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2002年08月15日(木) 靖国神社問題を考える

きょうは靖国神社の参拝に行ってきた。
毎年恒例、TOKYO自民党青年部の行事だ。
終戦記念日ということもあって、早朝にもかかわらず、多くのひとたちが参拝に来ていた。
参道手前の大通りでは、右翼団体の街宣車が大挙して押しかけている。そして、いつも通りに、機動隊の方々とあちこちで小競り合いをしている。炎天下のなか、ご苦労なことだと思う。
参道を進み、境内に入ると、重々しい雰囲気になる。老齢の参拝者の一様な表情が、そんな気分にさせるのだろう。この雰囲気の中にいると、この季節の強い日差しが、どっと重くのしかかるような感じさえする。
57年前のきょうこの日も、暑い日だったのだろうか。

ここ最近は恒例の感もあるが、靖国問題が熱い。
いつもながらに思うのだが、この問題になると、思考停止になるひとのなんと多いことか。
なんで、靖国神社を参拝すると、即座に軍国主義者だなんだ、と言われるのか。
同様に、なんで、靖国神社が、当然に日本軍国主義化の象徴とされなければならないのか。
さらに高じて、靖国神社を解体せよ、という意見も依然として根強い。

この国の悪い癖というのか、“象徴”を解体することにばかり目がいきがちに思える。
わたしは、この象徴攻撃は、たしかに、一見すると非常に分かりやすいが、百害あって一利なしだと考える。
象徴というのは、なにかの“結果”として、そう呼ばれるものであって、そのなにか“そのもの”ではないからだ。
靖国問題を例にすれば、靖国神社を問題にする意見は、靖国神社というスクリーンから透けて見える軍国主義(なるもの)を解体したいのであって、靖国神社自体を解体したいのではないだろう。

スクリーン(象徴)を相手に独り相撲をしているような議論は、傍目に分かりやすいものであるだけに危険だ。
議論すべき対象を見誤るからである。象徴の解体に熱心になるあまり、それで満足してしまって、象徴から透けて見える本質部分を議論する機会を逸してしまうからだ。
対象が誤っていれば、当然、まともな分析もできないし、議論も成り立たない。
靖国神社をめぐる議論が、堂々巡り、あるいはすれ違っている感があるのはそのせいだろうと、わたしは見ている。

はっきりと言おう、靖国神社が象徴するものは一つではない。
靖国神社になにを見るかは、ひとそれぞれだ。
既述の通り、軍国主義をみるひともいるだろうし、古き良き日本への憧憬をみるひともいるだろう。
とどのつまり、靖国神社は、思想信条の交差点、あるいは議論の“場”であって、解体・保護の対象ではないはずだ。
この観点から、分祠施設建設計画は愚の骨頂と言わざるをえない。ただ単に、問題の先送りにすぎないからだ。
靖国問題を横断する本質部分への言及がなされない限り、同問題は繰り返されるだろう。
それぞれのひとが、解体したいもの、守りたいものがなんであるのかを明らかにした上で議論をしなければ、時間の無駄だし、不毛だ。

終戦記念日にあって、靖国神社になにを見るか。改めて省察してみるのも良いのではないかと思う。
この作業は、この国の戦後史への総括を促すだろうから。


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