KENの日記
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2004年10月30日(土) ムンバイの拝火教徒の歴史

ムンバイのゾロアスター教徒の歴史について少しまとめてみました。(ちょっと長いかな)


ムンバイ市には数万人程度の人口を持つ「パルシー」(ペルシャ人)がいます。彼等の宗教はゾロアスター教(拝火教)。世界全体でも10万人程度の信者の数なのです。その中でインド全国で6万人強の信者がいるそうです。


ムンバイはその半分以上が住んでいて、ムンバイは世界中でゾロアスター教徒が最も多く住む都市なのです。ゾロアスター教徒の伝統では、男性が非ゾロアスター教徒の女性と結婚すると、生まれた子供達はゾロアスター教徒となるのですが、逆の場合はゾロアスター教徒になることは許されないのだそうです。今は移民等で外国に行き他の宗教に変る人もいて、他の宗教の男性と結婚するゾロアスター教徒もいて、ゾロアスター教徒の数はどんどん減っているのだそうです。


そういう関係で、ムンバイ市には近郊地域も含めて47の拝火教寺院があります。それは全世界の40%にあたるそうです。寺院には他の宗教徒は決っして入れません。インド10億人の7割程度を占めるヒンズー教徒もこの中には絶対に入れません。ゾロアスター教徒の宗教儀式は他の宗教の人達には、全く「なぞ」なのです。聖なる「火」を祭るといわれる「ゾロアスター教寺院」に加え、「鳥葬」が行われる「沈黙の塔」がひっそりとですがムンバイには存在しています。一見するとただの丘ですが、ムンバイの「沈黙の塔」は一等地の住宅地の丘の森の中にあります。


「ゾロアスター」という人ですが通説では紀元前6世紀頃に「神の言葉」を伝えた者とされています。ニーチェの「ツァラツストラは斯く語りき」とか、R・シュトラウスの同名の交響詩、さらにモーツアルトの魔笛に出てくる「ザラシュトラ」。「ゾロアスター」はその名前に響きの不思議さも手伝って、ヨーロッパで不思議と取り扱われるのことが多いようです。宗教の考え方はどんなものか・・・・これはこれからもう少し少しずつ勉強しようと思います。


「ゾロアスター教徒がインドに来るまでの歴史」
ゾロアスター(拝火教)は最初はカスピ海東部地域で発生したようですが、歴史に登場するのは、紀元前6世紀に成立した「アケメネス朝ペルシャ」の時代だとのことです。この王朝を築いた「キュロス大王(Cyrus the Great)」は非常に寛大で名君であったとのこと。この王朝の下でゾロアスター教はイランを中心に中東全般に広がっていったようです。


キュロス大王(こちらではサイラスと発音しています)はバビロンを征服しユダヤ人を解放したことに加え、奴隷を解放し、人類最初ともいえる「人権憲章」を作ったのでした。この碑文の書かれた円柱が1879年に発見され、本物は大英博物館に所蔵さ、レプリカがニューヨークの国連本部に置かれているのだそうです。


アケメネス朝ペルシャの支配地域は、エジプト、ギリシャから中東、カスピ海東部、インダス川西部に及ぶ広大な地域でした。政治と宗教の関係が詳しくはわかりませんが、宗教にかんしてはかなり寛大であったとことが想像されます。そんな環境の中ゾロアスター教も多くの宗教の中でひとつであったと思われます。ここでゾロアスター教は「アフラ・マツダ」を唯一の「神」とする「一神教」であるという点は、ユダヤ教が一神教であるという点と共に非常に重要でしょう。(自動車のマツダという名前もここから由来しています)


このアケメネス朝ペルシャでは、ダレイオス一世の時代に最も隆盛します。この王は有名なペルセポリスの都を建設したことで知られています。そしてダリウス3世の時代(紀元前4世紀)に新興国マケドニアの英雄アレキサンダー大王に破れ(イッソスの戦いBC333)、衰退の道を歩むことになります。


その後アレキサンダーはエジプトをも征服し「アレキサンドリア」を建設しペルシャの都を破壊しました。しかしアレキサンダーの死後、この地域は混乱することになります。一方、ヨーロッパはペルシャから多くの有形・無形の宝をヨーロッパに持ち込み、先進地域のペルシャに追いついていきます。そしてペルシャが混乱している間に、ローマ帝国がその帝国範囲を急拡大していくのです。


アレキサンダー大王死後の中東地域は数百年間混乱します。バビロンから開放された「ユダヤ教」、そしてゾロアスター教が広まりますが中小国の成立・破壊の世の中で宗教もまた混乱していたことが想像できます。そして「イエス」の誕生を迎えるのです。キリスト教誕生に、ユダヤ教と並んで、ゾロアスター教が大きな影響を及ぼしていたことが想像されます。


その後中東地域全体を統一したのはササン朝ペルシャ(3世紀)でした。キリスト教が西のローマ帝国に拡大していったこととは対象的に、このササン朝ペルシャで支配的な勢力となったのがゾロアスター教でした。ササン朝ペルシャでは支配的な宗教と扱われたようです。一方拡大したローマ帝国はビザンチンに拠点を置く東ローマ帝国がキリスト教を国教として成立していきます(4世紀)。


ササン朝ペルシャとビザンチン帝国の対立が続いていた時代に、7世紀、アラビア半島に「マハメッド」が現れてイスラム教が創始されます。イスラム教はモハメッドの近親者を子孫を通じて急激に中東全体に広まっていきました。それらの国ではイスラム教の伝道者(カリフ)が王となるわけですが、そうしたカリフの中から有力な王が出現しました。そんな中でも「アッバース朝」は有力で現在のバグダットの地に都を建設しました。


このアッバース朝衰退の後に中東地域、イラン地域を支配したのがセルジュクトルコ朝でした。ササン朝ペルシャの衰退以降、中東イラン地域は次第にイスラム教の影響が強くなっていきます。そうした状況の中でゾロアスター教徒たちは次第にイスラム教の飲み込まれていったものと思われます。11世紀のイランの詩人「オマール・ハイヤーム」の有名な詩にもゾロアスター教のことが出てきます。彼はイスラムの詩人とされますが、彼を隠れたゾロアスター教徒だとする説もあります。


そしてイスラム支配に耐えかねた少数のゾロアスター教徒がイランを出てインドに向かいました(11世紀)。この「イラン脱出」のことはゾロアスター教徒の中では非常に重要な叙事詩となっているとのことです。ここで注目すべきは、ゾロアスター教とヒンドゥー教が非常に似ていたということです。二つの宗教はともに紀元前3000年頃、カスピ海東部地域に発生し、ゾロアスター教はイラン方面に、ヒンドゥー教はインド方面に広まっていったもので、元は共通するものがあったようです。


困難な旅路を乗り越えて、イランを逃れたゾロアスター教徒はインドのグジャラート地方の定住しました。この時のインドの王との出会いは有名なものとして語り継がれています。


インドの王様は漸くインドにたどり着いたゾロアスター教徒に、コップに注いだミルクを差し出して、「インドは貴方にミルクを提供して迎えるが、貴方はインドに何をしてくれるのか」と問いただしたのだそうです。ゾロアスター教徒はそのミルクを飲まずに、そこに砂糖を加えて混ぜ合わせ、王様にそのまま差し出したのだそうです。


この話はインド10億人の社会で生き残っているゾロアスター教徒の生き方を端的に現しているようです。そして時代は17世紀イギリスのインド経営の時代になります。グジャラート地方に居たゾロアスター教徒たちは、イギリスが建設し始めた「ボンベイ」に移り住み、支配者イギリス人と良好な関係を築いていきます。その中からインドを代表する財閥の「TATA」家などが出てくるのです。


こうして外観してみると、非常に興味深い宗教であり、人々であることが分かります。




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