与太郎文庫
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1916年03月05日(日)  アイーダ大行進 〜 京大人品研究所 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19160305
 
 バー・ロジェは、はじめ若いホステスの高校時代の恩師が毎晩かよい
つめていたが、大学教授が増えて、学者酒場となった。手狭になって、
京大人品研究所河原町出張所から祇園支店へ移転・昇格したのである。
 
 なかんずく京都大学人文研究所の会田雄次教授は「港々に女あり」と
評されるほどの粋人であった。ロジェの常連客としても花形である。
 その夜は、多田道太郎教授と来られていた。
 
 店が混んできたので(甘太郎は)両先生を他の店に誘ってみた。
 ママに「ミヤさんを連れてってもええやろ」と云うと、二人の女は、
正反対の反応を示した。ママは渋い顔で、ミヤさんは笑顔になった。
 
 いま思うに、ふたりとも会田センセに惚れていたのである。
 もちろん、ママとホステスが店を抜けだすわけにはいかない。
 かといって「店が忙しいから、アカン」といえば角が立つ。
 
 ママの判断は、甘太郎よりも会田センセイの顔色にかかっていた。
 しかるに、センセイは甘太郎案に同意して、にこやかである。
 つまり、ミヤさんを連れてあるくことに、同意されていたのだ。
 
 ママは面白くないが、しぶしぶ承知しなければならなかった。
(甘太郎が、ママを誘っていたら、喜んでついてきただろう)
 ともあれ、甘太郎は両先生とミヤさんを連れだすことに成功した。
 
 まずは祇園のクラブ・紺に向かう。ちょっと高めで、ちょっと下品な
ので、粋人には程よい息ぬきになるはずだ。
 甘太郎のわがままが通る、希少な店である。
 
 甘太郎が、初めて流しのギターにあわせて歌ったのも、この店である。
 最初は気どって《波浮の港》など歌ってみたが、いちばんウケタのは
「銭のない奴ぁ俺んとこへ来い」だった。
 
 四人の客に、たちまち女どもが群がって、大騒ぎになった。
 たいがいの店は、女づれだと嫌われるが、この店ばかりは平気なのだ。
 さいごにママが、気前よく襟元をはだけて、オッパイを見せてくれた。
 
 いま思うに、さすがにここまではサービス過剰ではなかったか?
 しかし、甘太郎もさるもので、すかさず音たてて吸いついてしまった。
 二人の初老も、うらやましそうに、大口をあけて笑ったものだ。
 
 こんなことは、年がら年中あそび歩いているからこそ、年に数回ある
かなきかの僥倖である。年に数回しか遊ばない連中にとっては、想像も
つかぬ酒池肉林である。
 
 大いに気分が盛りあがったところで、同じビルの舶来居酒屋いそむら
に移動する。ここでは、マスターのいそやんが眉をしかめた。
 はじめてミヤさんの笑い声を聞いた者は、誰もが眉をしかめるのだ。
 
 おまけにマスターは、甘太郎をこころよく思っていないフシがあり、
両先生の顔を立てただけかもしれない。
 後日、いそむらのツケが、甘太郎に回ってきたことが判明する。
 
 三軒目は甘太郎の知らない店で、女っけのない代りに、勘定高そう
な和風酒場だった。ここで会田先生のボトル(サントリー・リザーブ)
が切れたので、酔ったいきおいで甘太郎が署名したのである。
 
 この件は、虚々日々「然かざりき」に詳述したように、新字体で書い
たため「おかしな書体で書きよって」と、たしなめられたのだ。
 先生の本心は、お前が署名するなら、お前が払うのか、というものか。
 
 甘太郎は、それほどケチではないが、三軒まわって三軒とも払うのも
失礼だと思うので、おとなしく署名などしなければよかったのだ。
 おまけに、先生は、実は甘太郎が何者かご存知でないかもしれない。
 
 あとでミヤさんに「先生は、おれのこと知らんのちゃうか?」と聞く
「ちゃんと知ってはるわいさ」と答えてくれたが、あやしいものだ。
 それはそれで、それぞれの心に刻まれる夜遊びの記憶になった。
 
 いっぽう、ママに「三軒のうち二軒も払わされたで」と云うと、彼女
は何かかんちがいしたらしく「ほなら、わたしが払うわ」と答えた。
 大事な先生を勝手に引っぱりまわして「なにさ!」と思ったのだろう。
 
 そのあたりの、もやもやした女心は、甘太郎にも分らぬわけではない。
 いささか彼女に悪いことをした、という殊勝な気分として残った。
 そういうあとで、河原町から祇園への移転話が、ふってわいた。
 
 きけば、その場所は、クラブ・紺といそむらの入っているビルの隣に
なるらしい。勝きぬの知りあいで、天麩羅屋を始めるついでに、ビルを
新築したので、二階をそっくり酒場にするというのだ。
 
 そこで甘太郎は、案内状や封筒やマッチなど、一通りの印刷物を引き
うけてやった。常連客が引きうける場合は、代金を請求することもあり、
請求しない場合もある。要するに現金のやりとりはしないのだ。
 
 もうひとつは、ほとんどの常連客は、資産の有無にかかわらず、つけ
を溜めていてこそ一人前である。いつも現金で払う客は律儀なだけで、
肝心なときに「助けて」といえる甲斐性がないから、格式が低いのだ。
 
 いよいよ店の移転が迫ったころ、甘太郎はママに電話をかけた。
「ぼくのツケは、なんぼくらいや?」「カタテ、ぐらいやな」
 不案内な人は、どうして彼女が即答できるのか、不思議に思うだろう。
 
 当時のカタテ、とは5万円。25才の標準の月給なら二月分、50才
の平社員の一ヶ月分に相当する。この概算方法は(1965年ごろ)甘太郎
が編みだしたもので、一歳あたり千円とみなす。
 
 移転にさきだって、若いホステスが独立することもあった。
 そこで甘太郎は、気前よく彼女に行った云った。
「よーし、ぼくのつけをぜーんぶ君の店にプレゼントしよう」
 
 当のホステスは即座に「要らんわ、そんなもん!」と断わった。
 ママは「そやなぁ、若い店に、みんな取られるかもしれんなぁ」と、
感慨深く反応している。
 
 そして、甘太郎は十万円をつつんで、古手のホステス(カウンター)
にことづけた。「これ、ママに渡しといてくれ」「はいはい」
 偶然ママの留守に封筒を渡すのは、ちょっとしたスリルがある。
 
 一つの可能性は、受取も領収書もないのだから、古手の彼女が棒先を
切るかもしれない(京都弁ではチョロマカス、などという)。
 もう一つは、他のホステスに知られて、見せびらかすように思われる。
 
 ひとつ間違えば、とても野暮な誤解を生じる、きわどいやりとりだが、
このときは何もかもうまくいった。彼女は、他のホステスにそしらぬ顔
で預かってから、ママに渡したので、甘太郎の真意が伝わった。
 
 このときばかりは、心をこめてママが感謝してくれた。
「他の客は、あやこや云うばっかりで実がないけど、あんたは違うたな」
 ここぞという金の要りようは、商売をする者にしか分らないものだ。
 
 数ヶ月もたって、新しい店が落ちついたころ、何も知らされていない
はずのミヤさんが、はじめてこう云った。
「ママが、誰や思うて聞いたんや。つけの二倍も先払いしてくれたんは」
 
「誰や、そんな奴は」と、甘太郎もとぼけて聞きかえした。
「えぇとこあるな、あんたも」と、ミヤさんはほめてくれた。
 もちろん、さきの印刷代など、いっさい請求することもなかった。
 
 はじめて新しい店に、楽器屋の課長と、ヴァイオリン教室の先生とを
案内したのは大失敗だった。仕事の話のつづきで遅くなったので、酒を
酌み交わす仲間でなかったからだ。
 
 やがて「もうそろそろ」と、遠慮がちに催促されるようになった。
 羽振りが悪くなって、つけが溜まりはじめ、さらにはママも背に腹を
代えられなくなったのにちがいない。
 
 ミヤさんが「カメラを月賦で買いたい」といいだした。
「カラダで払うてもらうで」と冗談をいったが、羽振りが良ければタダ
でくれてやるところだ。もはやこれまで、とっくに潮時がきていた。
 
(20060927-0928)
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19970917 
 敗者の条件 〜 アイーダ先生との対話 〜
 
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 幻の酒場 〜 甘太郎行状記 〜
 
(20070404)
 


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