与太郎文庫
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1992年06月13日(土)  六月十三日の死と愛

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920613
 
 三度目に六月の花嫁となったウィンザー公妃の誕生日には、ローゼン
バーグ夫妻が「愛は死をこえて」処刑され、山崎富栄の遺体も「愛は死
と共に」情死した太宰治の誕生日に浮上、六日前に入水したという。
 
 WHOが「心臓死より脳死を優先する」と提唱したのは、一九六八年
六月十三日であった。その脳死とは突然死によって他の臓器が生きてい
る状態である。
 人は、どの時点で死を見つめるのか。
 戸籍法を要約すると、事故・自殺などの変死体は行政解剖による「死
体検案書」にもとづいて発行された「火葬埋葬許可証」に執行者の捺印
を得て除籍にいたる。心中や情死などの複数死では、各々の死亡時刻が
判定しがたいとき同一時刻とみなされる。
 前後の状況から、殺人の可能性があれば「刑事訴訟法 19480710 」が
適用される。
「幼女誘拐殺害事件」のケースでは失踪の日付 19880822 と容疑者供述
の犯行日時は一致したが、物的証拠がなく(通常は遺体の司法解剖など)
遺族に送られてきた焼骨照合に数十日を要して「埋葬許可証」発行の
19890301 が戸籍上「命日」となった。
 
 太宰治 ( 19090619 〜 19480613 ) は、山内祥史 ( 19320619 〜) 編
《人物書誌大系 19830709 日外アソシエーツ》年譜によれば「六月十
三日、午後十一時半から十四日午前四時までの間に、普段着の軽装で山
崎富栄と家出、玉川上水に入水した。十四日遺書を発見」。通常の自殺
は長時間逡巡があり、入水は発見が早ければ蘇生の可能性もある。命日
が十三日と特定されるには、外出後三十分以内の絶命は、直前の服毒か
投身時の衝撃でなければならない。
 山岸外史 ( 19040716 〜 19770507 ) が《人間太宰治 19621020 筑摩
書房》で証言するくだりは引用するにしのびない。
 今官一 ( 19091208 〜 19830301 ) が、一周忌 19490612 に提案して、
遺体発見の六月十九日が、誕生日にあたるところから《桜桃忌》として
記念することになった。
 このため命日との混同は、暦注から人名辞典におよび、行年三十八才
から四十二才と乱立している。当時の慣習では、数えて四十才(満三十
八才十一カ月)が正しい。
 山崎富栄 ( 19190924 〜 19480613 ) の手記《愛は死と共に 194809..
石狩書房》は太宰の習作《愛と美について 19390520 竹村書房》に追従
したものか。
《雨の玉川心中 19770613 真善美研究所》の日記 19471120 には、太宰
は「十も年がお違いになって」「わたしも年が明ければ三十」とあるに
もかかわらず編集者の序文では「二十八才」に若返り、長篠康一郎のあ
とがき「その日から数えてちょうど三十年」は「三十年目満二十九年」
が正しい。
 
 奥名修一 ( 19161203 〜 19450117 ) との婚約は昭和十九年八月、同
年十二月九日挙式、同十三日に三井物産の辞令が下り、マニラ支店に単
身赴任する夫を羽田空港で見送ったのが十二月二十一日、翌年の一月二
十一日に入籍している。着任後、米軍上陸のため現地召集されて戦闘中
消息不明となり、二十二年七月七日付の戦死公報では「二十年一月十七
日戦死」。入籍の日すでに未亡人だったのである。
 二十二年九月二十日の埋骨式で、故人の姉の夫・土家由岐雄 ( 1904
0610 〜) にすすめられて十一月二十五日に復籍の手続をするが、このと
き太宰も同行している。
 太宰が、太田静子の女児を認知したのは十一月十五日、治子 ( 1947
1112 〜) と命名している。里子 ( 19470330 〜) は妻の美知子の次女と
して三月三十日に生れその三日前に太宰は富栄と出会っている。
 この年までは「出生日」と「誕生日」の日付が一致しなくても、六ヵ
月以内に届ければよかったので、あとの日付を遅らせて戸籍上の同腹に
見せかけることもできた。
 新戸籍法 19471222 公布 19480101 施行以後は、十四日以内に医師ま
たは助産婦の「出生証明書」を添付することになった。民法第一条ノ三
「私権ノ享有ハ出生ニ始マル」の解釈が大きく変化している。
 女性を恣意的に若く伝える例は、処女説もあるという天才の夭折であ
る。
 樋口一葉( 18720502G 〜 18961123 ) は旧暦最後の明治五年三月二十
五日に生れたが、この年はグレゴリオ暦に移行するため十二月二日が年
末となった。このことから《大つごもり 1894 》を着想したものか、そ
れはさておくとして、生れた年の日数が二二七日しかないため「正月に
年をとる」風習は、年増になるほど面白くない。
 大晦日を二十三回しか過ぎていないから二十三才なのか、かりに満年
令としても、二十四才六ヵ月二十一日、正しくは数えて二十五才、二十
六才に三十八日たりない。
 ただし民法にも百四十三条の初日起算、百四十条に初日不算入とする
矛盾はある。「年令のとなえ方に関する法律 19500101 施行」の条文も
「数え年によって言い表わす従来のならわしを改め」「心がけなければ
ならない」が、政府の事務は「規定する期日よりも前から行なうことが
できる」と迫力に欠けるのも「旧民法 19021202 」をくりかえしたため
で、明治政府のもとでは「みんなが一斉に年をとる」ことで不平等にな
るほど、教育・保険・年金が普及した市民社会ではなかったのである。
「0才」の概念は、現代人にとっても困難なテーマである。
 数学ぎらいの読者のための古典的名著、吉田洋一《零の発見 19391127
岩波新書》によれば、九九九年に即位したローマ法王の数学上の著作に
は「いつもローマ数字が用いられていてインド数字は出て来ない」
「1から9までの数字を知っていたが零を知らなかった、あるいは知っ
ていたにしても零の価値をよく認識していなかった」という。数学こそ
「連続」への挑戦であり、「0時0分」や「紀元0年」も近世以降に登
場するのである。                   (19920223)
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── 《歴史研究 199206.. 新人物往来社》P052-053


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