与太郎文庫
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1955年06月05日(日)  名人芸/発禁始末

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550605
 
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 名人芸
 
 高校では、新聞部やホザナ・コーラス、さらに文芸部から勧誘された
が、どれも気がすすまなかった。新聞部については、すでに中学時代に
興味が尽きていたこともあり、上級生の勧誘も熱意が感じられなかった。
ホザナ・コーラスの指揮者、中堀愛作(美術)教諭に「合唱コンクール
のキミはすばらしかった、ぜひ聖歌隊で活躍してもらいたい」とおだて
られ、きれいな女の子も少なくないから心が動く。しかし、どうせなら
男声合唱団(枯木コーラスは失敗したが)を結成して、ふたたび指揮台
に立つ野望もある。その場合、ホザナ・コーラスの現役数人をひっぱり
こむことになるので、態度を保留しておく。
 文芸部は、中学の内藤季雄(国語)教頭の強い推薦があったらしく、
数人の上級生が入れかわり説得にあらわれた。それぞれ秀才らしいが、
いまひとつ地味で活力がない。しかし、彼らはあきらめなかった。
 鎌尾武男(美術)教諭の推挙によって、掲載号の表紙も描かせると
いう条件に加えて、岡谷清子(現代文)教諭を通じて原稿を依頼する
という両面作戦をひねり出したのである。
 与太郎は、職員室に呼びつけられた。
「アンタなら、入学の感想文くらい、すぐ書けるでしょ」
「すぐには書けません、なにしろ名人芸ですから」
「フン、名人芸ネ。読むのが楽しみやネ」
 与太郎の思いあがりは、たやすく岡谷先生の手玉にとられていた。今
まで誰も書かなかったテーマとスタイルを開発しなければならない。
 
 通学電車を待っていると、向い側のプラットホームから、中堀先生が
なにごとか叫んでいる。両手をメガホンにしているが、聞きとれない。
「なんですか?」与太郎の方から近づくにも、電車の時間が迫っている。
 とつぜん先生は、プラットホームから線路に向って身を投げる。だが
何といっても御老体であるから、もんどりうって転んでしまった。
 まわりの生徒たちが助けおこしているところへ、与太郎も馳せつける。
「ダイジョーブ、大丈夫」先生は、元気に起きあがって与太郎に伝えた。
「キミの、《山脈》の表紙はすばらしかった」(なんだ、そんなことか)
「あれは、写生したのかね、それとも想像で描いたものかね」
「夜中に、描いたんですけど」
「そうか、たいへんよく描けていたので、ひとこと誉めようと思ってね」
 先生の意図は他にあるにちがいないが、ともかく絶賛された。
 
 しかるにこの掲載号は、表紙の題字が無断で差しかえられ、編集後記
も勝手に改竄されている。三年生・狩野光市君の独断らしいが、本文は
無傷だったので黙殺することにした。もともと招待作家の気分である。
 与太郎は、抵抗のポーズとして、ひそかに断筆し、卒業までの七号分、
表紙と後記だけを担当した。そして最後の論文《予算会議の反省》は、
学校新聞に寄稿している。   (Day'19870506-19981209-20000714)
 
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 数日後、金谷先生から封書が届き、全作品のくわしい論評が書かれて
いたが、問題の二作品については、エッセイ・随筆の分野であるとして、
除外された。文芸作品にあらず、とみなされたものか。(Day'19990104)
 その後、岡谷先生には芥川龍之介《鼻》の出題で模範答案を、さらに
夏休み課題《自叙伝〜教え子の消息》でも最高点を獲得する。
 “フクちゃん”こと下村先生の語録は、同僚教諭に関するものも多い。
 
── 一九六〇年に北京人民大会堂で郭さんにあったとき、わたくしは
「漢字は将来どうなりますか」とたずねた。郭さんは即坐に「永遠に保
存される」とこたえられた。わたくしはかさねて「どこで保存されます
か」とたずねると、郭さんは「博物館で」とこたえられた。
── 倉石 武四郎《漢字の運命 19520410-19730710 岩波新書》P189
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070101
 
 フクちゃんいわく、岡谷先生こそは紫式部と魯迅を原文で素読できる
達人であって、北京語の会話もできるという。
「名人芸ですから」などと吹いた手前、いまさら題名の語義を問えば、
こんどこそ鼻で笑われそうなので、いまださしおく。かわりに、小学生
以来の疑問である「貧者士之常」(のちに長岡藩々訓の一節と判明)に
関する質問をした。先生は即答して、漢文には「者」に「誰某」の意味
がないケースがあるという(英語の関係代名詞のような機能か)。
 それなら「貧しきは武士の常」と読みくだせば、意が通るのである。
 岡谷先生が、女性にしては手が大きい、と見えたのは実は弓道の達人
であり、中学の高島先生がナギナタであったことから、いずれおとらぬ
文学烈女として対比すれば、かたや有情の人であり、かたや無常に立つ。
 岡谷先生は、戦後の漢字教育を憂慮した京都支那学派・倉石武四郎を
尊敬し、いまや漢字の運命はパソコンの未来に委ねられている。
 
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 発禁始末 〜 背後の群像 〜
 
 発刊直後の文芸部合評会では、だれも発禁など予想していなかった。
三年生の鳥井雅子嬢に「するどい文章ね、題名はどうして決めたの?」
と尋ねられ「字引の“感想”のとなりに載ってたから」と答えると、
「こわいみたい!」といわれた。
 文芸部長の下村先生は、三つのポイントを挙げて「この作者は、まず
一種のポーズをとっている。これを完成された文章力でカバーしている。
したがって、この作者は将来マンネリに陥るであろう」と講評された。
なぜマンネリに陥るのか、ふしぎな三段論法だが、反論はしない。
 このとき先生は、諫争の語意を「争いを諌める」と説明されたように
記憶する。しかしそれでは、二者の争いを第三者が仲裁するようにとれ
るので、本文にそぐわない。
 左伝によれば、単に「死を覚悟して諌める」とあり、広辞苑でも「面
と向って諌めること。あくまでも強く諌めること」というふうに、争い
の語意はふくまれない。おそらく「諌めるために争う、諌めかつ争う」
と解釈され、論争=論じて争う≠争いを論じる、の用法であろう。
 
 そしてこの号は、体育教師を非難した河原満夫の文章が、後輩となる
中学生への影響を配慮するという理由で、発禁処分となった。正しくは
発売自粛を要請され、文芸部一同これを了承したのである。発行責任者
は文芸部長“フクちゃん”こと下村福(古文)教諭。
 
 “獲物をさがすけだもののような蛮声の体育教師”と描写されたのは、
毎号短歌を寄稿する文学青年・星野光司(筆名=美津次)教諭である。
前年の高校新聞に長女誕生の記事があり、このあと不倫スキャンダルが
ささやかれ、翌年退職して故郷の大分県に去った。
 いま、河原の《感じること》を読みかえしてみても、名門高校の体面
にかかわるような内容とは思われない。後輩の中学生に与える影響は、
その父兄に対する配慮であろう。集団カンニング事件を伝えた《諌争》
こそが発禁の対象ではなかったか。この筆者は、とがめられて黙りこむ
ような生徒ではない。温厚篤実で“オッちゃん”と呼ばれる河原なら、
文芸部とは関係がないので、発禁となっても反発の拠りどころがない。 
 このように、一転して対象をすりかえるのは、巧妙な処置であって、
かくも高度な政治的判断が、職員会議で生まれるわけがない。
 与太郎に“何も知らぬ間抜け”と評されたのは、新聞部長・宗教部
・ESS顧問などを兼任する、猿橋庄太郎(時事問題)教諭である。
一説に東大卒をハナにかけた官僚主義者であるという。あるいはまた、
翌々年に校長となる“カンちゃん”こと高橋勘(数学)教頭との共謀で
はなかったか。与太郎が四年後、就任直後の校長に大枚九万円の借金を
申しこみ、即座に承認されたのも、大人社会の取引感覚ではなかったか。
 
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 カンちゃんの決断(その2)参照/P074&別稿
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20010308
 シンフォニエッタ序章 〜 器楽部中興史 〜
 
── 【諫争】面と向って諌めること。あくまでも強く諌めること。
  ── 新村 出・編《広辞苑・第二版 19711118 岩波書店》P0498
 
── かんそう(‥サウ)【諫争・諫諍】良くない点を忠告し改めさせよ
うと争うこと。臣下が直接主人に向かっていさめごとをすること。
── Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition)
 
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(20090506)
 


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