与太郎文庫
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2003年08月21日(木)  半信不安 〜 弱者の美学 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030821
 
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 巨人・川相が通算511犠打、世界記録に並ぶ
 巨人の川相昌弘内野手(38)は10日、東京ドームでのヤクルト戦
の五回無死一、二塁から代打で出場し、投前への送りバントを決めて、
米大リーグ、エディー・コリンズ選手(ホワイトソックス)の持つ最多
犠打の世界記録511個に並んだ。
 川相選手の初犠打は1985年6月13日のヤクルト戦で阿井投手か
ら。 ── [読売新聞 20030810]
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 そのデビューも、あくまでも地味な途中出場であった。ピッチャー・
江川(捕手・山倉?)、次の打球は、代ったばかりの新人内野手の頭上
に落ちてスリー・アウト、チェンジ。巨人軍のエースが、ルーキー選手
のデビューを引きたてるような、あざやかなシーンだった。
 江川氏に会ったら(なぜか誰も思いださないので)確かめてみたいが、
全盛期の“怪物”には、あらかじめ「ここに投げれば、ここに飛ぶ」と
いうような、神がかった配球ができたのではないか。
 深夜テレビ《たかじんのBar》に出演した中日監督時代の星野氏は、
捕手のサインに投手が首を振るケースについて、こう語っている。
「これでいかがでしょうか?と聞いてるだけで、決めるのは投手だよ」


 Collins,Eddie   18870502 America 19510325 63
 星野 仙一  投手  19470122 岡山/倉敷商業→明治大学→中日→2002阪神監督
 江川 卓   投手  19550525 栃木/作新学院→法政大学→巨人
 川相 昌弘  内野手 19640927 岡山/岡山南高校→1983巨人
       19840424 VS 大洋1回戦(横浜)初出場
       19840602 VS ヤクルト7回戦(後楽園)初安打(宮本)

 
 倉敷商業高校出身の“燃える男”は、甲子園には出場できなかった。
 ことしの岡山県代表・倉敷工業高校は、三回戦で散った。
 20030820(水)第1試合 VS 青森光星学院、
 
 甲子園の敗者は、球場の土をすくって帰る。捲土重来、このつぎには
決して負けないぞ、という口惜しさにあふれたエピソードに由来する。
 だが、毎年毎年いつもいつも、すべてのチームが示しあわせたように、
全員黙々と掻きいれる情景は、啄木の「われ泣きぬれてカニとたわむる」
ごとく女々しくみすぼらしい。さらに(誰が思いついたか)試合前から
“負け袋”を持参するようなセンスは我慢がならない。
 憤然と、土を蹴って会場を去るほうが敗者の美学ではないか。
 
 たぶん彼らにも言い分はあるだろう。郷土の後輩や支援者に、ぜひと
頼まれたので断れないとか、世話になった人たちの顔を立てるためなど。
 云いにくいことだが、甲子園まで来る応援団の人たちは、ほとんどが
「タダだから来た人たち」である。彼らは、地元の有力企業から寄付を
まきあげ、貸し切りバスで道中カラオケを歌いながらやって来る。旅館
に着けば、勝ちつづけるかぎり、夜ごと宴会に興じることができる。
 もっと云いにくいことだが、この連中は選挙のときにも活躍するはず
である。複数の陣営をハシゴして「どっちの酒が旨いか」というような
話題に明けくれる俗物たちである。
 
 なお、甲子園の土は(実は)ほとんど岡山産らしい。大量に運ばれて
きたものを泣きながら持ちかえるような、矛盾にみちた不法行為だから、
高野連とかの主催者は、ただちに咎めるべきである。
(一部の関係者が提唱しても、多数決の結果、排除される可能性が高い)
 
 甲子園での校歌は、勝ったほうばかり聞かされるのでつまらない。
 優勝校は、あわせて七回も演奏されるが、初戦敗退すれば、どんな曲
なのか聴くことができない。すなわち出場49校の半数は、演奏される
ことなく去っていくのである。
 準優勝以下の各校が、試合が終ったあと、泣きながら勝者の歌を聞か
されるのは屈辱的だ。むしろ負けたほうが泣きながら「また来るぞ」と、
歌うのに拍手するほうが、理にかなっているのではないか。
 
 オリンピックの国歌演奏は、敗者が去ったあとで演奏される。
 将棋などは「勝ちぬき戦」の公式戦もあり、あるとき故・芹沢九段が
「負けのこり戦」を思いついたが、関係者一同ふきだしたそうである。
 
(註=野球に関する与太郎の記憶と知識は、きわめて疑わしい)


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