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■ 【エッセイ】 命 〜生きていると言う事〜
命と言う物には哀しいかな、必ず終焉がやって来る。
「運命や寿命なんてある程度最初から決まっている物なんだよ。神様が描いた筋書きを、僕等は試行錯誤しながらも、素直に歩いているだけなんだ・・・・・・」と友人が言った。 確かに私もそうも思う。
性格やある程度の生き様は、自分の意志で変えようと思えば変えられる気はする。でも、死因は何にせよ、その時期はきっと決まっていて、神のみぞ知る事なのだろう・・・・・・。
大切なのは【命の長さではなく、どれだけの愛しい時間を持て、どれだけ愛しい時間を感じながら生きて来られたか・・・・・・】なのだと私は思っている。
例えば終焉を迎えそうな一つの命があるとして・・・・・・。 それを愛して来た者達は、愛おしみ、哀しみ、嘆くのは当然の事である。 その命の灯を一番消したくないのは、当事者よりも、むしろ周りの者なのかも知れない・・・・・・。 私は何度となくそう言う場面に直面し、その都度考えて来た。
勿論誰もが愛する物との別れは辛い。 誰だって愛しい物にはずっと側に居てもらいたい。 その者の顔も見れなくなる、声も聞けなくなる・・・・・・。そう思っただけで気が狂う。 でも、苦しんでいる姿を見ているのはもっと辛い。
【生きている】と言う事は、身体の苦痛がなく、物を美味しく食べられ、行き先に何らかの希望や楽しみが持てる・・・。そう言う事ではないのだろうか・・・・・・。 だからこそ皆、生きたいし、生きようとするのだ。 でも、もしも、その先に、ただただ呼吸を繰り返す事や、苦痛や、辛い治療のみが待っているとしたら・・・、それでも近い将来、必ず終わりが来るとしたなら、私の場合なら、治療なんかさっさと止めてもらって、早く眠りたいし、眠らせてもらいたい・・・・・・。 (肉体的苦痛だけは取り除いて欲しいが・・・・・・) 一年が例え3日になっても構わない。いや、たった数時間でも良い。
希望が持てるうちは希望が有るからこその我慢も出来る。 でも、もしもそれが不可能だと解ったら、愛しい者達との愛しい時間を、できる限り多く持ち、幸せな中で召されたい。 無理な延命はもしかして、周りの者達の勝手な思い込みによる無駄な道徳心のエゴであり、ただ単に本人を苦しめる時を増やしているだけなのかも知れない・・・・・・。
大切な命に諦めを見せる事(治療を止めると言う事)は、ともすれば、冷酷だと思われるかもしれない。 その判断は実に難しい事なのだ。 でも、諦めるのではなく、大切な命の終焉だからこそ、その本人が一番喜ぶ形にしてやりたいと思うのは間違いなのだろうか・・・・・・。 何が何でも命を延ばすことだけに専念すべきなのだろうか・・・・・・。
私には解らない・・・・・・。 いま尚、この問題に関しては難しすぎる。
今そんな苦しみの真っ只中に喘いでいる一人の親友が居る。
無論私も皆も、諦めるな! 祈りつづけよう! と励ましてきた。 昨日の昨日まで、励まし続けて来た。今でもその気持ちを捨てきれないでも居る。 でも・・・・・・、その言葉の裏で、私は考え反省する。 本当に当事者にとって、治療を続けることが一番の手段なのか・・・・・・。と。 できる限りの手を尽くす事は勿論大事な事であり、必要な事だろう。 一つの可能性でも残されている内は試してやりたい。 でも、それが延命の為だけの治療になってしまうとしたら、ただ単に励まし続けている事が・・・、折角の善意が・・・、自己満足に摩り替わってしまう瞬間になってしまうのではないか・・・・・と思い始めてきた事も又事実なのだ。
もしも間近に命の終焉がきているのだとしたら、当事者はそれを拒み、きっと愛する者たちとの良い時間を少しでも長く取り、神様に抱かれたいのではないかと思えはじめてしまったのだ・・・・・・・。
私には解らない・・・・・・。 本当に、本当に、難しい問題だ・・・・・・。
みそひともじはお休みします。
2004年02月06日(金)
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