与太郎文庫
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2003年06月22日(日)  談合余論

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030622
 
 谷本 岩夫 様
 
 このところ、先生のホームページ更新が活発なので、なによりです。
 
 今朝のサンデー・プロジェクトを、私も(感慨ぶかく)観ました。
「われわれの世代が生みだした談合犯罪を、子孫の世代には遺さない」
 番組の結論として、談合破りに挑戦する社長が述べた言葉は、かつて
中坊公平弁護士が、豊島産廃闘争でたどりついた結論とおなじです。
 談合は、土建業界だけではありません。私にも苦々しい経験があり、
いずれ詳細を《与太郎文庫》で公表したいのですが、当時の友人知人が
いまだ現役なので、自治体や企業の名を挙げることに逡巡しています。
 
 日本の“談合”は、もとは農耕社会における経済活動を支えていたと
も考えられます。封建時代にあっては、村ごとの問屋・庄屋が、仲買人
を交えた取引を円滑にするための商習慣(しきたり)だったのです。
 いまも、特定の取引に限り、この慣習にしたがう農村があるそうです。
(くわしく実証できませんが、かなり儀式化されているらしいのです)
 
 そもそも、公務員と指定業者が、連綿として“談合”にむらがるのは、
私の観察によれば、そこに罪悪感がないからです。彼らは税金を、自分
たちだけで山分けしているとは思っていません。仲間うち(同業者)で
分けあうことは、むしろ共存の美徳なのです。
 つまり、市町村の経済が選挙民の主権にもとづくなら“談合”は犯罪
となりますが、独裁的封建社会では、高度な利益配分の方便だったかも
しれないのです。サンデー・プロジェクトの経済学者や政治記者たちは、
この前提(仮説)をぬきに論じているようです。
 
 柳田邦男の仮説によれば、かつて農耕社会には“与太郎”と呼ばれる
無能力者の存在を容認する風土があった、といいます。
 その思想的背景をたどると、仏教国では隠者・乞食・僧侶、ユダヤ教
の《屋根の上のヴァイオリン弾き》、イスラム社会では瞑想者、ロシア
では《オブローモフ》や《イワンの馬鹿》、フランスでは《にんじん》、
サルトルの“余計者”に発展します。
 わたしが“与太郎”を自称するのは、これらの哲学的命題を提示する
ためでしたが、自分自身が与太郎だったことに気づいたのは、還暦目前
でした。
 
 昔の、くやしい記憶から、とりとめないことを書きつづりました。
 お元気なご様子、なによりです。いずれまた。
 
                   与太郎 こと 阿波 雅敏
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→ http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/component/sentiment110.html#defure


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