今日は、母校・上中里幼稚園の運動会。 こどもたちの屈託のない笑顔はなにものにも代え難い。 園の行事には、光栄にも来賓として何度か招かれているが、ほんとにほのぼのとした気分になる。 スピーチをさせてもらっても、素直な反応があって嬉しくなる。
この子たちをみていると、最近の少年犯罪の増加や、情緒不安定児が増えているのは、どこか別の世界の話に思えてならない。
・・・この子たちの今後の教育になにか歪みがあるということなのだろか。
小学校・中学校の教育にも問題があるのだろうし、家庭の問題もあるだろう。 それ以前に、教育は政府の、この国の鑑だ。
こどもたちは夢を持てないでいる。また、モラルの崩壊も著しい。親も教師も、躾に対して自信を失っている。そして、こどもを恐れてすらいる。 この国を束ねるなにかが、明らかに失われてしまった証拠だ。
だからといって、先祖返りして、教師に権威を与えてみても解決にはならないだろう。 父権の復活を叫んでみたところでも、虚しいだけだ。 なぜなら、権威の裏付けがなにもないからだ。 手品ではないのだから、確固たるパワーがないところに権威など生まれようがない。
工業社会として成熟した日本は、国家として夢を見る段階をすでに越えているのだと思う。 国家レベルで、工業社会日本が立ちゆかなくなっていることと、社会の構成単位、例えば家族であったり、日本型会社組織といったものが機能しなくなっていることとは、パラレルの関係にある。
日本の次の段階は、高付加価値産業、サービス産業、知識産業を主とした、個々人の能力やアイデアに依存する分散型の社会になるだろう。 そこにおいては、国家が全体を束ねる発想ではなく、国家は個々人の能力を引き出し、それを活かすための大器となるべきだ。
なにも全てのひとが同じ夢を見る必要はない。それぞれに異なった夢であっても、全てのひとが夢を見られる社会であるべきだ。 この国にダイナミズムが甦り、躍動感のある社会となることを目指したい。
躍動感は国家にベクトルを与え、新たなモラルを形成する。それは、あたかも指揮者のいないオーケストラのように、自然と一定の方向へと収斂されるだろう。 全てのひとが夢を見られる社会、という前提を共有することにおいて、それが逆説的に国民を束ねる価値規範になるだろう。
こどもたちが元気に走る姿を見ながら、この子たちの未来と、この国の未来のあり方をぼんやりと考えていた。
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