与太郎文庫
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1968年08月04日(日)  《創業70周年記念誌》発刊によせて

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19680804
 
 祝辞にかえて       中原 都男
 
 私は創社のすぐあとに生れ、しかも裏寺町の伯母の家にあずけられて、
立誠小学校を出るまで、このあたりに住んだ。おとなりの、さくら井屋
の主人・鳥井君は、私と同期の間柄で、そのころは、うるし絵の職人の
家であった。京都一の娯楽街であって、どんなにひいきめにみても、お
上品をものはなかった。
 ろくろ首の娘とか、がまの油売り、居合ぬき、チョンガレ(浪花節の
前身)ぶし、チョンキナ踊り、ヘラへラ踊り、などの見せ物小屋が、た
らたらおりを降りたところから四条へぬけるまで、立ちならんでいた。
いわば、庶民の息ぬきどころであった。三条通りも、東海道の表通りと
はいえ、チョロケンや裏寺町の席貸しもどりの酔客のよろよろ足、千鳥
あしの通りでもあった。
 横田商会による活動写真のかけ小屋が今の美松入口の電気館という常
設館になって、ヂゴマとか、新馬鹿大将といった題名の、他愛もないフ
イルムが、珍らしさのためにか大きな人気を呼び、客が殺到した。
 東でのジンタ、こちらの東西屋さんが、大太鼓とトロンボーン、クラ
リネットをはやしをがら町々をねり歩いた。十字屋の店先に、洋楽器類
がならべられたのも、その頃であったと思う。物珍らしげに私たち子供
は、じっとガラス戸に飾られたブラス楽器の輝やきに魅せられて、いつ
までもたたずんだことが、思い出されてくる。日露戦争の前後からは、
一挙にブラスバンドが盛大になったようである。明治40年頃は、もう京
都唯一の洋楽器の店となり、先代ゆき刀自の、みずみずしい丸まげ姿が
美しかった。子供心にも美しい婦人とうつった。
 えびす座とか、明治座とかいう芝居小屋がたてられ、たらたらおりを
下ったすぐ東側に川上音二郎のオッペケペ節の壮士芝居があり静間小次
郎という巡査上りの役者が人気の的であった。
 このようなかいわいに、十字屋がでんと店をはってかまえたわけで、
洋楽界の初期に、しかも、かような猥雑な土地に、よくぞ東京から来て
店を開かれたものと思う。いわば、不毛の土地を開拓する不屈の人物で
なければつづくものではない。故吉田恒三翁と、田中伝七翁とのつなが
りと、交友とは、稲畑登美女史の京都音楽協会編・京都音楽史にもうか
がえる。
 こうして大正期には、大正琴のブームとなり、女主人ゆき夫人が、や
やうすぐらい店の西側にすわって大正琴をひいて、いうならば生きた展
示をされていた姿が、なつかしく、よみがえってくる。
 さて、かような昔話をしていると、とても尽きそうにもない。戦後、
京都市立音楽短期大学ができることに在り、その準備期間に、どうして
もピアノが10台要ることがわかった。昭和26年秋のことである。出雲路
立木町にある市立堀川高等学校の分校々庭に、ある日、ふとみると、ト
ラックをならべたてて、こもをかぶったピアノ10台の荷を、田中ゆき前
会長が先頭となって、のりこんで来られた。私はびっくり仰天した。誰
もおねがいを申したわけではない。これが大人物の腹芸というものかと、
ひざを叩いた。水際だったあざやかさであった。このようなエピソード
をかぞえたてればきりがあるまい。このようなことが積もりに積もって
今日の繁栄となったのであろう。実に天の倉に富をたくわえる人であっ
た。まさに音楽業界の女王であり、また母であった。
 令嗣昌雄氏、愛孫義雄氏らの家族を仰いで森吾市、鈴木伝、村井英二
氏らの大番頭諸氏が、先代の志を志とされて渾然、調和されての日々を
見る秋、私はただただ尊いこと、ありがたいことだ。どうか更に、天の
時、地の利、人の和の三事相応しつつ、亭亭として天に摩すの大樹と繁
茂せられることを祈ってやまない。万歳、おめでとう。
 
(東京芸術大学音楽学部同声会京都支部長)
 
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 発刊によせて       小石 忠男
 
 歴史は未来を映す鐘であるといわれる。過去の事蹟をふり返り、現在
と未来について考察するのは、音楽という芸術の一分野に於ても必要な
ことであろう。
 このたび十字屋楽器店が創立70年を迎え、その記念出版として「音楽
100年表」を発刊されることは、ありふれた創業記念品の選定と異なり、
実に意義深いものがあると思う。率直にいって、このような年表の編纂
はその道の専門家でも資料の蒐集や編集に困難を問題が多く、まとめる
のは並大抵のことではないが、実物を拝見して、そのみごとをできばえ
におどろかされた。
 これは音楽関係書や一般愛好号にとって、またとない贈り物である。
座右に備えて、たいそう便利であるばかりか、折にぶれて各項目を眺め
ていると、なつかしいむかしの思い出すら呼び起こすことができる。私
は、ひまなときに、歴史年表や百科事典を詫むのが好きだが、この年表
でまた一つ楽しみがふえたとよろこんでいる。それに、わが国の音楽界
がいまや大きな転期にあるとき、過去100年の推移を知ることは、今後
の発展にも欠かすことができないのである。
 ここにはクラシックの一般事項や作品の初演記録はもとより、ジャズ
に関する人名、一般事項、それに日本の教育音楽年表、さらに歌謡曲の
項までが整然と並べられ、多方面から音楽明治100年史の資料を形成し
ている。
 これを専門の業としない楽器店のスタッフが、これだけの年表を編纂
されるには、想像も及ばぬほどの努力がはらわれたことであろう。十字
屋楽器店の方々は創立70年を迎えて、明日に飛躍する非常なエネルギー
をもつことを、この年表の完成で証明されたのである。私は十字屋楽器
店の創立70年をお祝するとともに、このようなすばらしい記念出版を企
画されたスタッフの方々に心から感謝の気持をお伝えしたい      (音楽評論家)
 


 中原 郁男 幼児教育 1898‥‥ 京都 /京都家政短期大学教授
 小石 忠男 音楽評論 19291026 兵庫 /
 田中 義雄 伝七の孫 19400709 兵庫 /繁雄の長男十字屋楽器店・営業部長

 
 この原稿は、句読点がなかった。
 これにヒントを得て、インタビューの会話文体から句読点を削除する
ことにした。
 あしかけ十年にわたって続けてみたものの、改行の折返しと混同され
やすく、結局は断念せざるを得なかった。(20061212)
 
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 はじめに
 
 株式会社・十字屋楽器店 営業部長 田中 義雄
 
 今から70年前、京都に生れた十字屋楽器店は明治・大正・昭和の各時
代を通じて、今日の姿に成長してまいりました。ながい年月をふりかえ
ってみれば、幾多の苦難もよろこびも、ただひとすじに目標に向うこと
への挑戦であり、励ましであったかもしれません。
 ことし創業70周年を迎えるに当り、改めてその目標と使命をかんがえ、
これまで、育てお引きたていただいた皆様に、あらたな決意をお伝えす
るために、この記念誌を企画いたしました。
 音楽100年表は、すべての音楽ファンに御利用いただくための新し
いこころみであり、十字屋十話は、当社のおいたちと経過を回想ふうに
まとめてみました。
 71年目に向って、その第一歩を踏みだし、音楽を通じての豊かな心、
豊かな生活づくりに御奉仕する、十字屋楽器店に今後いっそうの御指導
・御鞭撻をたまわりますようお願い申しあげます。
 なお、記念誌・取材に際して、ひとかたならぬ御協力をいただいた関
係各位、ならびに資料収集・制作に献身的な努力をされた、阿波 雅敏
氏に、あらためて謝意を表します。
 
(20061212)
 


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