与太郎文庫
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1960年03月18日(金)  グリル・キタの客

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19600318
 
 ◆ その一
 
── 19600318(金)吉田・河原満夫とダウンビート〜Midoriya〜キタ
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19591224
── 《自由への道》
 
 ゴリ・河原満夫との三人で、ダウンビート(ジャズ・レコード喫茶)
から、喫茶 Midoriya を経て、グリル・キタに行く。
 前年(1959)ゴリの義兄が祇園で開業し、店内に飾る油絵を頼まれた。
 
 与太郎は、カンバスにペインティング・ナイフで暗黒色を塗りつけ、
H状の三本線を白いまま塗りのこした作品を仕上げた。
 ゴリは、しばらく見つめていたが、いったん持ち帰った。
 
 数日後に、ゴリが困った表情で、この作品を返してきた。
「家族会議でな、どうもこの絵は何を描いたんか、分らん云いよるんや。
おふくろは“竹”やないか云うたが、ほかの者は見当がつかんそうや」
 
 与太郎は「やっぱり素人衆には向かなんだか」と笑って引きとった。
 ほっとしたゴリは、ついでに疑問を述べた。
「この部分に、小さな凹みがあるけど、夏の虫の化石ちゃうか」
 
 与太郎は、見るまでもなく答えた。
「描いてる途中に飛んできたんや、それがどうした」
「いやまぁ、その。まぁえぇけどな」と、二人で笑いあった。
 
── 阿波 雅敏《作品 F6 1959 for グリル・キタ》(返品)
── 阿波 雅敏《虚々日々 20001224 阿波文庫》
── フォンタナ《破れたカンバス 1959-1966》
 
 まさにフォンタナばりの構想だが、いま調べるに、当時の与太郎は、
かならずしもフォンタナの作品を観ていない。
 はっきり記憶にある季節は、夏の虫と、晩秋の学友である。
 
 つまり、与太郎の作品は、夏休みの帰京中に描いたものである。
 関西弁の学友と、安酒場でアブサンを飲みながら語ったのは晩秋だ。
 フォンタナの作品は、早いもので1959年、遅くて1966年だという。
 
 与太郎が、空間派の衝撃的な作品に影響を受けたかどうかは、微妙な
タイミングにあたる。
 発明発見なら、いくらか認められるべきだろう。
 
 おなじく、未完の三部作《わたしたちのうつくしい川・海・空 1961》
に対して、レーチェル・カーソン《沈黙の春 1962》も云える。
 だからどうだというほどのことではないが、光栄ある偶然である。
 
 Fontana, Lucio 画家 18990219 Argentina 19680907 69 /
 
── Lucio Fontana, son of a Milanese sculptor,
was born in Santa Fe, Argentina on February 19th 1899.
 He died on September 7th 1968 shortly after moving to Comabbio,
near Varese.
 
http://www.artinvest2000.com/fontana_english.htm
 Lucio FONTANA (画像 1966 Fontana)
 
 アブサンの好きな学友の名は思いだせない。色白で大柄な青年だった。
 安酒場のカウンターで仕送りの五千円札に火を点けてみたり、虚無的
な言動が印象的だった。たがいに一定以上に親しくならなかった。
 
 ◆ その二
 
 四十数年もたって、ゴリが思いだしたことを、手紙に書いてきた。
 ゴリは予備校で、首相の孫(中学高校の同級生)と机を並べていた。
 あるとき日本史の講師が、歴代総理の一番バカの名を挙げたという。
 
 ゴリが、清浦圭明(圭吾の孫)を横目で見ると、そしらぬ顔で聞いて
いたそうだ。その翌年、清浦もゴリも無事それぞれの大学に合格した。
 そして義兄が、自宅を改装してグリル・キタをオープンしたのである。
 
 すると、その店に大学教授となった予備校講師が、芸者を引きつれて
現われたのだそうだ。店の手伝いをしていたゴリが、思いだして教授に
教えてやった。「センセ、あのとき清浦の孫が教室に居ったんでっせ」
 
 すっかり羽ぶりよくなっていた教授は「そうだったか、ワッハッハ」
と笑いとばしたそうだ。ゴリは、四十六年ぶりに同窓会で清浦と再会し、
「予備校の授業を覚えているか」と訊ねてみた。
 
 しかるに総理の孫は、まったく記憶がないという。するとあのときも、
そしらぬ表情だったのは、まるで他のことを考えていたのだろうか。
 清浦は、いろあさぐろく長顔で、みるからに貴族づらである。
 
 与太郎も、中学三年生の前後に(学級はちがったが)選挙管理委員長
として一度ならず声をかけたことがある。彼は生徒会長候補だったが、
評議員会議長に就任し、与太郎は新聞部長となって、野に下った。
 
 なにかの問題で、ぶらさがり取材すると、彼は悠揚迫らず答えた。
「ところで、きみは、どの部分について不信任だと云うのか」
 この、しかめっつらしい反論に、さしもの与太郎も口をつぐんだ。
 


 清浦 圭吾 総理大臣23  18500327 熊本 19421105 92 /[19240107/19250611]
/奎明の祖父/子爵   嘉永3.0214 93 /
────────────────────────────────
 門脇 禎二 日本古代史  19250928 高知 京都  /京都府立大学長
 清浦 奎明 横浜ゴム専務 1939‥‥ 京都 神奈川 /奎吾の孫/清浦もリ・タイア
 中澤 隆司 KBS京都社長19390425 京都    /200509‥就任“パッチン”
 岩倉 明  具視の曾孫  1937‥‥ 京都 /具実の子/大前いく子の元夫
/写真・紀行文・翻訳

 
Let'20051019-1020 from Mr. Yoshida, Hajime
 
(20061214)
 
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 ヴァザルリの先駆?
http://art-random.main.jp/samescale/073-2.html
 エッシャー M.C. Esche【視覚の魔術師】(18980617〜19720327)
 
 画家の戦死
 
 久保 克彦 画家/図案 1918‥‥ 山口 湖北省 194407‥ 25 /戦死。
/1938東京美術学校工芸科図案部に入学、首席で繰上卒業
 
>>
 
 東京美術学校(現東京芸術大)を首席で卒業しながら、太平洋戦争の
ため二十五歳で戦死した山口県平生町出身の画家。
 
 1918年、佐賀村佐合島(現平生町佐合島)で生まれた。間もなく徳山
市へ移り、旧制徳山中を卒業。1938年、東京美術学校工芸科図案部に入
学。
 
 成績優秀で主席だった。戦争の激化で1942年9月に繰り上げ卒業。10
月、陸軍へ入隊した。1844年4月に中国へ送られ、7月、湖北省で狙撃さ
れて戦死。
 
 久保の代表作は、卒業作品で、東京芸大が買い上げた五枚組みの「図
案対象」(縦一・五メートル、横七・〇メートル)。
 
 大半が「画家でなく学生の作品」と映る彼の作品の中で、「図案対象」
だけは違う。海に墜落するような戦闘機を、中央に配した。「帰れない
覚悟が伝わってくる。自分すべてを注ぎ込み、ものすごい集中力で仕上
げてある」。生きていれば、大きな可能性を発揮したと思う。
 
 「図案対象」は、グラフィックデザインの先駆的作品として高く評価
されている。芸術への志を絶たれて戦死した若者の葛藤と懊悩は、戦時
中の社会と歴史の一断面を語っている。
 
 久保は、戦争反対を声高にいう同級生に、「やめろ」といった。どう
反対してみても、今の体制下ではどうにもならないということを知って
いるかのような口ぶりだった。だから、久保が卒業制作にのこした”戦
争画”は、日本国民の士気を鼓舞するものでも、皇軍大和の必勝を期待
するものでもなかった。
 傷ついた蝶のように落下する飛行機、傾く戦艦、その向こうに広がる
ピンク色の空と蒼い海。それは、人間の営みの愚かしさと虚しさだけが
ただようやるせない、”反戦争画”だった。
(1)
 
 志半ばで戦場に散った無念さ、心の叫び。
 
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)戦没画学生慰霊美術館 「無言館」HPより抜粋。(20030805)
http://art-random.main.jp/samescale/025.html#k-katsuhiko
 
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(20061229)


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