与太郎文庫
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1991年04月26日(金)  君が代訴訟(2)

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19910426
 
原告ら代理人「京都のそういう就学児童の数というのは、どのぐらいあ
      るんでしょうか」
朴実    「京都市教育委員会は外国人生徒として言い続けてますけ
      れども、それは在日朝鮮人生徒のことを指していますけれ
      ども、これは日本籍者は含まれていません。韓国籍、朝鮮
      籍だけでも八九年でしたかの調査では、中学では全生徒数
      の二・六パーセント、昨年小学校の調査では全児童数の約
      二・九パーセントが韓国籍、朝鮮籍です。けれども、私と
      この子供たちのように、日本籍者を含めると、その数はも
      っと多くなります」
原告ら代理人「学校によって、多い少ないも出てくるわけですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「あなたのお住いになっている学区ですね、小学校で言い
      ますと、向島南小学校の学区ですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「中学で言いますと」
朴実    「向島中学です」
原告ら代理人「その学区は他の地域よりも多いんでしょうか」
朴実    「小学校のほうは、調査がなかったので、数字がちょっと
      わかりませんけれども、向島中学の場合は、うちの子供が
      通っていた時期は約三パーセントが韓国籍、朝鮮籍でした」
原告ら代理人「他の地域よりも多いということですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「その向島南小学校と、それから向島中学校にお子さんが
      それぞれ就学されてる時に、『君が代』のテープの強制問
      題が起こりましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「最初はいつでしたか」
朴実    「…今から五年前の3月、一九八六年の三月の卒業式前に
      なって知りました」
原告ら代理人「その時、お子さんは何年生だったんでしょうか」
朴実    「一番上の子が向島中学二年、次の子が向島南小学校の五
      年、三番目が四年生でした」
原告ら代理人「卒業式に関係あるというのは、長男の光(クワン)君が
      向島中学二年生、次男の哲(チョル)君が向島南小学校五
      年生として、卒業式に関係あったわけですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「卒業式で『君が代』が強行されるというようなことは、
      最初、誰から、いつ聞きましたか」
朴実    「新聞とか、マスコミの報道でやられるかもしれないとい
      うことで、三月になってから知りました」
原告ら代理人「三月の初旬でしょうか」
朴実    「そうですね。一〇日より少し前だと思います。一〇日ぐ
      らい…」
原告ら代理人「それであなたとしては、どうしたんでしょうか」
朴実    「それで他の保護者とかにも聞きますと、反対してる人が
      多かったので、他の地域の人たちと一緒に学校へ行きまし
      た」
原告ら代理人「それは中学にも、小学校にも行ったということですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「当時の中学校の校長先生は誰でしたか」
朴実    「小林…、下の名前はちょっと分かりませんが、小林校長
      先生」
原告ら代理人「小学校のほうは…」
朴実    「早川校長でした。名前のほうは分かりません」
原告ら代理人「それぞれ会われたんでしょうか」
朴実    「はい、会いました」
原告ら代理人「何回ぐらい会われました」
朴実    「…ちょっと覚えてないんですけれども、一回か二回ぐら
      い会いました」
原告ら代理人「地域の人々とおっしゃいましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「どういう方たちがあなたと同じ考えを持ったんでしょう
      か」
朴実    「はい」
原告ら代理人「教会で知り合われたという関係だったんですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「あなたの表現を使うと、日本籍朝鮮人ということですが、
      帰化したら帰化したで、それなりの苦労がまたあるんじゃ
      ないですか」
朴実    「確かに、帰化をすれば、日本国民として法的には保証さ
      れていますけれども、日本社会は、民族差別は単なる法的
      なものじゃなしに、日常生活にわたっていろんな民族差別
      があります。例えば、アパートに入居するとき、日本名で
      はかまわないけれども、民族名、本来の本名では入れても
      らえませんでした。それから、子供たちも名前のことでい
      じめられたりもしましたし、けんかをすれば、朝鮮帰れ、
      とも言われたりもしました」
原告ら代理人「それは固有の日本人からの差別ですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「在日朝鮮人からの問題は何かありましたか」
朴実    「在日朝鮮人も韓国籍、朝鮮籍の中で、いろんな法的な差
      別のある中で生きてきておられる方にとっては、私たち帰
      化した者は民族の裏切者として、できるだけ民族のそうい
      う同朋の社会に入っていこうとした時に、来なくてもいい
      とか、裏切者とか、そういうふうな表現で排斥されました」
原告ら代理人「そういうことで、かなり悩まれて、帰化したことを悔ま
      れたこともありますね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「また、国籍を取り戻したいと思われたこともあるんです
      か」
朴実    「はい。それで最初、帰化後一年ほど経って、もう一度韓
      国籍に戻りたいと思って、韓国の国籍法を調べました。す
      ると、韓国に五年以上居住して、そして引き続いて居住す
      る用件とか、韓国で生活をしていく生計の道がないと、再
      帰化ですか、戻れないということで、断念せざるを得ませ
      んでした」
原告ら代理人「それで、陳述書によると、『日本籍朝鮮人としての生き
      方を追求し』という表現がありますね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「それはどういうことですか」
朴実    「私は最初はそれは私個人の特異な、私が帰化をし、そし
      てまた再び朝鮮社会に入っていこうとして受け入れられな
      かった時に、私が帰化したことが悪かったんだと、私個人
      に置き換えていたんですけれども、客観的に見ると私一人
      じゃなしに、日本の社会のあらゆる民族差別の中で、帰化
      していく人が毎年約五〇〇〇名います。そしてその子孫の
      数も非常に多いです。また、私が日本の学校教育でそうで
      あったように、民族的素養を一切受けられずに、むしろ民
      族を否定していくことばかり考えていました。そういう子
      供たちが今もなお、小学生、中学生として育って行った時
      に、私と同じように民族を否定し、帰化していく者が出て
      くるんじゃないかと。それは私一人の問題だけじゃなしに、
      たとえ、帰化をして、日本国籍になっても、もう一度民族
      を取り戻したい、あるいは朝鮮人として生きたいという願
      いがかなえられるような、そういう社会になってほしいと
      思ってそういう生き方を追求しました」
原告ら代理人「それで本名使用も考えられたということですが、帰化の
      時に日本名を押しつけられましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「あなたの表現によると、どうもそうらしいです」
朴実    「はい」
原告ら代理人「本名を使い出したのは、いつごろからですか」
原告ら代理人「帰化をしたその年の秋に長男が生れまして、その子供の
      教育を思った時に、この子は幾ら国籍が日本でも、親が朝
      鮮人であれば、この日本社会ではきっといろんな差別を受
      けると思いました。それならば、むしろ親とか、そういう
      自分の出生を隠さず、自分の親は朝鮮人であるということ
      を表現して生きてほしいと願いました。自分が朝鮮人とし
      て生きる、それだったら、国籍が日本だったら一体何があ
      るのかと思った時に、名前しかなかったということです」
原告ら代理人「そうすると、長男が生れた直後あたりからということで
      すか」
朴実    「はい、そうです」
原告ら代理人「そしたら、お子さんと、それを議論するということはな
      かったですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「奥さんと議論されたでしょう」
朴実    「はい」
原告ら代理人「奥さんの御意見は」
朴実    「妻は私が帰化をしたことが自分の親とか兄弟に直接原因
      があったということで、私に対して非常にすまない気持ち
      を持っていましたから、私がむしろ本名を名乗る、民族名
      を使うということには、積極的に賛成してくれました」
原告ら代理人「日常生活では、奥さんはどう名乗られたんですか」
朴実    「私が元の朴という名前を名乗った時、妻は旧姓の日本の
      名前、作花清子という旧姓を使い出しました」
原告ら代理人「一時、夫婦別姓であったと、そういうことですか」
朴実    「そうです」
原告ら代理人「しかし、表札とかは朴と書いてあったわけですか」
朴実    「公文書類は新井という日本名で来るので、朴(新井)と
      書きまして、横に妻の旧姓も書きました」
原告ら代理人「三つの名前が並んでたということですか」
朴実    「はい」
朴実    「まず、PTAとか保護者とかの人たちと、もう一つは地
      域でそういう障害者問題とか、在日朝鮮人問題とかに取り
      組んでる地域の住民の人たちです」
原告ら代理人「あなた一人でも、会われたことはあるんでしょうか」
朴実    「この八六年の時は、私一人では会っていないです」
原告ら代理人「まず、中学のほうの小林校長先生と実際に会われました
      か」
朴実    「中学に行った時、たまたま不在でして、教頭先生が代わ
      りに出てこられました」
原告ら代理人「お名前は何というんでしょうか」
朴実    「高谷という名字しかわかりません」
原告ら代理人「最初に会われたのは、いつごろですか」
朴実    「三月一二〜一三日ごろだったと、もう卒業式の直前だっ
      たと思います」
原告ら代理人「その卒業式は、その年は何月何日だったか、覚えてらっ
      しゃいますか」
朴実    「三月一五日が中学の卒業式だったと思います」
原告ら代理人「その高谷教頭先生と会われて、どういうやりとりがあっ
      たんでしょうか。あなたたちのほうからは」
朴実    「私たちは『君が代』に対して反対してる人たちも多いし、
      子供たちも多い。それからまあ、歴史的にみても、在日朝
      鮮人の立場から見ても、反対する人が多いし、私たちも反
      対してるので、やめてほしいと言いました」
原告ら代理人「それに対して、教頭先生はどうおっしゃいましたか」
朴実    「校長が不在なので、自分の権限じゃないので、はっきり
      したことは言えないけれども、まあ、教頭先生の個人意見
      として、『君が代』の『君』は天皇じゃなしに、私、あな
      たの『君』とも解釈できると、そんなふうに言われました」
原告ら代理人「あくまでも、(『君が代』を)するんだというお立場で
      しょうか」
朴実    「校長先生がいないので、教頭先生では最終的にわかりま
      せんということでした」
原告ら代理人「最初はそうでしたが、また会ったんですか」
朴実    「いえ、それで次の日でしたか、校長先生から私のうちに
      電話があった時に、確かめると、『君が代』をやるという
      ことなので、それで、『君が代』を卒業式に取り入れると
      いうのは、その時、はっきりわかりました」
原告ら代理人「そうせざるを得ないというようなことについてですね、
      何か説明はされましたか」
朴実    「…これと言った説明はなかったです。私は反対意見を言
      いましたところ、まあ、いろんな意見があるけれども、こ
      れは文部省の指導要領で書かれているから、やらざるを得
      ないと言われました」
原告ら代理人「例えば、やらなければ自分はどうなるとか、そういうよ
      うな説明はありませんか」
朴実    「その時はなかったみたいです」
原告ら代理人「そういう説明が電話であって、あなたたちはどうしたん
      でしょうか」
朴実    「もう、それは卒業式直前だったので、子供たちが『君が
      代』については小学校から中学校、一回も習ったこともな
      いものを、どうして急にやるのか、そんなことやったって、
      できないじゃないかと言いましたところ、前の日の予行演
      習で教頭に説明させると言いました。私はそれを聞きたい
      と言ったんですが、それは断られました」
原告ら代理人「そのまま式になったと、こういうことですか」
朴実    「はい。子供はクラス委員をしていたので、出なければな
      らなかったんですが、『君が代』がやられるならば、自分
      は出ないと言って、それでクラスでそのことを言わせてほ
      しいと言ったところ、担任の先生は認められて、クラスの
      ホームルームの時間に、その話をする予定をしていたんで
      すが、校長先生から朝、いきなり電話があって、それはや
      めてほしいと言って、できませんでした」
原告ら代理人「今、校長先生、教頭先生以外の先生の話が出たんですが、
      他の先生たちの対応というか、あるいは態度いうか、それ
      はどうだったか覚えてますか」
朴実    「先生方もほとんど反対されておられました」
原告ら代理人「そういう説明は直に聞いたんですか」
朴実    「はい。それから地域で反対の集りを持った時に、先生方
      も来られていました」
原告ら代理人「そういう先生方の反対があったにもかかわらず、結果と
      して式の当日はどうだったんでしょうか」
朴実    「『君が代』のテープが流されました。私、子供は出席し
      ていませんでしたけれども、地域の人たちから聞きました」
原告ら代理人「小学校のほうですが、(「君が代」は)流れましたか」
朴実    「小学校の時は、早川校長に会いに言った時に、やらない
      と言いまして、その年はありませんでした」
原告ら代理人「一九八六年の三月の卒業式は、そういうことで過ぎたわ
      けですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「その後、『君が代』の強制反対と言いますか、そういう
      地域の取組みはあったんでしょうか」
朴実    「それで私たちの向島の地域には、『差別と人権を考える
      会』という住民運動があったんですけれども、それが中心
      になって、『「日の丸・君が代」の強制に反対する会』と
      いうのを作りまして、それで各学校に申入れをし、校長先
      生と交渉してきました」
原告ら代理人「それは一九八六年の卒業式が終ってからですか」
朴実    「八六年の時も、『差別と人権を考える会』という名前で
      各学校に申入れをしました」
原告ら代理人「それはどういう人たちが組織されてるんですか」
朴実    「組織という組織じゃないんですけれども、向島地域に住
      んでいる私のような普通の保護者、父親、母親、それから
      子供を持っていない住民、障害者、そういう人たちです」
原告ら代理人「キリスト教の関係でそういう団体があったと聞いてるん
      ですが、それとは別ですか」
朴実    「はい。代表者がたまたま世光教会という日本キリスト教
      団の牧師でした」
原告ら代理人「何という人ですか」
朴実    「後宮俊夫(うしろぐとしお)牧師です」
原告ら代理人「他にそういう動きがあったんでしょうか」
朴実    「他にも、地域の他の保護者、牧師たちも別個に反対運動
      をしてました」
原告ら代理人「次の年の一九八七年の三月を迎えるわけですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「この時は、予め、その前の年と同じようなことが行なわ
      れるということは、既にわかってたんですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「で、証人のお子さんの長男光君、次男哲君、それぞれ向
      島中学校と向島南小学校で卒業式を迎えることになったん
      ですね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「もちろん、反対されましたね」
朴実    「はい」
原告ら代理人「先ほどおっしゃった段階よりも、動いてたわけですか」
朴実    「はい」
原告ら代理人「校長先生方にもお会いになりましたか」
朴実    「はい。中学校は前の教頭先生だった高谷先生が校長先生
      になられて、小学校のほうも教頭先生だった光成先生が校
      長になられて」
原告ら代理人「それぞれ会われたわけですか」
朴実    「はい。保護者としても何回も会いました」
原告ら代理人「この時の高谷校長さんとのやりとりで覚えてることがあ
      りますか」


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