与太郎文庫
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1993年06月20日(日)  やしき・たかじん胸いっぱい

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19930620
 
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 たかじん胸いっぱい         やしき たかじん
 
 佐々木さんは京都の芸妓(初代豆六)の息子で、同志社大学時代には
全日本フィギャアスケートのチャンピオンになり、アメリカはエール大
学に留学。帰国後、ホテルオークラに勤めたが数か月でホテルを辞め、
京都で最初のハンバーガーショップを開いた人である。
 なぜハンバーガーショップであったかというと、留学中にハンバーガ
ーなるものを初めて食べて、これは日本でも流行ると直感したからだそ
うだ。
 四条川端(南座の真向かい)に「ホリデー・バーガー」という店をオ
ープンした。昭和四二年のことである。
 当時ハンバーガーなどというアチラの食べ物はまだ馴染みはなかった
が、若者には大受けして商売繁盛の大当たり。半年後には藤井大丸(百
貨店)に支店を出し、破竹の勢いかと思われた。
 その頃、京都は日本のブルースやフォークの発祥の地として、さまざ
まな人間が台頭していた。偶然だったかもしれないが、佐々木さんはつ
ねに新しいことを目指す若者をこころよく迎え入れた。それもまるで無
償で面倒をみた。
 だからホリデー・バーガーは、いろいろな分野の若者が集まる京都の
溜まり場でもあった。
 だが、まもなくあのマクドナルドが日本に進出してきた。あっという
間にまず藤井大丸の支店が潰れた。本店も急に暇になってしまった。そ
して、若者たちも次第に訪れなくなり、店から活気がなくなった。

 悔しさを越えて、悲しみで佐々木さんはいっぱいであったに違いない。
いつも元気な佐々木さんだったが、ぼくの目にはそう映った。
 しかし、時代はそんなことには頓着してくれない。
 そこで佐々木さんは考えた。もうハンバーガーだけではあかんと、夜
はステーキも出し、酒も飲める店に模様替えした。
「誰か店で歌える奴おらんやろか。それも金のかからん奴で……」
 と芸能界を少しかじった知り合いに相談を持ちかけた。それがペップ
レコードの中川さんという人であった。
 そしてその中川さんが突然、ぼくの下宿を訪ねてきた。ぼくにその店
で歌えとさかんに口説くのだ。
 この中川さんには河島英五やあのねのね(清水国明・原田伸朗)など
も面倒をみてもらった。ちなみに、ぼくがその会社のレコード第一号で
「娼婦和子」という曲を出した。
(この曲はあまりに内容が刺激的で頽廃的だという理由で発売禁止にな
った。大体ぼくの人生にはこの種のつまずきが数え切れないほどあるん
です)
 中華料理店の皿洗いよりは面白そうだったので、ぼくは口説かれるま
まに佐々木さんの店に移ったのである。
 昼間はハンバーガーショップ。夜は、まあレストランというとこか。
 出勤すると朝礼がある。
「じんちゃんなあ、うちは割合と時給は低いかもしれん。けど、そのか
わりハンバーガーはいくら食べてもええし、ビールも好きなだけ飲んで
ええからな」
 佐々木さんが言う。(余談だが、ぼくのことを爐犬鵑舛磴鶚瓩噺討
だのは佐々木さんが初めてだった)
 飲み放題の食べ放題か。あまり客も来なくなった暇な店なので、その
日の食費にもことかくぼくには、佐々木さんの言葉が天使の声のように
聞こえた。それからはもう毎日ハンバーガーにビール、ビールにハンバ
ーガー。ぼくは天国、店は地獄だった。五十五キロしかなかった体重が 
わずか数か月でなんと六十五キロになってしまった。
 店は忙しくはなかったが客筋だけはよかった。(なにしろオーナーの
お母さんが芸者豆六ですから)
 現在のオムロンの社長、ニッポンレンタカーの社長など一流会社の偉
いさんが顔を出す。佐々木さんの大学時代の後輩だったスケートの佐野
選手も来ました。歌舞伎の片岡孝夫さんも、あの藤山寛美さんも、寛美
さんには確か一万円のチップをいただいた。(今では娘の藤山直美に酔
ってはクダを巻いている。そんなことはどうでもいいか)
 さて、夜の部のぼくの歌だが、夜のムードに合うような曲をぼくはま
るで知らなかった。
「なんでもええがな。じんちゃんの好きな歌でええから」
 と、佐々木さんは鷹揚だった。(ほんまに鷹揚な人なんです。ちょっ
と飲みに行ってくるわと営業中なのにふらっと出かけていっては、その
まま帰ってこなかったり、店の売上げの把握も頓着なし)
 最初にその店で歌ったのは「夜のピアノ」という自作の曲。
♪ぼくの神経は三角形になって/とがっているよピアノ/アキコがぼく
の事を/全然無視したんだよピアノ……という歌詞の、とんでもない曲
だった。それは今思えば、水商売をまったく知らない人間のする行為だ
った。
 ぼくは佐々木さんの言葉を真に受けていて、いつまでもその歌を繰り
返しては歌っていた。
 それを聞いていた十六、七の芸者(正確には半玉)が佐々木さんに、
「ちょっとお兄ちゃん、あのメガネやめさし!」
 その店でメガネをかけているのはぼくだけだった。さすがの佐々木さ
んでも、どうにもしょうがなくなった。
「じんちゃん、どんな曲でもかまへん言うたけど、もうちょっとほかの
歌ないの?」
 確かに、♪ぼくの神経は三角形になって……ではあまりにも店の雰囲
気とは合わないとはわかっていた。でも、佐々木さんの神経に合わせた
形が三角形だったのだ。
 それから数日のあいだに、ぼくは必死になってとりあえず二曲だけ歌
を覚えた。「雪が降る」と「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」
 季節はかんかん照りが続く真夏だったが、なぜか「雪が降る」と「フ
ライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」
 悪いことというのは重なるもので、その夏がまた異様に暑い夏だった。
「雪が降る」は客の神経を逆なでした。それでもぼくはこの二曲を意固
地に歌い続けた。
「暑苦しいなあ……なにかほかの曲ないの?」
 おっしゃる通りでございます。わかっております。でも今は「雪が降
る」しかないのです。
 その日から、ぼくはほかの歌を懸命に覚え始めたのだ。

 そうこうしているうちに、店に佐々木さんの友人のKさんが飲みに来
た。
 Kさんは京都駅の西側(九条)のあたりでレコード屋をやっていた人
だが、その横で喫茶店をオープンさせるのだという。ついてはチーフと
店長が必要なのだが、適当な人がいない。そこで佐々木さんに相談に来
たというわけだった。
「君、昼間はなにしてるの?」
 Kさんがおもむろに聞いてくる。
「学生です。昼間はなにもやってないです」
「じゃあ昼間だけ手伝いに来てくれないかなあ」
 とKさん。
「そうやなあ、じんちゃん悪いけど手伝ってやってよ」
 めったにものを頼まない佐々木さんまでがそう言うので、ぼくは渋々
OKしてしまった。佐々木さんの店のチーフもしばらく一緒に行くとい
うので心強かった。
 後でわかったことだが、Kさんと佐々木さんは同志社大学の同級生だ
ったそうだ。
 喫茶店がオープンして、ぼくとチーフが手伝いに行ったのだが、まっ
くと言っていいほど客が来ない。普通に来ないのではない。力強く来な
い。その力強さがぼくたちに無力感をあたえた。
「こんなに暇では商売になりませんねえ」
「ほんまやなあ」
 ぼくらはどうにも手持ち無沙汰であった。
 午後の三時になると、Kさんがチェロを抱えてやって来た。そしてい
きなり店の中で「イエスタディ」を演奏する。チェロの独奏である。
 演奏が終わると黙って出ていく。
「なに? 今の」
「さあ……なんやろねえ。オープンセレモニーのつもりと違うかなあ」
 なるほど、さすがはチーフ。だけどぼくは素直に「なるほど」とは言
えなかった。
 ところが次の日も午後三時になるとKさんはチェロを抱えてやって来
る。やっぱり「イエスタディ」を一曲だけ弾いて、スッと帰っていく。
「けったいな趣味やね」
 ぼくらは顔を見合わせて笑った。
 まあ「イエスタディ」はええとするか。それはええとしても、このK
さん、ぼくたちに給料というかアルバイト代をくれないのである。
 ぼくは佐々木さんに相談した。
「給料くれないんですよ。あの喫茶店やめてもええですか。たまには大
学へも行かんとダメですしねえ」
「困ったなあ。あいつらしいなあ、アハハ」
(アハハはないでしょ、佐々木さん)
 それでも結局は佐々木さんの爛▲魯廊瓩防蕕韻討靴泙辰董△椶は翌
日もバイトに行った。
 この頃、ぼくは龍谷大学の一応学生であった(龍谷大学には六年間籍
があった。もっとも通ったのは二、三か月だけだったが。ちょうど学生
運動で大学が封鎖になった頃で、行くにも行けない状態だった。封鎖に
なってなくても行く気はなかったけど)
 喫茶店に行くと、Kさんがぼくを店の裏手に呼んで、
「悪いねえ給料払えなくて……客が来ないんでね。払いたくても払えな
いんだよ」
 そんなこと言われても知らんがな。ぼくは思わずムッとした顔になっ
た。
「そのかわりと言ってはなんだけど、君に車を一台あげるよ。それで勘
弁してよ」 運転免許は持っていたけれど車がなかったぼくは、二つ返
事で納得した。
 その車というのがスバル360、結構やないですか。給料がわりにし
ては上出来やがな。その話を佐々木さんに報告すると、
「そうか、車くれたか……ええなあ。アハハ」
 ところがこれが結構な爛▲魯廊瓩任呂覆った。
 この車、二日に一度、オイルがすべてなくなり、ささやかな生活費さ
えも猛スピードで追い抜いてしまうほどのフラフラな車だった。
 そんなことがあってからまもなく、ついに佐々木さんの店も閉店にな
ってしまった。
 しかし、ぼくにとっては佐々木さんのハンバーガーショップ兼レスト
ランは犹纏の原点瓩任△辰燭掘⊇房(のちに離婚したが)と出会っ
たのもこの店だったのだ。
 
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── やしき・たかじん 1949年10月5日、大阪市生まれ。本名、家鋪
隆仁。天秤座。血液型O型.桃山学院高校在学中、生まれて初めて作曲
した「コーヒーインタイム」がNHK『あなたのメロディー』に入選す
る。桃山学院大学経済学部に入学するも、新聞記者志望を父親に反対さ
れ、退学。勘当同様で京都へ。龍谷大学経済学部に入学するが結局6年
間在学して中退。この頃から京都・祇園町のクラブで弾き語り歌手とし
て生計を立てるようになる。76年10月、LP「TAKAJIN」、シン
グル「夢いらんかね」でデビュー。さまざまな紆余曲折を経て現在まで
シングル19枚、アルバム19枚をリリースしている。また、本音を貫き通
した発言でテレビ・ラジオのパーソナリティーとしても大人気を誇って
いる。著書に『たかじんが来るぞ!』(小社刊)がある。(奥付)
  
── やしきたかじん《たかじん胸いっぱい 19930620 KKベストセラーズ》P61-70
 
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1967・・・・ ホリディ・バーガー、オープン
1970・・・・ やしき・たかじん《娼婦和子》EP発禁
19701203 レコードと写真の店、オープン
19710115 同志社中学・高校(私設)同窓会、ベラミ
19710411 【CARD 19710411 AWA】
19710501 スナック・ホリディ・バーガー《四条店》オープン
19710720 日本マクドナルド《銀座三越店》オープン
19710823 スナック・ホリディ・バーガー“のど自慢ぁ
19711114 佐々木 敏男&菅原 良子、結婚披露宴
19730515 やしきたかじん、初コンサート
 
 【日付カード 19710411 AWA】〜 当時の確認メモ、原文のママ 〜
 541-3830 ホリディバーガー 増田(マネージャー)様 541-1450(自宅)
 5月1日 スナック・ホリディ・バーガー《四条店》オープン
 ギターとヴォーカル(レパートリー ロマン歌謡/流行歌/ラテン)
 8〜11時迄(休憩あり)、月2回定休、月5万まで。
 2〜3人の輪番可(要オーディション立会い)、手工ギター3〜5万。
 
…… 《虚々日々 20001231 阿波文庫》P234/Let'199606・・ 参照
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030324
 走れ!たかじん
 
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── ふじた・でん 経営者。大阪府生まれ。1951(昭26)年東大法学
部卒。「授業料が安かったから」東大に行ったと言い、「国民の税金で
勉強させてもらって卒業すると役人になる。資本主義の世界でこんなバ
カげた話はない」として、71年に日本マクドナルドを設立し、社長とな
る。「マクドナルドのハンバーガーは、アメリカの本社がコンピュータ
ーを駆使して、世界のあらゆる民族がうまいと感じるようにつくったも
ので、あれをまずいと感じるのは、チンパンジーかゴリラしかいない」
と宣言し、82年、外食業界で売上高トップとなる。著書に『ユダヤの商
法』『頭の悪い奴は損をする』などがある。(佐高 信)
── 《現代日本・朝日人物事典朝日 19901210 新聞社》P1404
 
http://q.hatena.ne.jp/1190023386
 
 以前みかけた、日本マクドナルド創業者の藤田田氏のインタビュー記
事を探しています。どの雑誌のどの号なのかを教えてください。
 時期はおそらく2−5年くらい前。藤田氏が亡くなる前のものだった
と思います。雑誌は、たしか文藝春秋だったと思うのですが、記憶があ
いまいです。同じ号に、東野圭吾氏(?)のブックオフ批判があったよ
うに思います(「東」から苗字がはじまる作家)。
 雑誌の内容は、藤田田氏に詳しいライターとの1対1の対談です。ち
ょうちん記事の類ではなく、ライターがなかなか鋭いことを尋ねて、藤
田氏が時折たじたじになったりしていました。マクドナルドの店内にデ
ィスプレイ画面を設置して広告を流す、という話が計画段階のものとし
て話題にあがっていました。
 どうぞよろしくおねがいします。
 
* tsubo1
* 状態:回答受付中
* 回答数:3 / 10件
* 回答ポイント:80ポイント
* 登録:2007-09-17 19:03:08
* 終了:
* カテゴリー:ビジネス・経営 書籍・音楽・映画
 
http://q.hatena.ne.jp/1190023386#a760205
 
 おもとめの雑誌記事ではありませんが、あまりに珍妙な理屈なので、
コピーしておいた一文があります。筆者の佐高氏も、あまり鋭く評して
いませんが、その俗物性が業界を支配したのかもしれませんね。
 
──「マクドナルドのハンバーガーは、アメリカの本社がコンピュータ
ーを駆使して、世界のあらゆる民族がうまいと感じるようにつくったも
ので、あれをまずいと感じるのは、チンパンジーかゴリラしかいない」
と宣言し、82年、外食業界で売上高トップとなる。著書に『ユダヤの商
法』『頭の悪い奴は損をする』などがある。(佐高 信)
── 《現代日本・朝日人物事典朝日 19901210 新聞社》P1404
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19930620
 やしき・たかじん胸いっぱい
 
(20070810-20090113)
 
…… ♪ ほんとの親に犯されて ほんとの親に売られたの 私は娼婦
名は和子
── やしき たかじん・詞&曲《娼婦和子 19710520 京都レコード》
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1031324925
 
 


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