与太郎文庫
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1998年05月21日(木)  14980521 Durer 500 years

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19980521
 
── デューラーは、血の滲む床を覗きこんで観察していた。
 レンブラントは、入口に立ったまま、みんなの姿を眺めていた。
 ピカソは、誰も居なくなったころに現われ、演説をはじめた。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/18881223
 九人の画家 〜 修羅場の天才たち 〜
 
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 デューラー時代の美術    前川 誠郎
 
 デューラー「自画像」1498年、板52×41cm。窓枠の下にドイツ語で
「1498年、我が姿に拠りて描く、我時に26才」と記銘がある。「わが姿
に拠りて」とは、鏡に写しての意味か、彼が生まれたのは1471年5月21
日であるから、この絵が描かれたのは1498年の春にあたる。この年は
木版画集「黙示録」の成功によって、一躍世界のデューラーへとのしあ
がった年である、伊達な衣裳の内に包み切れぬ自負心が覗いている。皮
手袋をはめた方が実は左手であることに注意してもらいたい。(P24)
 


 Du"rer, Albrecht     14710521 Deutsch 15280406 56 /
 Gru"newald, Matthias 1470/1475ca Deutsch 15280831 53-58 /
 Stoss, Veit       1447‥‥ Deutsch 1533‥‥ 86 /彫刻
 前川 誠郎   美術史  19200223 京都         /国立西洋美術館

 
 美術家としてのデューラーの最大の舞台は版画の世界にあった。一つ
の芸術を独力で揺藍期より古典的完成へまでもたらし得たということ自
体がすでに破天荒である。あまりに偉すぎて師匠もいなければ弟子運も
悪かった。友人は多かったがたいていは学者か政治家で、胸襟を開くに
足る同業者を持たなかった。彼が筆をとって好んで身辺の記録を作った
のもこの淋しさを紛らす手段であったのかも知レンプラントにおよそ百
五十年先駆している。しかしその顔にはすこしも淋しさの影がない。彼
に括抗し得た唯一の画家マティス(グリューネヴァルト)と交誼があっ
たかどうかは不明だが、彼がその存在を知らなかったとは到底考えられ
ない。画家としての彼がこのマティスに一歩を譲るとほ今日否定できな
い評価であるが、この両者をならべて同時に比較しうる唯一の場所であ
るミュンヒェンのピナコテークでの勝負は五分の引分けと見てよいだろ
う。彼が残した厖大な記録が、現代ドイツ語の知識だけで、たいした困
難もなく読みうるという事実も、彼の世界をどれ程身近かなものにして
いることであろうか。一五〇六年彼の二度目のヴェネツィア滞在中に書
いた手紙の一つに次の文句がある。
『私は弟ハンス(当時十五歳)を此方へ連れて来ればよかったと思いま
す。イタリア語を教わるだけでも私にも彼にもどんなにか役立ったこと
でしょう。しかし母が、あの子の上に天が落ちて来ほせぬかと心配して
止めさせたのでした。』
 何という素直な表現だろう。一体に手紙に限らず、日記であれ、論文
であれ、彼の書くものには私たちの接近を阻む発想法の断絶がない。勿
論彼とてその時代の子であるから、若い女の子のシャツに十字架の姿を
印する雨が降るのをみたり(一五〇三)、あるいは夢に天から大きな水
柱が何本となく落下するのをみて跳ね起きたり(一五二五)している。
しかし彼はその度に克明なスケッチをとることを忘れない。父母の臨終
の記述も正確なもので、母が死神の姿をみて二度痙撃を起こすところな
どを読むと、彼自身が何を考えて死んで行ったか、その記録のないのが
惜しまれる。彼は末期ゴシックの世界を閉めた人だとすでに述べたが、
彼だけがその外へ出て鍵をかけて終ったのである。
 彼の先輩で最大の巨人は彫刻家のファイト・シュトスであるが、両者
の入府作品をくらべてみると、そこには多くの似通ったところと同時に、
越え難い断層があるように思える。(P142-143)
── 亀倉 雄策・装幀《世界の文化:ドイツ 19651031 河出書房新社》
 
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(20071121)
 


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