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No-Mark Stall *




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献血と睡眠導入剤。 | 2008年05月13日(火)
時計の秒針がかちこちと無音の夜を刻んでいる。
気分によっては耳障りに感じるその音を聞き流し、奏瀬はベッドにだらしなく寝転がりながら小説を読みふけっていた。
中盤の盛り上がりに差し掛かったところで、不意に上から声が落ちる。
「……タチアナ」
「なーに?」
それはどこか遠慮がちな色を残す、腰に響くような低い美声だったが、しかし奏瀬は本を繰る手を止めることなく平然と先を促す。
「そろそろわたくしはお腹がすきました」
「私まだ寝たくないでーす」
いつの間に現れたのか、ベッドの脇に申し訳程度に腰を下ろした長身の青年は奏瀬の返答に困ったように首を傾げた。
「いやもう本当お腹ぺこぺこで、あなたがこう、輸血パックの山に見えてきます」
「ニコはまずそうよね。なんか骨みたい」
ニコと呼ばれた青年は、弱々しい苦笑を浮かべて奏瀬を見やる。
金とも銀ともつかぬ色をした髪に、奏瀬にとっては舞妓の化粧を思わせるような真っ白い肌、それに贅肉どころか必要な筋肉すら足りていなさそうな痩身は幾ら顔の造作が整っていようと美しさよりも不気味な印象を与え、確かに白い骨を連想させるような容姿だった。その白さとは対照的に纏っている服は上着からシャツ、それにネクタイに至るまで真っ黒で、ただ鮮やかな深紅をした瞳と唯一健康そうに見える赤くふっくらとした唇以外には色味もない。
「それで、タチアナはいつ寝るんですか」
「そんなにお腹空いてるの?」
「ぺこぺこです。とってもぺこぺこです」
明らかに白人の見た目をしているニコの年齢を推し量ることはアジア人の中に育った奏瀬には難しいことだったが、それでも二十代以上ではあるだろうと判断できる頃合の、怜悧な美貌の青年が「お腹ぺこぺこー」としつこく訴える様はとてもではないが見ていられないもので、彼女は仕方なく本を閉じた。丁度面白くなってきたところだが、自分の中の美青年に対する幻想がこの男のせいでこれ以上壊されてゆくのは耐えられない。しかもこの表現を教えたのが自分ときては尚更である。
「わかったわかったわかった、わかったからちょっと待って。その辺で正座の練習でもして待ってなさい」
「はいっ!」
ぱっと顔を輝かせた青年は、満面の笑みを浮かべてベッドの上に正座した。
この前の記録は五分だったかな、と彼を待たせる時間を計りながら奏瀬は洗面所に向かう。歯磨きと明日着る服の支度で十分はもたせられるだろう。
しゃこしゃこと歯を磨きながらベッドを見やると、真一文字に唇を引き結んだニコが膝の上でぎゅっと拳を握っている。
ぶは、と思わず泡を吹き出し、たまらず水でうがいをした。
「? 大丈夫ですか、タチアナ」
耳の良いニコが敏くそれを聞きつけて声をかけてきたが、奏瀬は軽く手を振ってそれをやり過ごす。
ゆっくりとした動作で歯磨きを終えた彼女は、眉根を寄せてじっと耐えるニコを横目にクローゼットの中身を物色し始める。
大体決め終わったところで彼を振り返るとぷるぷると全身を震わせているニコと目が合った。瞳にうっすら涙が滲んでいるのは気のせいか。
「……もういいんじゃない?」
「でも、あと七秒で十分なんですぅ……」
「じゃ、それまで頑張れ」
「はいぃ、あ、十分!」
ばったりと倒れ伏し足の痺れに悶絶しているニコを奥に詰め、奏瀬は電気を消してベッドに潜り込んだ。
「あああタチアナ、脛蹴るなんて酷いです! ぎゃああいたいいたい」
「あんた図体でかいからしょうがないの。お腹空いたんじゃなかったっけ?」
「正直足の痺れの方がきついです……あぅううううぅ」
彼が騒いでいる間に奏瀬はパジャマのボタンをひとつ外し、仰向けになる。
やがて痺れが取れてきたのかそれとも空腹がまさったのか、ニコがそっと顔を寄せてきた。
「タチアナは意地悪だ」
「ニコはちょっとヘタレよね」
ヘタレ?と聞き返してくるニコに意味はそのうち教えてあげると返し、奏瀬は目を瞑った。
その首筋をニコの唇がそっと這う。僅かに揺れた肩を骨ばった手が優しく押さえ、彼は奏瀬の柔らかな肌に歯を立てる。
「おやすみ、タチアナ」
「……おやすみ、ニコラス」
ぷつりと肌が切られ、血を吸われる感触に呼び覚まされたかのように、圧倒的な睡魔が奏瀬の意識を包み込む。


ニコラスはいわゆる吸血鬼だ。それも人々が想像するような、典型的な。
日光に焼き滅ぼされるわけでも十字架やにんにくが苦手なわけでもないが、ひとの血でもってその命を繋ぐ、強靭な肉体と長い寿命をもつ生きものだ。
彼に血を吸われることはけして苦痛ではない。
血をもらうだけでも申し訳ないのにその上痛い目に合わせるなんて可哀想だとはニコ本人の言であるが、おそらくは獲物に抵抗されないようにという本能の仕業であろう。肌を噛み切られ血を奪われる代価に与えられるのは痛みではなくうっとりとするような快感であった。
しかし、奏瀬に与えられたものは不思議なことにそのような快楽ではなく深い眠りであった。
不眠症に悩まされていた奏瀬と、彷徨する生活に疲れ果てていた吸血鬼の利害は一致し、奏瀬は献血感覚で彼に血を与え、その代わりにニコは質の良い睡眠を彼女に提供するという風変わりな契約がなされた。

ゆらゆら波間に漂うように眠りに落ちていく奏瀬の髪をそっと撫で、ニコラスは口の端に零れた血を舌で舐め取り、至極満足げな微笑を浮かべた。


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なんていうか物語の中の吸血鬼ってどうしてこうもゆきずりなのかしら、何人かと契約して定期的に血をもらえるようにしたほうが賢くない?と吸血鬼に突っ込む娘さんとうーんそうだねえと困ってる吸血鬼という図が思い浮かんだので文章にしてみたらこんなんなりました。
吸血鬼っていったら冷酷美青年よね!と考えていたんですが、なんか、うん、台無しだ……。
奏瀬がタチアナと呼ばれているのにも理由はあるんですが書けなかったのできちんと短編に仕上げたい。
written by MitukiHome
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