Miyuki's Grimoire
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2005年08月31日(水) 極楽浄土

先週、青森恐山に行って来た。イタコや死者の霊がいる山として知られていて、こわい場所という印象があるかもしれないが、実際に着いてみると、山の上の聖地といった感じで、山も谷間の湖も、たいへん美しい場所だ。人も少なく、シーンと静まり返った空気はまるで浮世離れしていて、結界が張られたように波動が高い。ここはあの世、まさしくあちらの世界といった印象だ。

このあたりでは「人が死んだらお山さ(恐山に)行く」という、古くからの言い伝えがあるそうで、恐山は土着信仰の中から生まれた霊場だ。そんなお山に、菩提寺はあとから出来た。巨大な菩提寺のなかに山があるという造りになっていて、一体化してはいるものの、山とお寺は別物で、まったく違うエネルギーの中で共存しているように感じた。山を一回り歩いてみると、岩山にわき出している温泉と硫黄ガスが浄化のエネルギーを出しており、山は素晴らしく清められている。まるで極楽浄土という雰囲気そのもの。美しい湖の砂浜は、極楽浜と呼ばれている。観光客も少なく、とても静かで居心地いい。瞑想するには最高の場所だ。お寺には宿坊があり、わたしはこの波動の中で過ごしたかったので、宿坊に泊まることにした。温泉も魅力的で、宿泊客はわたしを入れてたったの4人だったので、いつ行っても大浴場も外の湯小屋も独り占めだった。

お寺の早い夕食後、まだ明るかったので山で瞑想し、宿坊に戻ると、ちょうど講話の時間ということで、ドアが開いていたのでなんとなくホールに入ってみた。誰もいない。そこへ紫色の袈裟を来た寺のお坊さんがやって来た。わたしは、一人で講話を聞くことにした。

「大祭の時は、行商みたいな大きな風呂敷や、リュックサックをパンパンにして、お年寄りたちが山のような供物を持ってきて、山に置いて行きます、、、クッキーにおせんべいにチョコレート、お酒やジュース、洋服や、遺影なんかもあります、、、あと、お人形、亡くなった娘さんの嫁入り人形なのか、さすがに人形は、、、(笑)霊が汗をかくってんで、タオルを木に結んでいくんですけど、木が遠くからみたら真っ白でまるで幽霊の白樺で、、、それらを全部、私たちがまぁ処分するんですが、、、焚き上げるわけですが、それが1回や2回じゃすまないのでこれが大変なんですわ」

やっぱり。山で感じたとおり、土地の人の信仰とこのお寺は、エネルギーとしてはまったくつながりがないようだ。お坊さんは続ける。

「大祭の時はね、イタコが外で営業してます、、、これが行列の出来る人とまったく出来ない人がいまして(笑)、、、ある訪れた人が、いまのはまさしく自分の父親だったと言って泣いたとか、そんな話もあります、、、いえね、わたしは別に霊魂があると言っているわけではないんですよ、ただそういう事実があったと言っているだけです、、まぁ、イタコも人が来ないと言葉は悪いが商売にはなりませんから(笑)、、、いまどきは、テレビとかで細木某とか、俳優の丹波某とか、スピリチュアルカウンセラーっていうんすか、江原某という人が霊魂についていろいろ言っていますが、みんな生きている人間がそう言っているだけですね、、、だって、死んだ人が喋るのを、これは誰も聞いたことがないんですからね、、、クックック(笑)、禅宗では、霊魂があるとかないとか、そういうことを論じること自体が無意味だと言っているんです、、、そんなことよりも、いまの人生をよりよく生きるほうが大事だ、と」

扇子を開いたり閉じたり叩いたりしながら落語調で話すので、なんとなく、ネタを聞いているようだった。さらに話は続く。

「人間というものはですな、、もともと人間の本質なんてものは持って生まれてこないんじゃないかと思いますね、、、インドでオオカミに育てられた少女がいたんですが、オオカミに育てられたら人間はオオカミになるんです、人間ではなくなくなってしまうわけです、オオカミそのものです、、、人間は人間の中にいて初めて人間になるということですな、、、」

「はぁ、そうなんでしょうか」思わず聞いてみる。

「そう、人は、人生の目的とか自己実現とか言っていますけれど、人間は親を選んで生まれることもできなければ、生まれる前の記憶もない、それでいて人生の目的と言ったって、どこに根拠があるんでしょうか、、、もし人生の目的があるというのなら、生まれる前の記憶を教えてくれないと、これは実に狡いというものです、、、あなた、そうは思いませんか?」

ちょっと引っかかったので、再び聞いてみた。

「あの、、人間は、人間の本質を持って生まれてこない、とおっしゃいましたか? 仏教ではそう教えているのですか?」

パチンと扇子を叩く音がした。お坊さんが答える。

「こう言っちゃなんですが、仏教というのは、ある意味とてもネガティヴなんですよ(笑)、、、人間が人間としての本質を持って生まれてきているとしたら、母親が子供を殺したりするようなことは起こらんでしょう、、、母親は子供を生んで、子供を育てていくうちに母親らしくなるのであって、母性本能というものがあるわけじゃないんです、、、人間は人間のモラルの中で生きていくから人間になるのですよ」

考える間もなく、言葉が口をついて出た。

「あの、、わたしは親も選んで生まれてくるし、魂もあると思うんです」

「でも、それを証明することはできないでしょう、霊魂があるなら、あの木に結んだタオルは汗で濡れているはずです、、、霊魂があるのかないのか、なぜ人間が生まれる前の記憶を持っていないのか、そのようなことを人間が考えたり、論じたり、教えたりすることは、これは不可能というものです、、、あのタオルで霊魂が汗を拭いていると思いますか? いくらなんでもそれはないでしょう(笑)」

お坊さんは笑っていた。わたしは言った。

「それは・・・ある、と思います。生まれる前の記憶はありません。生まれるときに全部忘れているから」

「では、誰がそれを教えてくれるというのです?」

「人から教わることではない、自分で見つけるのだと思います」

「ほう、、、信仰深いんですなぁ、、、オッホッホ(笑)」

いろいろな意味でとても考えさせられる話だった。

オオカミは家畜を食べるからと日本でもアメリカでも駆除された動物で、日本では絶滅してしまった。オオカミは害である、オオカミと人間は意志の疎通ができない、オオカミは人間を襲い、家畜を襲う、愛のない動物だ、と人間に憎まれていたオオカミが、実際は人間の子供を自分の子供と区別せずに育て、オオカミに育てられた少女は、四つん這いで人間よりも速く走ることができ、オオカミと同じものを食べ、オオカミと一緒に寝て、オオカミのように考え、オオカミと意志の疎通ができたのだ。「人間の本質」という言葉は人間らしいという意味だろうが、何をもって人間らしいと言うのだろう。それは人間はこうあるべきという概念から来ているのではないか。それらはすべて、人間の作った制限であり、人間はそれを超えることができるということ、そして、制限をなくしていけばいくほど、本来、人間に不可能なものは何もないということがわかってくるのではないだろうか。

人間の世界には、家や、時代、文化、宗教、民族的な背景から、地域や組織、国、世間一般の価値観、様々な概念などが複雑に絡み合い、いろいろな制限、習慣、ルールが存在している。それらは、心のなかでひとつのパターンを作り、心の動きはその枠からはみ出るということはほとんどできなくなっている。自分は自分だけの世界、宇宙を創り、その中で生きているのである。しかし、人間は一人で生きて行くことは出来ない。自分の世界、宇宙のなかで生きて行きながらも、他人が作った世界、宇宙と交流しながら新しい世界、宇宙を日々創造しているのだ。お互いのエネルギーがどれだけ深く交われるかは、自分の世界、宇宙へのこだわりをどれだけ手放せるかということに関係している。わたし自身を振り返った時、こだわりや執着をどれだけ捨てて無になれるのか。お坊さんは、わたし自身の心の映し鏡を演じてくれたのだと思った。「真実はお前の心の内側にある、それを育てて行くのもお前だ」、大いなる自己が心の中から訴えていた。

人は自分以外のいろいろなエネルギーを身につけて生きている。国や社会、組織や、家、恋人などなど。そう考えると、誰にも、何にも頼らず、依存せず自分は自分の足でしっかり自分の道をゆく、生きてゆく、自分はいつどんなときも自由なのだと言えるように、心を解き放っていこうと思った。



miyuki