与太郎文庫
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| 1969年03月13日(木) |
一聴一席�〇堋坑嫁�尺八45年 富井 清 京都市長をたずねて |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19690313 ── 各国各地に 市長はたくさんいらっしゃるが 楽器をたしなみ演 奏される方は おそらく富井市長がはじめてではないか と思われます 京都市民にとって まことに貴重な存在である所以ですが 富井市長 尺八をやるということは でも行政面でもそうありたいです な(笑) ── 尺八をお始めになったのは いつごろどんな動機からですか 市長 私は三重県の出身で 上野中学四年生のときだったから17才です ね それまでは能管(しのぶえ)とか 当時流行の明笛などをいじって おったのです それがふと尺八を吹いてみたくなった ── どんな尺八でお始めになりましたか 市長 ゆきあたりばったりに求めたのが 1尺7寸のものでして 尺八 でなく尺七でしたが このとき一緒に求めた《都山流独習書》をたより に当初はまったくの独学で この道に入ったわけです ── 御上達のほどはいかがでしたか 市長 中学を出る頃には《春雨》など吹けるようになって 金沢医科大 学に進む時に かの地の藤井隆山先生のもとに入門しました ── 都山流はがんらい職格の序列がたいへん厳しいそうですが 市長 初伝・中伝・奥伝・皆伝・師匠という順に昇っていくのですが 私は 師匠試験をとばして次の準師範の検定に合格したのです 大学3 年のときだったから 当時 金沢三曲界では 華やかだったんですよ (笑) ── 一門に“突如鬼才あらわる”というわけですね(笑) 初代家元 の中尾都山先生には その頃お会いになったのですか 市長 準師範になる2年ばかり前からです そのころ求めた尺八に家元 が《清香》と銘を入れてくださった 以来これが 私の愛用する本命の 尺八となりました(写真)ことし12月には 私の指南歴45周年の記念 演奏会を催す予定です ── 5月にも 市長ご一家が中心となって演奏会をなさるそうですが ご家庭でもしばしば合奏されますか 市長 よくやりますよ 倅や娘には私がすすめたわけでもないのに い つの間にか 邦楽に親しんだものとみえます ── 奥様はお琴に堪能でいらっしゃるし 若き日のおふたりは尺八と琴 のとりもつ縁でしたか 市長 皆そう考えるらしいが 全くそうではない ちゃんと仲人を通じ て結ばれたのですよ もっとも仲人というのが北川先生といって 家内 の琴の師匠でしたから 以前から互いに見識ってはおりました という のは当時 宮城先生などの新曲が出ても それを手がけて演奏される方 は 京都では北川先生だったし 私も新曲には意欲的でしたから よく 合奏研究で手合わせもしました ── 妙令のお嬢さんが 大ぜい集まっておられたでしょうから 若き日 の市長も いちだんとはりあいがおありだった 市長 それは なかなか よかったですよ(笑) ── 尺八以外のご趣味では どんなことを 市長 遊びごとなら何でもやりました 百人一首・花かるた・将棋・碁 ・玉突き それに麻雀など 家内の父が上海でのみやげに“こんな妙な 遊び道具があった”といって麻雀牌と解説本を買って帰ったのです ち ょうどその頃 京都でチラホラと麻雀屋が開業しはじめており ハテ何 をやる処かとのぞいてみたら われわれが家でやってるのと同じ遊びな んです ── まさか数十年のちに 世の大学生が これにうつつを抜かすよう になるとは 予想もされなかったでしょうね(笑)ところで 戦争中は ピアノやバイオリンをひきますと 非国民などと たいそう叱られたそ うですが 尺八もその例にもれなかったのですか 市長 こちらは逆によろこばれたのです 私も応召しましたが 一管た ずさえて行きました 陸軍病院では皆に所望されるし 院長の奥方がお 琴をひくとなれば 私が合奏のお相手に呼ばれる すっかりお気に召し て 復員の際はいちばん先に帰らせてもらった“芸は身を助く”という 例ですかな(笑) ── 現在 市長は竹琳軒大師範・富井舜山と号されておりますが 都 山流における ご功績の一端をお聞かせくださいませんか 市長 終戦後 私は直接 家元に教えていただくようになり先生は枚方 のお宅から 京阪で京都まで出張していただいたのです 戦争で 都山 流の名簿も散逸して 誰彼の居所も判らない状態だったので これでは いけないということになり ひとつ全国各地に《尺八懇談会》を開催し て かつての流人を集めて歩こうという計画になり 家元のお供をして 昭和21年から24年にかけて全国をくまなく巡ったのです それが都山流 を現在の状態に復興した原動力です ── かつて家元は 19才の時に虚無僧の修業行脚をされたそうですが 期せずして市長もその道を往かれたわけですね 市長 なかなかの武者修業でして 貨物列車のデッキに新聞紙を敷いた 満員の闇屋に囲まれて 身動きもならず 汗をぬぐうにも手が自由にな らない そのままトンネルに入って煙にまかれる といった具合でした ── 組織の再編成も無事成功して次に《都山流尺八楽理の手引》を市 長の手で出版されたのは 市長 昭和26年でした 都山流の教科書としては前に藤井先生のものが あったのですが 先生も亡くなられており 新しい内容を盛り込む時期 でもあったので 家元から すすめられるまま私が改訂版を出しました その印税を 金沢にある先生のお墓にお供えしたことでした そして 去年6月 こんどは倅が さらに総合的に尺八と洋楽や琴との関連を 判りやすく大幅に改編したものを出しました 尺八は“喜怒哀楽 森羅 万象を一管の中に蔵す”といわれるが 原始的な楽器であるだけに そ の探究に尽きるところがありませんね ( 44・3・13・富井邸にて) ──────────────────────────────── 市長の子息および田中 昌雄社長、同席。 ながく父の主治医であった竹上医師に、与太郎の結婚媒酌を依頼して いたところ、直前になって富井市長が日赤病院に入院する事態となって、 竹上内科部長が主治医をつとめる。市長と父は、四歳ちがいの三月二十 八日ともに三重県に生れ。七年のち父の死から六十九日、元市長も逝去。 京都府医師会・事務局によれば、在籍会員の生没年月日を調べること は容易でない。どの地域に所属していたかも、検索方法がないらしい。
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