
昨夜、友達とごはんを食べていたとき、「友達で、最近、宗教にはまりそうになっている人がいるんだけど〜」というネタを振られたときに思い出した文を、以下、
『遊学〈1〉』松岡正剛著より、引用しメモ化。
まず、念のため書いておきますと、私は「宗教」という思想体系を否定をするつもりは毛頭ありませんし、また、“ある種の人たちにとっては”救いになるとも思っている。
が、その一方で、宗教とは「概念にしがみついた煩悩」の基である、と思わずにはいられないんですよね、ふむ。。というのも、宗教にはまっていく人たちの話を聞くたびに、「何故この人は“本来、自由である世界”に“神という不自由な絶対者を設定する”必要があるのか?」と考えずにはいられないんですよね、ふむ。
宗教を宗教たらしめている“枠組み”である「神の設定」こそが、“ある種の人たち”(宗教という枠組みの中で生きていくことを志向する人たち、と言い換えてOKOK。)を、「概念にしがみついた煩悩」へと、「不自由な世界」へと、導いているように思われるのであります、はい。
ということで以下、
『遊学〈1〉』松岡正剛著( p34−37)より引用。
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(略)エピクロスにはデモクリトスの原子論をはるかに凌駕する激越で明晰な自然学がある。それは極上の自然学でもあった。エピクロスは、たとえ自然学が説明したカラクリ以外のある“ゆれかた”で彼の知覚に入ってきた事象があったとしても、単にそのことで心の平静(アタラクシア)が妨げられるものではないことを、一再ならず主張した。
それはまた「概念からの自由」をも意味するものでなくてはならなかった。さんざん悪戦苦闘した挙句やっとたどりついたひとつの概念によって、自分は解放されるはずであったにもかかわらず、逆にそのたったふとつの概念によって自縄自縛されてしまう体験というものがあるのだが、エピクロスは、そんな「概念にしがみついた煩悩」を許さなかった。
そもそもわれわれが“重く”なるのは、みだりに超越者を想定することに由来する。自然の意思や神の意思がわれわれのあずかり知らぬ軌道において全権を発揮していると考えることは、とどのつまりは自分もその意思の一部分を担おうとする自己拘束を生む。
多くの哲学や科学はこのように自縄自縛をいったんつくった上で、これを克服しようとばかりしてきた。ところが、そもそも自然も神もずっと気まぐれであったのだし、われわれの感覚といつでも自由交換できる浮気物であったのだ。
銀河中心で運動している一個の恒星の奇跡を見ればわかるように、星々は楕円軌道はおろか、どのような定型的なループをも描いていない。地球は楕円軌道をもっているというけれど、それは太陽に対して楕円的であるだけであって、その太陽も回り、太陽も含んだ銀河系も一億か二億光年をかけて回転しているのだから、地球は宇宙のどこかから見物すれば甚だ無軌道だということになる。他方、極微では、クォークはフレーバーやチャームの特徴を発揮して、ひたすらにストレンジネスを見せている。
自然、物体、事物、人間、そして素粒子ですらもがすべからく気まぐれの只中で自由を享受しているのがこの世界なのである。われわれはしょせん、その自由粒子の集合の上にゆらめいている存在なのだ。
おそらく、意識や心や魂でさえもが“気まぐれ粒子”から構成されているに違いなく、いってみれば全身に分布しているそんな「はぐれもの」たちが何かの事情で外側の事物とつるんでわれわれの感覚を形成している、とも考えられるほどなのだ。
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