与太郎文庫
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1954年04月27日(火)  旅のしおり 〜 余太郎の出処進退 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19540427
 
 なにやら毎日がいそがしい。いつものようにセカセカ歩いていると、
図書委員の吉田肇君に呼びとめられた。
「河原が、お前のこと探しとったぞ」
「そうか、図書室かな。いますぐ行くわ」
「お前、いそがしそうに歩いてたけど、別に行くとこなかったんやろ」
 ゴリの皮肉は相当しんらつだが、ときに図星のこともある。
「こんど、地歴部でね」河原満夫君は、おだやかに用件をきりだす。
(河原とゴリが、どうして仲良しなのか、ふしぎでならない)
「修学旅行のしおり、というパンフレットをつくる。協力してくれんか」
「協力してもええけど、なんで地歴部が出すんや」
「なんでか、恒例になってるらしい」
「ガリ版は、ここちょっといそがしいから無理や」
「印刷は、専門の人にたのんだらええ。編集のしごとを、まず君が中心
になってもらいたい。ぼくら地歴部員がそれを手伝う」
「なんや話がアベコベみたいやな、君は地歴部長になるんやろ」
「ぼくは、しろうとやからね。編集は、きみのほうがくろうとや」
 彼の悠揚せまらぬおだてに乗って、最初の編集会議に出ると、
「なんで、アワがここに居るねん?」
と寺尾宇一郎君が異議を申したてるので、議長役の河原が説明する。
「彼に、編集のリーダーをやってもらいたいと思う」
「おい河原、それは議長の独断やないか」
「いや、みんなも賛成してくれる思うとったんや」
「俺は反対や、地歴部のしごとを新聞部にたのむのは気にいらん」
「わかった、おれは参加しない。河原に手伝うてくれいわれたけども、
修学旅行のしおりは、たしかに地歴部だけでできるはずや」
 翌日、高島春江(国語)先生に呼びとめられた。
「アワくん、やりよし。地歴部の子だけやない、センセも賛成や。遠慮
せんと、やりよし。立派な本ができたら、ほかの生徒もよろこびはる」
「ほんなら、やります。修学旅行は、みんなが行くもんや」
 寺尾君に会って、
「やっぱり、おれにやらしてくれんか」というと、
「やったらええがな。俺はな、実は修学旅行には行けへんかもしれん」
「なんでや」
「盲腸の可能性がある、いわれたんや。医者は行ってもええ、いうのに
先生がアカンいいよるねん。これ、サカサマやったら行けるのになあ」
「そうか、旅先で入院したら、先生も困るやろな」
「そやから、旅のしおりは、俺のかわりに君が地歴部に入って、やって
くれ。俺は、行けもせん旅行のしおりなんか、つくる気にならん」
 
 こういうわけで、彼の名は、目次にも編集後記にも記されていない。
 いま思えば、彼に編集だけでも参加させるべきだった。
 


 
 旅のしおり
 
 表紙        ……………………………………… 3C 阿波 雅敏  -8
 目次        ……………………………………………………………… -7
 讃美歌 十一番/二二四番/二六二番/二八八番/四五七番/頌栄五六八番 -6
 とびら       ……………………………………………………………… -2
 旅程表       ……………………………………………………………… -1
 関東旅行 地図   ………………………… 3D 平井 文人/竹田 幸弘  0
 東海道汽車の旅   ………………………………………  3C 大浦 猛   1
 短歌        若山 牧水 ………………… 解説 3C 河原 満夫  7
 富士山と富士五湖  …………………………… 3C 細井 武/上尾 豊三  8
 詩         金子 光晴 ………………………………………………  11
 富士・富士五湖附近 地図 ……………………………………………………… 14
 箱根        ……………………… 3A 長谷川 雄一/埴田 智   17
 箱根国立公園附近  地図 ……………………………………………………… 21
 江ノ島・鎌倉    …………  3B 遊津 寿子/星野 栄子/中谷 曜子  22
 東京        ……  3C 祖父江 重剛/笠原 信男/上田 魏二郎  26
 東京中心地概略   地図 ……………………………………………………… 30
 日比谷交叉店上空から 有楽町・銀座・築地あたりをのぞむ ……………… 31
 編集後記      ……………………………………………… 阿波 雅敏  32
 修学旅行写真展 作品募集  ……………………………………………………  33
 
── 《旅のしおり 19540427 同志社中学校 修学旅行委員会》版芸舎・印刷
 
19540427 10:00  京都駅正面東寄広場集合 
19540428     箱根 小湧園
19540429 16:00ca 東京 章文館
19540429     東京 つたや
 

 
 金谷常延氏の奥さんから、印刷代金のうちリベート二千円を渡される。
 中学生の身分で、いわば公務として発注したことであり、受けとって
よいかどうか、むずかしいところだが、先生兄弟が相談の結果であろう
と解釈しておく。一方の解釈は、すでに与太郎は各種の印刷物を請負い、
定期的に法人の株主総会議事録など、いっぱしの経済活動もしていた。
 しかし、このときの判断は、いまもゆらいでいる。
 
 翌年も公安委員に選ばれたが、新聞部に専念するため辞退する。残る
一年、生徒会執行部には距離をおいて、いわば野にくだった。
 新聞部長・編集人となっても、実際に紙面を統括するのは顧問の先生
であり、わずか春秋二号の断片的な原稿を割りあてられるだけである。
図書委員会と宗教部で、それぞれ広報紙を創刊して、しばしば座談会を
もうけ、出席者として自由に発言するほうが、はるかに合理的であるこ
とが分った。
 公安委員長には、当初から本命であった吹田秀雄君が就任している。
彼は、高校に進んでから選挙管理委員長をつとめた。
 中学時代の友人は、地歴部・図書委員会のグループと、宗教部・執行
委員会のグループに分離していたが、そのおおくは高校にすすんでから
文芸部・器楽部いずれかに関連することになる。
 しかし、河原満夫・内村公義・木村祥子など、純粋培養の秀才諸君は
将来の職業が限定されていたためか、結果的に受験グループに属して、
疎遠にならざるを得ない。
── 《虚々日々 20001224 阿波文庫》P46
 
(20090430)
 


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