の「ジャズ年表」を依頼したものの、
原稿料は出さず、ときどき酒でも呑ませればよい、と考えていた。
(署名もないが、彼の手になることは、まえがき・あとがきに記した)
 当時は、原稿用紙に書かれた文章の形態だけが“玉稿”や“お原稿”
であった(これらの業界用語は、いかにも卑屈で不愉快きわまるが)。
 いまなら“データ・レコード”と呼ばれる計算表や資料が評価される
ようになったはずだが、当時は怪文書まがいだったのだ。
 
 しかるに、これぞデーやんの面目躍如たるところだったが、数ヶ月も
たってから(真顔で猛然と)与太郎に抗議したのである。
「ぼくはいずれ今世紀最大の音楽評論家になる。イッパイ呑むなら自前
で飲むよって、原稿料は別に払うてくれんか」
 与太郎は「なるほど」と感心した。
 いわんとするところは(同世代の青年には)痛いほど伝わってくる。
『たとえ走り書きでも、心血そそいだ原稿を、タダで渡したくはない』
と云いたかったにちがいない。
「わかった、こんど頼むときから“センセイ”と同額を払う」と約束し、
翌年春に創刊する《月刊・アルペジオ》の連載を依頼した。
 
 このごろ“自作自演”といえば、なにやらキナくさいイメージだが、
本来の趣旨はまっとうで、作曲家自身が自作を演奏することである。
 とくに与太郎は、前年に“初演年表”というオリジナル企画を開発し
ていたので、デーやんのデビューにふさわしい斬新なタイトルだったと、
いまも自負している。素人編集者と新米筆者による処女連載の、最初の
副題は《ブラームスがお好き》で始まった。
 もちろん、Sagan,Francoise《Aimez-vous Brahms ? 1959 》にかけて
いるが、デーやん自身は(この種のダジャレに)乗り気ではなかった。
 
 処女稿《ブラームスがお好き》を手にしたデーやんと与太郎は、近く
の喫茶室リプトンの片隅に向きあった。
 当時の与太郎は、花森安治《暮しの手帖》を信奉するあまり、編集者
が(後輩記者の原稿を)朱筆で真赤にするエピソードを思いだしながら、
一言一句について検証しはじめた。
 
「ここは、こう云いかえたほうが、ええんとちがうか?」
「そやな、そうしょう」
「ここも分りやすく、ひらかなで送ったほうが、ええんとちがうか?」
「そやな、そのほうがええな」
「ここは、思いきって削ったほうが、ええんとちがうか?」
「そやな、そうしょう」
「そのかわり、ここを詳しく説明したほうが、ええんとちがうか?」
「そやな、そのほうが分りやすいな」
 
 いまだかつて、かくも恭順なデーやんの姿を見た者はいないはずだ。
 のちに与太郎は、女房だけに打ちあけている。
「あの頑迷なデーやんが、あれほど真剣におれの意見を聞くとは、予想
せなんだ。もし彼が、一人前の評論家になれなかったら、おれ一人でも
読者になろう」
 
 デーやんの処女稿が、与太郎の手もとに残っていないのは残念だが、
このたび発見された“古文書”は、印刷結果と寸分たがわない。
 印刷のための写植指定や、無関係なメモまで書きこまれてはいるが、
編集者によって削除・加筆された部分は皆無である。
 生原稿が残っていれば、どの部分がどのように削除・加筆されたかが
明らかとなる。しかし生原稿がなければ、印刷された結果だけが、彼の
作品たりうるのだ。
 
 かくて与太郎は、デーやんのファン・ゼロ号となったのである。
(やしき・たかじんもまた、しかりである)。
                   (20040302 last updated)

 →《与太郎文庫》1969年03月20日(木)  読み返した本 〜 デーやんの寸稿 〜
 →《与太郎文庫》1966年02月09日(水)  いつの日か 〜 ソフィの死 〜
 →《与太郎文庫》2003年01月29日(水)  訃報 〜 南 喜久雄の十年 〜
                    第三の執筆者 〜 南 喜久雄の逡巡 〜
 →《与太郎文庫》1996年06月06日(木)  くたばれ!たかじん
 
(つづく)


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