与太郎文庫
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1956年01月01日(日)  然かざりき/ブラバン/ひばり/ゴリのケンケン

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19560101
 
 然かざりき
 
 有賀博士に孔版の年賀状を依頼され、鐡太郎を鉄太郎としたところ、
「新字体では“金を失なう”ので気にいらない」とクレームがついた。
博士自身の発言とは思えないが、たしかに当時の大学教授は、あんまり
裕福ではなかった。しかし《広辞苑・第二版》でも新字体を採用してい
るところをみれば、やむを得ない誤植ではないか。
 おなじく京都大学教授・会田雄次先生も、旧字体にこだわられた。
 多田道太郎教授と一緒に「アイーダ大行進」などと夜の街をさまよい、
たどりついた店で、先生名義のウィスキー・ボトルを書きかえることに
なった。酔っ払ったいきおいで与太郎が代りに署名していると、先生は
「なんや、またケッタイな漢字を使いよって」と不満気だった。しかし
いつも旧字体で“會田”と署名されていたわけではなかった。
 
「野の百合は、働かず紡がず。されど神は養い給ふ。/ソロモンの栄華、
いかに装えど、野の百合の一つだに然かざりき」〜《マタイ伝 6-29》
 文語調ならではの名文に由来して、若き日の有賀博士は長女“のゆり”
と名づけた。たぐいまれなる命名の傑作である。
 やがて彼女が小児麻痺のため障害を負うことになり、あらためて受洗
した神学者の、祈りの日々がはじまった。娘よ、お前は働かなくてよい、
美しいものを求めて生きるだけでよい……。
 長じて彼女はフルブライト奨学資金を得てドイツに留学、数すくない
チェンバロ奏者として帰国した。記念すべきリサイタル開催にあたって、
ポスターを委嘱された与太郎にとっても、帰郷第一作となった。
 現在“のゆり”女史は同志社女子大学音楽学部名誉教授である。
 
 弟の誠一は、同志社大学工学部を卒業して、京都大学核融合プラズマ
研究所に勤務するうち、朝日新聞論説委員の令嬢と結婚した。このころ
から疎遠になったが、ときどき京都新聞投書欄に投稿したりしていた。
友人のなかでも三筆だから、たぶん新妻が清書していたとみられる。
 ホザナ・コーラスでは、与太郎とともに数回ゲスト・メンバーとして
加わったが、一年上の森本潔君をあわせれば、当時最有力の男声トリオ
ではなかったか。森本君はクラリネット、のちに与太郎がチェロ、有賀
もフルートをはじめたので、三人はともに器楽部員でもある。
 有賀は“ヤマチューさん”こと山田忠男・京都大学教授に師事して、
いっぱし子供を教えるくらいまで上達した。
 ヤマチュー先生の奥方はピアノ、長男・宏君がヴァイオリンとトラン
ペット、二男・明君もチェロをよくする音楽一家である。
 このほか貞方敏郎・同志社大学教授一家などの音楽人脈については、
ありあまるエピソードを、別稿《双龍外伝》《私の十冊》にゆずる。
 
 還暦をすぎたアリガよ、ふたたび来たりなば、合唱できるだろうか、
《海女の子守唄》や《Deep River》さいごに《アロハ・オエ》を。
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 このときの盛況から、つづけて「チェロとチェンバロの二重奏の夕べ」
を一流ホテルのサロンで開催する企画を立てたが、実現に至らなかった。
チェリストには、NHKプロデューサー阿満利麿氏の紹介で、当時大阪
フィルハーモニーの竹内良治(ほどなく京都市交響楽団首席奏者)氏。
“双龍”は、ブルース・リー&ジャッキー・チェンを指すが、ここでは、
ヴァイオリンの“月竜&日竜”に由来して、ゴリと与太郎に見たてる。
 
 
 ブラバン
 
 合唱コンクールで《五木の子守唄》の楽譜を見せてくれた西垣喜光君
の一年下の弟・西垣光紀君は、高校器楽部でトランペットを吹いていた。
(さらに二年おきに隆光君、妹とつづいて、この兄妹の父がPTA会長
をつとめたのは、まことに当然である)
 
 水泳大会の開幕ファンファーレを聴いて、光紀君のさっそうとした姿
に感動したものである。このとき吉田肇君は潜水競技に出場して、ブッ
ちぎりの優勝をしている。すでに彼はトロンボーンを始めていたために、
もっぱら肺活量のトレーニングに励んでいたという。
 二人の勇姿をみた数日後、与太郎はともかく楽器を始めたくなって、
器楽部を訪れた。ゴリが最初に手渡してくれたのは、汚らしい洗面器の
ようなバス・チューバであった。そのまま家に持ちかえって、風呂場で
洗ってみたが、どこにも光る部分がない。吹いてみると、あちこち空気
がもれている。
 あてがわれた楽譜は、いかにも単調で「ブッ・ブッ、ブッ・ブー」の
繰りかえしで全曲おわってしまう。
 新米だから、しばらく練習してみることにしたが、ゴリには他の楽器
をたのんでおく。ゴリの判断では、どうせ途中で退める者がいるから、
そのつどマシな楽器と取りかえればよい、という。
 吹奏楽の経験がない人には分らないが、たとえば《軽騎兵序曲》のよ
うな名曲でも、ほとんどのメンバーが担当するのは、この程度の役割に
終始して、わずか数人の花形が華麗なるメロディを奏でるのである。
 そもそも吹奏楽は軍楽隊のための、非民主的な階級集団のものである。
これにくらべると管弦楽は、他声多重の役割に分担されていて、かりに
休止符がつづいたとしても、それは意味のある沈黙として尊重される。
 やっぱりクラシック音楽か、と考えざるを得ない。
 しかし、オーケストラを作ることなど途方もないことだから、当面は
ブラスバンドに加わって個々の楽器をいじってみることにした。
 木下聖治や有賀誠一を誘いこんで、数回の演奏会や野球の応援などに
参加した。木下はすぐに厭きてしまったが、むかしヴァイオリンを習っ
てものにならなかった有賀は、クラリネットに興味をもった。そして、
フルートを手にしたとき、はじめて手応えを感じたのである。
 すでに一年生の夏休みに、与太郎はヴァイオリンを手に入れることに
成功していた。両親の不和に乗じて策略をめぐらし、周囲の反対の中で、
とにかく抱えこんだ(金四千円也)。
 両親は、ヴァイオリンやLPレコードの音が、隣家の迷惑にならない
よう注意するだけで、決して議論の対象にはしなかった。悪性の疫病に
息子がとりつかれた、と信じているかのようだった。
 大人たちが期待していたのは、すぐに挫折して、本来の勉学にもどる
はずだった。十六歳にもなって(教室にも通わず)独学で弾けるわけが
ないと考えたのである。しかし一週間後に、訪ねてきた有賀が叫んだ。
「あれれー、鳴っとるやないか」
 
 
 ひばり
 
 与太郎の左アゴには、傷痕がある。真夏にヴァイオリンの顎当を抱え
こんで汗をかいたところに、ニキビが生じる。そのニキビをすりつぶし
て弾きつづけた結果である。
 秋をすぎる頃には、ショスタコーヴィッチ《ヴァイオリン協奏曲》の
第二楽章・夜想曲など弾きはじめるほどに上達していた。独学だから、
スコアを買って写譜すれば、誰にも咎められることがない。
 訪ねてきた叔父に一曲聴かせると「娘にも習わせようか」という。
「それはいかん、このように顎が破れて、歯ならびも悪うなる」
「そうか、それでは嫁にやれんな」と、叔父は帰っていった。
 金谷先生の家にも押しかけて、《タイースの瞑想曲》を聴かせた。
 先生は、当初から反対論者であるが、兄上はほめてくれた。
「きみ、そのくらい弾けると、ラジオもレコードも要らんな」
「やっぱり、音楽は聴くほうが、うまい」
 ベートーヴェン《スプリング・ソナタ》が弾けるようになると、有賀
君にピアノ伴奏をやらせてみた。有賀家に上がりこめば、ピアノ教師が
二人も住んでいるから、どちらかが面白半分でも伴奏してくれるのでは
ないかと期待したが、ついに相手にされずじまいだった。
 つぎに、本宮先生の指揮するジュニア・シンフォニーに招かれるには、
先生の辛辣な皮肉に耐えるにも、あるいは、自前のオーケストラを組織
するためにも、どうしてもチェロが必要だった。
 ようやく(母をあざむいて)チェロを手に入れる(金二万円也)。
 器楽部と別に弦楽同好会を設立、竹内康・須磨章彦・福地公直の三君
を引きずりこんで文化祭に出場、器楽部の上級生・宮本君の顔を立てて
モーツァルト《クラリネット五重奏曲》と、ハイドン《弦楽四重奏曲》
“ひばり”の一部を演奏した。その半年後に器楽部から吹奏楽を追放、
忽然として管弦楽団が出現、その指揮者は二度目の二年生だった。
 東京芸大出身の教諭二人、中堀愛作教諭は美術を教えるかたわら、
ホザナ・コーラスの指揮者でもある。鎌尾武男教諭は、中学では美術、
高校では音楽を教える(芸大は美術学校と音楽学校に分れていたので、
あるいは両方卒業されたのかもしれない)。前年まで器楽部長だったが、
まったく素人の森田昭典(物理)教諭と交代したのは、吹奏楽には熱意
がなかったとみえる。フランス文化への造詣ふかく、斎藤百合子嬢によ
れば、実際のパリ在住者よりも地理にくわしいという。
 選択五教科のひとつに、音楽特論もあった。これなら得点をかせぐに
都合がよい。はじめXX君が申込んだ段階で、担任の先生が「女生徒ば
かりのところに混じっては、鎌尾先生もやりにくかろう。ほかの科目に
したまえ」といって退けた。そのあと与太郎が、知らぬ顔で申込んだの
である。こちらの担任は、そのまま通してしまった。
 もとより鎌尾先生は芸術至上主義者だから、男ひとり混ったくらいで
おどろかない。おなじ楽譜を配って、おなじキーで歌わせた。ほとんど
フランス語の恋の歌である。
 
 
 ゴリのケンケン 〜 I’m getting sentimental over you 〜
 
 吉田肇のあだ名“ゴリ”の原義は、川に生息する淡水魚か、もしくは
“ゴリラ”の略称か。どちらがふさわしいか分らない。
 ゴリは、もともと悪ガキであって、いつもふざけていた印象がある。
その後の彼は、それなりに迷いがあったらしく、最後には大阪市立大学
法学部を出て、阪急電鉄に入社している。
 そもそも大阪市大といえば、かの“よど号事件”首謀者・田宮高麿の
居城として関西赤軍派の名門である。田宮が入学したとき、ゴリは四年
生でジャズを吹いていた。いわゆる思想的転向者にはまさかのケースが
多いように、阪急入社後のゴリも転身して、往年の悪ガキの面影はない。
 
 ゴリは、高校でバスケット・ボール部にもいたが、ジャズに熱中して、
ブラス・バンドに入ってトロンボーンを吹きはじめた。
 与太郎も、どういう風の吹きまわしか、ブラス・バンドに加わった。
そして吹奏楽はつまらないから管弦楽に転向するという壮大な悪だくみ
を打ちあけた。ゴリはジャズをめざしていたから、どっちでもよかった
が、与太郎の熱意に押されて、しぶしぶ協力したとみられる。
 
 ゴリは、いつもあたらしい疑問を運んできた。
「三拍子にも色々あってな。日本人のリズム感は祭太鼓そのままやから
アカンのや。ウィンナ・ワルツなんかケッタイなもんらしい」
「ブン・チャッ・チャッ、これではあかんのか」
「ブン・チャッ・チャー、これを弱・強・弱および短・長・長と吹く」
「ふーん、“メヌエットからスケルツォを経てワルツへの変遷”という
テーマで演奏会ができるナ」
「なんじゃ、それ」
「すべて三拍子の曲を並べて、歴史と変遷をたどる」
「アホか、そんなもん。お客が三拍子のケンケンで帰りよるぞ」
 せっかく面白い話をもちこんだのに、ゴリは怒って帰ってしまった。
 
 新米社員の彼に、仕事をもらった与太郎は、撮影の邪魔になるからと
社長車を移動させようとして、鎖のロープにぶっつけてしまった。
 その社長は、京都疎水の英雄的設計者・田辺朔郎の長男であるという。
(宝塚映画の監査役・田辺節郎は同一人物か?)
 与太郎は「出入り業者が車をぶっつけたのでは面倒だ、ゴリよ、社員
がぶっつけたことにすれば、始末書一通で済むはずだ」といって、姿を
くらませた。職場に未来の女房もいるし、ゴリは内心薄氷を踏む思いで、
すべて穏便に運ばなくてはならなかった。
 三〇年後(19980624)ゴリが、当時の職場である西山ドライブウェイ
に社長となってもどったからには、例の件は事なきを得たにちがいない
(めでたしめでたし)。しかし、かつての悪ガキが、黒塗りの社長車に
ふんぞりかえっていようものなら、もう一度ブッつけてやるぞ。
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 アメリカ映画《ニューヨーク・ニューヨーク》冒頭シーン、トミー・
ドーシーとおぼしきトローンボーン奏者が《僕はセンチになったよ》を
たっぷり聴かせる。一九三〇年代を代表する不滅の名曲であり、ゴリに
とって、与太郎のサン・サーンス《白鳥》に呼応する宿命の難曲である。
トミーの兄ジミーはクラリネット奏者。テンポ設定のことからはじまる
兄弟の離反と和解は、ゴリと与太郎の友情にも不可欠の試練となる。
 
── 父からはじめコルネット、ついでテナー、アルトを学び、その後
クラリネットを独習。7歳から父のバンドで演奏、1920年前後には弟の
トミーとドーシーズ・ノベルティ6を結成/34年、弟と共にドーシー・
ブラザース・オーケストラを結成したが、翌年楽曲のテンポ設定のこと
で弟とケンカ別れし、以後は自己の楽団としてクラフト・ミュージック
・ホールにレギュラー出演。ビング・クロスビーを歌手に迎えた。/
── 1934年にドーシー・ブラザース・オーケストラを結成、1年後に
ちょっとした口論から同楽団を飛び出し、ジョー・ハイムスのオーケス
トラを引き継いだ/歌手を他の楽団から金に糸目をつけずに引き抜いて
名実共に全盛を極め、そのテーマ<アイム・ゲッティング・センチメン
タル・オーバー・ユー>およびそのスイートなトロンボーン・プレイか
らトミーはセンチメンタル・ジェントルマン・オブ・スイングの呼称で
絶大な人気を得るに至った。この間の37年には兄ジミーと和解し、39年
にはそれぞれの楽団を率いて共演/47年には兄弟の伝記映画「ファビュ
ラス・ドーシーズ」に出演。53年からは兄ジミーを自己の楽団に迎え、
亡くなるまで成功を謳歌した。
── 《新・世界ジャズ人名辞典 19880515 スイングジャーナル社》P110-111
 
── ごり ●(=魚+休)→かじか 據鰍・<杜父魚>】カジカ科
の川魚。全長約15cm。ハゼに似ているが、からだは細長く、うろこがな
い。日本全土の水のきれいな川にすむ。食用。マゴリ。ゴリ。
       ── 《新世紀百科辞典 19781005 学習研究社》P0323
── ごりごり 力を入れて摩(す)る音。固い物を噛む音。
→(擬音)? ── 新村 出《広辞苑・ 19660516岩波書店》P0838
 
── 東映との提携配給を解消した東宝は、/阪急資本による株式会社
宝塚映画製作所を資本金四五〇万円で創立し、昭和二六年八月からつぎ
の陣容で製作を開始した。社長引田一郎。支配人高井重徳。取締役白井
鉄造、平井房人、須藤進。監査役植村四郎、田辺節郎。
── 田中 純一郎《日本映画発達史 19760310 中公文庫》P041
*参太郎 P230 参照。
 
(20060109)


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