与太郎文庫
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1992年11月07日(土)  士月〇日の露と霜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19921107
 
 グレゴリオ暦十一月〇日からロシア暦・十一月〇日まで十三日間の、
中間の日付がロシア革命(19171025J1107G)である。そのドキュメント
《世界を震撼させた十日間》は新暦旧暦の何日から何日までを指すか。
 
 総務庁が二月七日を「北方領土の日」と定めたのは一九八〇年、返還
要求全国大会以来 (閣議決定19810106G)である。
 この日は《日露和親条約》ロシア暦一月二十六日、安政元年十二月二
十一日、両国ともグレゴリオ暦(18550207G) 採用前で、調印書に記され
ていない日付とみられる。徳川家定 (18240424J0506G文政70408 〜1858
0802J0814G安政50706)と、皇帝アレクサンドル�契� (18450227J0310G
弘化20203〜18941020J 明治271101G)を国家主権者として、はじめて締
結されたのである。
 ロシア暦は、ユリウス暦に参入する期間 (17000101J0111G〜19180131J
0213G) 以前の、世界開闢紀元にはじまるビザンチン暦(-55080301J0117G)
をルーツに、英米改暦(17520903J0914G)以後は孤立する。革命後に採用
したのは、グレゴリオ暦そのものでなく《東方新暦》の省閏法で、二十
八世紀末(28000301E0229G)さらに一日早まる。
 ロシアの保守主義は二つの源流があり、東ローマ帝国のビザンチン文
化に依存する東欧派とスラヴ国粋派が混在し、西ローマ文化に迎合する
西欧近代主義と対立する。
 ロシア正教は、ギリシャ正教や英国教会に類するものの、それぞれの
風土と国情は連帯と協調を許さない。
 かつて「ロシアの魂」とよばれた農奴の人口調査は十年ごとに行われ、
死亡農奴も納税台帳からは削除されなかった。これを買いあつめて、担
保にして換金するという珍妙な新商法をあみだした鬼気せまる虚構《死
せる魂》第二部の草稿を火に投じて、錯乱のなかで死んだと伝えられる
ゴーゴリ (18090320J0401G〜18500221J0304G) は、終章に「ロシアよ、
お前はいずこに飛んで行くのか」と問いかけている。
 西欧化の模倣にすぎなかった農奴解放令 (18610219J0303G〜0305J
0317G) は、のちに皇帝を追放するや、ついに火を吐く。
 七月事件での拘禁を解かれたトロッキー (18791026J1107G〜19400820G
0821?) は、九月二十三日 (1006G)ソビエト議長に就任して十月三日
(1016G)軍事委員会を設立、レーニン (18700410J0422G〜19240121G)も
変装して十月十日(1023G) ペトログラードに到着、二十一日(1103G) 密
室の歴史的会合では「二十四日(1106G) は早すぎる、しかしまた二十六
日(1108G) では遅すぎる」と日々が刻まれた。
 パスポートを偽造して、ペトログラードに着いた新婚のアメリカ人
ジョン・リード (18871009J1022G〜19201017G)も、三十才の誕生日を迎
えた。レーニンの友情を得た革命ジャーナリストの遺骸は、クレムリン
城壁に埋葬されている。
 W・ビーティ監督主演《レッズ1982米》の原作で、原光雄・訳《世界
をゆるがした十日間19571025岩波文庫》は、マルクスの《資本論》を旧
約とすれば、新約である。
 革命の朝、臨時政府首相のケレンスキー (18810410J0422G〜19700611G)
は、おなじ誕生日で同郷のレーニンに冬宮を追われ、米国旗をたてた車
で、女装して遁走する。武装奪回に失敗して仏英米に亡命、スタンフォ
ード大学でロシア革命史を講じた。
 翌日の、トロッキー三十八才の誕生日は同時に「多弁な外務大臣」誕
生となった。たえず主流にありながら《永久革命論》で孤立し、盟友レ
ーニン亡きあとの国外追放から最期はメキシコで暗殺される。
 序文を寄せたレーニンが「最大の興味とゆるむことのない注意とをも
って」読んだ英語版(1919)に対して、ロシア語版(1930)序文では、未亡
人となったクループスカヤ(Nadezhda,18690226J0310G〜19390227G)が
「革命の最初の数日が非常にはっきりと力強く記録されている」と評し
ている。
 力量感にあふれているのは革命前十日間 (1016J1029G〜1025J1107G)
で、表題どうりなら革命後 (1025J1107G〜1103J1116G)だが、むしろ新
暦旧暦が交叉する十四日間 (1019J1101G〜1025J1107G〜1101J1114G)
に全編の構図がある。
 原注に、日付は「新暦に統一」とあり、訳注「日本も明治五年以降
用いる」は明治六年(18721220J/18730101G) が正しい。ロシア史の文
献は、新旧併記をはじめ、革命以前を旧暦に以後新暦とするものから
改暦告示(0126J0208G)と実施(0201J0214G)の混同など、しばしば不整
合である。
 新暦で抄訳した保田孝一《ニコライ二世の日記19900620朝日選書》
の例をみると、大津事件(18910429J明治240511G)一週間後「五月十八
日(月曜日)こうして私は日本で二十三歳になった」ついで最後の誕
生日には世紀が変って、一日ずれている。
「五月十九日(土曜日)四十九歳になった。五十も間近だ」
しかるに満五十歳を迎えることなく一家七人は銃殺された。
 その数日前(0630J0713G)に、最後の皇帝 (18680506J0518G〜1918
0704J0717G0716?)は「死せる暦」最後の日付を誌す。
 ひそかに消息を断ち、死亡欄に登場せずデータベースに生きつづけ
る例もある。
 漁業次官から共産党書記にいたる経歴のルサコフ ( Konstantin V.
19090931〜 )は、読売年鑑《分野別人名録1985〜1989版》に掲載され
ていたが、高令引退のために削除されたとみられる。
 誤植にしても奇妙な誕生日なので、出典(International Who`s Who,
Vol.50,London)を問いあわせたところ、年鑑局情報調査部の推理によ
れば、ロシア暦「九月十八日」に十三日を単純に加えた「十月〇日」
だが他の資料に十二月三十一日など諸説あって特定できないという。
年月日の誤植は左右転倒 (レーニンの命日 0121/0112) など、頻度の
たかいケースに、それなりの法則性がうかがわれる。  (19920727)
 
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↓《ルサコフ 〜 九月三十一日生れ 〜》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19871001


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