与太郎文庫
DiaryINDEX|past|will


1957年06月02日(日)  客体から主体へ 〜 現代芸術の理解のために 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570602
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 ↓Edita for text ↑Index 000000=19020102〜99991231
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 from Our Pictures;19570602-0
 
>>
 
 客体から主体へ 〜 現代芸術の理解のために 〜 竹内 康
 
…… 近頃、「電子音楽」だとか「アンフォルメル」という様な芸術が
はびこり出して、奇異な感じを持たれる人々も少なくないと思いますが、
私がこれから、言おうとする事が少しでもそういう物の理解に役立て
ば幸いだと思います。
 今ここで私は客体から主体へという哲学的な言葉を取り上げましたが、
哲学と芸術と何の関係があるのだと思われる方もあると思います。しか
しそうういう関係があるという事がもう既に現代の芸術の性格なのです。
 
 さて前置はこれぐらいにしてテーマの「客体から主体へ」という事に
ついて書いて見たいと思います。
 客体から主体へという変化はまず他律から自律へという事により始ま
ります。この段階に於いては一人の人間とその周囲の他のものが問題に
なるわけです.即ち社会とかそういう個人以外のものが客体であり、一
人の個人が主体となるのです。
 次の段階にはいると所謂外面的な自己というものから内面的自己へと
変っていきます。これは言い換えれば自己というものを意識しない状態
から意識する状態へと変るわけです。
 更に進みますと、ここに自己の意識の中に客観的な自己から主観的な
自己へと変るのです。客観的な自己とは、即ち自分自身の中に第三者た
る自己を作るのです。そうして自分の行動とか精神とかそこの第三者の
目を通して見るわけです。一般にこの第三者というものは一つのある価
値判断の基準として存在します。そしてそれは自己の言動に価値を下す
わけです。こういう状態を最も良く現わしているものに「モラル」とい
うものがあります。即ち人はこれを絶体的なものとして自己の内に持つ
のです。そして、自分の行動あるいは精神的な活動をこれによって良し
としあるいは悪しとするのです。そしてその価値判断により自己の存在
を決定するのです。
 しかし何もこういった状態はモラルには限りません、もっとおし広め
て考えるなら、人間というものは大程この状態にあるものです。人生に
目標を持って生きて行くだとか、日々の生活を反省してより良きものに
するだとかいう事は、すべてこの状態にあるのです。
 しかしこういう状態では残念な事に、一度その客観的な絶体としてい
るものが無くなると、たちまち自己を見失なってしまうのです。それに
又、もう少し考えて見ますとその絶体としている価値判断の基準は決し
て絶体ではありえないです。もしそれが絶体なればそれほとりもなおさ
ず真理であり、価値の基準というようなものがあるならば何も我々は無
限という事に悩まされる必要はないわけです。謂はばその様な状態では
自分で自分の身体を自分で編んだ縄で縛っているのにほかありません。
こう云う事が馬鹿げた事であるといっ事は云うに及びません。
 所で先に少し触れましたが、絶体としている客観的自己がその非絶対
性を表わしてくると、たちまち自己を見失ったり、非常な精神的危機か
やってくるのです。自殺というものがその最も端的なものです。もっと
も自殺の総てがこれではありませんが、しかし、この様、な自殺が最も
多いのではないかと思います。しかしながら、こういう危機を通してこ
そ、人間は更に進んだ段階へと進むわけです。
 さて、主観的自己と申しますと、その字の示す通り、自分自身を主観
的に見るわけです。即ち、自己の感情とか理性に忠実に行動しようとす
るのです。こういう状態の典型を私は、ヘッセの「デミアン」の中に見
い出します。しかしこれとても、自己自身を主観的に見て自己という客
休を作っていて、それを絶体化しているわけで、前述の段階とは大差無
いものなのです。
 所でいよいよ次の段階として私の本題とする所の主体的自己というも
のが出て来ます。これはキェルケゴールが「死に至る病」で言っている
言葉、即ち「自己とは自己自身に関係する所の関係である」というのが
最も良く現わしている様に思われます。しかしこんな言葉だけを書いて
みても全く無意味なので説明をしてみましょう。
 この段階にまでつきつめていきますともはや主体的になり得る可能性
を持ったものは自己自身しか残されていないわけです。そこでこの自己
自身は主体的になろうとするのです。所が主体的になるとそれはすぐ客
体となってしまいます。即ち主体的であろうとする観念が既に客体であ
るのです。この関係は所謂弁証法的に無限に発展するわけでしてこの主
体的になろうとする無限の傾向がとりもなおきず主体的な自己なのです。
即ち自己自身に関係するその関係そのものなのです。もっともここまで
来ますともはや言葉や文字で表わせる領域ではありません。
 所でこの主体的自己は更に一歩進めますと、その自己自身に関係する
所の閲係の否定という事にまで発展します。これほとりもなおさず自己
の否定です。自己の否定では、即ち一切の物の否定です、一切の物の否
定とは、即ち「無」なのです。仏教の、禅の本質とする所の無なのです。
しかしながら、ここに又一つの問題が有ります。と言うのは、我々は決
してその無にはなり切れないのです。そこでここに無になろうとする無
限の傾向が存在するのです。この傾向こそ我々が「実在」と呼んで良い
ものではないでしょうか。
 私が今迄、長々と書いて来た客体から主体への移行の最終の段階であ
るのです。
 以上何かこの文の札的にそれた事を書いてきた様に思われるかもしれ
ませんが、この様な現代芸術の裏づけとなっているものの理解なくしで
は、当然その作品の本質に触れる事は不可能な事です。
 即ち換言すれば現代芸術とはそれ白身この実体になろうとする傾向を
持つと云うわけなのです。この傾向の音楽に於いての現われが電子音楽
であり、絵画に於いてはアンフォルメルです。
 先ず電子音楽について述べたいと恩いざす。古い音楽として19Cのロ
マン派の音楽を上げるならば、それは実さい、美しくもあり、人を感動
さす力を持っています。所が我々がそれを聴いて感動するのは音楽それ
自身に対してではなくて、その音楽によって起された我々白身の感情と
か、感覚とかに感動するのです。
 例えばショパンの「別れの曲」を聴くとすると、我々は別れという標
題から、あるいはその音楽の雰囲気から、悲しみという感情を感じそれ
に心を打たれるのです。音楽の要素たる音程・リズム・和声とかいうも
のは唯その組合せにより、そういう雰囲気を作り出す手段にすぎないの
です。所が電子音楽に於いてはどうでしょうか、私は特に電子音楽の生
みの親であるウェーベルンの音楽について述べたいと思いますがそれは
最早や単なる感情をかき立てる手段という様なものではなくて、その音
程・リズム等はそれ自身が目的であり、一個の存在として、即ち主体的
存在として存在するものなのです。この様な事は言うまでもなく、その
音楽を聴いていただいたらすぐわかる事です。所が19C的な観地から
それを聴ぐ人々はその音楽を、相変らず感情の手段として聴くもんです
から奇異な感じを持たなくてほならなくなるのです。我々はこの音楽に
音楽以外のものを求めるべきではなく、音楽それ自身のもつ主体的な存
在を求めるべきなのです。だからあるイメージを浮はそうとしたり、感
情的な基準からその音楽を判断する事は大きな誤りです。唯何も思わず、
考えずにその音を一つ一つはっきりと聴いて、その存在を認めたら良い
のです。そうすれば、そこに存在と存在との交通が起り、その音楽は我
々に実存的な感動を与えるのです。
 アンフォルメルの絵画でも全く同様です。その絵から、何が書いてあ
るかとか、色彩が美しいだとかいう様な事を求めるからいけないのであ
って、何等の先入観にもとらわれず、透明な心で直接その作品を見れば
良いのです。
 この様に現代の芸術というものは、単なる人間の付属物たる客体的存
在から、それ自身のための存在たる主体的存在に、更には実存に迄発展
して行こうとするものなのです。そこでその芸術を理解するためには鑑
賞者自身も客体的存在から主体的存在に、更には実存に迄達していなく
てはならないのでず。そうでなくては芸術に見捨てられた存在になって
しまいます。芸術と人間との関係というのは真に存在と存在との対決な
のです。
 以上で大体私のいおうとする事が理解していただけたかと思いますが、
ここで音楽と絵画について述べていながら、文学については何ら述べて
いない事に疑問を持たれるかもしれませんが、私は文学というものは他
の二つと本質的に異ったものであると思っています。というのは、文学
が文字というものを仲介とし、人間存在についてのものである以上、客
体としての存在から脱しきれないからです。しかし文学について述べる
には、もう紙面もありませんので又別の機会にまとまったものとして書
きたいと患います。
 以上何かとりとめのない事を書いた様ですが極く短時間に一気に書き
上げてしまったので理解しにくい所もあるかと思いますが、この辺で一
応筆を置きたいと患います。(六・二)
 
── 《山脈・第十三号 19570620 同志社高校文芸部》P38-40
 
<<
 
┌┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┬┐
↓=Non-display><↑=Non-display
└┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┴┘
 
…… 「ショパンの前奏曲は、おまえの叔父さんが死んだとき、どんな
にか私の助けになったかしれない」という叔母のビジョワ──美は彼ら
にとって同情的であると思う。ろくでなしめ! ── サルトル《嘔吐》
adlib/19690320 読み返した本 〜 デーやんの寸稿 〜
 
…… ピカソを論じることはほとんど興味がなかった。高校時代の竹内
君のように長いものは書けないので、ここでは影響を受けていない。
 *竹内 康《パブロ・ピカソ 19581010 山脈・第十六号》参照。
adlib/19600225 孤太郎 〜 丸と四角と三角 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/archive?word=%C3%DD%C6%E2%A1%A1%B9%AF
 key word of 竹内 康 ↓ 竹内 康
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C3%DD%C6%E2+%B9%AF
 
adlib/19570620 抹茶の倦怠 〜 退屈論から厭世考へ 〜 
adlib/20010920 悪友四重奏
 
(20090601)
 


与太郎 |MAIL |HomePage

My追加