銀の鎧細工通信
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2009年05月09日(土) 030:黒い海に埋もれながら (シドジロ、歪んだあなたへの100題。お題050とちょっと続いてます)

 
 ふと思い出すものは、故郷の海。
 冬場は晴れることはほとんどなく、重苦しい曇天か雨か霙か雪か。洗濯物はいわずもがな、布団なぞ表に干せるわけもない。布団乾燥機という家電製品の熱烈な歓迎ぶりは推して知るべし、だ。
 何から何までウェットでグレーがかった色彩におし包まれる冬。ニュースで「関東地方では乾燥注意報が」と耳にする度に不思議な気分になった。澄み渡る冬空の記憶など、幼心にもあまりない。その分、厚い雪雲の狭間から差し込む光は、なにか無性に鮮烈に残っている。いつかあれを「天子の梯子」と呼ぶのだと後輩から聞いた。

 「でも天使って羽があるんだし、梯子なんて要らないですよね」
 彼女が小首を傾げると、大学の図書館に来ていた詩人が、「奴らの降りてきた軌跡が光の筋になって見えるってことじゃないのかい」とだらしなくラウンジの椅子に痩躯を投げ出したままぞんざいに呟いた。
 「あれ、志度さんてばロマンチスト」
 「心外だね、お姫様。生憎俺はこう見えてロマンチストなんだ」
 志度がわざとらしくにたりと笑って見せると、マリアもにっこりした。こちらは屈託のないまさしく天使のような微笑だったが。
 「あの光が海面に写ってる場所で、泳いでみたらどんな感じやろうと思ってた頃はあったな」
 時たま、重く凪ぎ鈍く銀色に光る膜で覆われた海に、スポットライトのようにぽかりと光のあたるのを見た。
 「生憎俺はロマンチストやないけども」
 云い添えると、そうかなあとマリアがくすくす笑った。


 その後下宿に戻る道すがら、詩人が「あれは事実だったんだな」とおもむろに口を開いた。
 「何が」
 「海辺で生まれた人の匂い、って先生が云ってたこと」
 詩人は無表情だ。こちらを見ようともしない。
 「ああ、生まれは宮津です」
 「宮津・・・?宮津、宮津、天橋立か、日本三景」
 「そう」
 志度がなんとなくの流れで下宿に居つくようになり、俺の口調もなんとなくくだけてきていた頃のことだ。
 そういえばマリアも志度も東京の生まれやったな、と思ったことを覚えている。特に志度は山寄りの起伏の多い土地の出だという。「名前の通り梅は多いが、そもそもそれ以前に木ばっかりだ、木しかない」とは彼の弁。海が遠い場所に育った人間が故に、海を身側に感じながら育った者の言葉に反応できるのだろう。
 

 
 ぎし、と軋みをあげつつドアが開く。
 「やあ、ご機嫌いかが」
 重そうなビニルの袋をがさがさいわせているのを見ると、なにか旨いものでも作る気なのだ。志度の作るものは大概美味しい。ただ作っている最中に機嫌が悪くならなければ、だ。心境の急降下は主に本人の問題で、不味いものを作ってしまって不愉快がるのも志度自身だ。なので江神は彼の様子を特に気にせず、文句も云わずに珍奇極まりない味付けのなされた炒め物なぞを食べる。
 「普通や」
 「そいつは結構」
 窓枠にもたれて煙草を呑んでいる江神にちらりと一瞬探るような目を向け、志度は流しの下の床に袋を置く。
 意図を露骨に表わしながら振舞う志度の癖は、ねじくれた素直さと呼べる類のものだ。さりげない、という言葉とおよそ縁遠い男。自分の行動の意図を過剰に示すのは、おそらく単にさびしがりなのだろう。
 対して江神は、その真逆だ。行動のきっかけとなる情動や意志を明け透けに出すことはまずない。感情すらも。
 「アリスガワ君に会った。呆けきっちまってる先輩を心配してたよ」
 「さっきまで来とった」
 流しに出しっぱなしのカップを見て、「ああ」と詩人は肯いた。
 思い詰めていたのは解っている。心配も、気遣いも。それでもそれらがもたらす罪悪感を江神は表に出さない。気にするな、という慰めなら口でも態度でも示すけれど、おそらくそれはアリスには気休めにもならないのだろうと解っている。云ったところで何にもならない、あえかな嘘。
 「『ピエロ・リュネール』について訊かれたろ」
 詩人は愉快気に意地の悪い笑みを浮べる。訊かれた、と江神が答えればげらげら笑った。
 「人を気にかけてる奴を、あんまり心配させるもんじゃないな」
 志度は引き取り手であった親戚にたまに手紙を書いている。その言葉には自戒もこもっていたが、おそらくはアリスの心配を煽るようなことを口にしたことを示している。
 「そうやな」
 思えば思うほど、江神の中であの黒い波のうねりは現実感をなくした。寄せては返し、返しては寄せる、その残響。真っ暗な部屋にいつまでも尾を引いて響き渡る海鳴り。潮騒、遠雷、途切れることなく海の上をはるか統べる厚い雲、兄の声。逃げることなどできないと思ったのだ。それは母の言葉どおりに死ぬということからではなく。
 江神は瞼を閉じた。唸りを上げる強い風、雪だまりを蹴散らすように白く飛び散る波。
 (云える筈もない。或いは、まるで罪のない言葉のように他愛なく口にすればよかったのか?占いなどは信じていないし、死ぬつもりもない、と。
 それだけで救われるのだろうか?アリスも、マリアも。俺も?)
 向けられる優しい想いは鈴のようなものだった。江神の存在を、在る場所にそっと繋ぎとめ、明らかにしてくれる。もし江神が道に迷ったのなら、その音を辿って走って迎えに来るのだろう。泣き出しそうな顔をして、若しくは満面に花のような笑顔を浮べて。彼らは、いつだって江神に「ここにいてくださいね」と切実に訴えかけてきていた。大切に想うものが、もう損なわれてしまわないように、と。
 (その鈴を握りこんで、ぐずぐずと突っ立ったままでいる)
 探さないでくれ、俺のことに煩わされないでくれ、そう思うことも傲慢だ、と江神は思った。頭から離れないことなら、誰にだってひとつやふたつやあるだろうというのに。こうして立ち止まったままでいることが、現実への復讐というのならその通りだろう、とも。
 ぽかりと瞼を開くと、骨と筋で構成された志度の腕が俎板の上で何かを刻んでいる。ほの暗い簡素な台所で、ちらちらとおぼろに光る、刃物。黒い海の上で、鈍い銀色に輝くあの光のような。
 江神はそれをぼんやりと眺め、数度瞬きをした。立ち上がり、大股に数歩歩いてするりと詩人の肩口に腕を回す。顔を埋めた首筋からは江神にも染み付いている煙草の匂いがした。
 「飢えに耐えられないんなら、俺を食うよりこっちにした方がいいな」
 江神の振舞いに何も頓着していないという風なあっさりとした口調で志度は云うと、ひょいとグリーンアスパラをつまんで振り返らないまま差し出した。 
 「ちゃうけど、そうする」
 江神が相槌を打ってそれに噛り付く。志度の指先からそのまま食べていると、「俺は、あんたのその頑丈そうな顎が結構好きだ」と声が降ってくる。ふうんとも、うんともつかない声で江神は応える。
 何も許容しない。何も受け入れない。何も許さない。人のことなどお構いなしに、ただそこに轟然と存在する。数多の雪雲をのみこんで。そんな圧倒的な黒い海の近くに江神は在った。
 (この人も、似たようなもんや)





 (なんて、やっぱり俺も案外ロマンチストなんかも知れん。なあ、マリア・・・?)











 俺は、たぶん、きっと死なないだろう。
 平坂まで泣いて追いかけられたらたまらん。
 鈴付きじゃ、こっそり出向くこともかなわんやろ。
 「ここにおるよ」「もうどこへも行かんよ」。そう、云ってやれたらよかったんやろな。せやけど、云わんでも、大丈夫や。何事もなかったように、しゃあしゃあと戻るよ。












END


明るい他愛ない話が書きたかったのに、これ明るくないですよね?
ほんとは志度さんに「あんまり可愛い後輩に心配かけるもんじゃないと思う」くらいの説教垂れてもらおうかと思ったんだけど、違いました。そんなこと云わないわ、あの人。
書いてて思ったのは、(うちの)江神さんは、本当に、全く、つくづくアリスやマリアたちが好きだってことでした。
だーら、あれよね。うちのアリ江アリって、アリス→江神さんでアリス←江神さんなんだわ。両想いなのに片想い。
志度江はー・・・ラヴい感じじゃないけど、確かにラヴ、みたいな。
そろそろ江神さんの呪いから離れた、他愛ない日常ものが書きたい・・・!でも微妙に薄暗くなると思う。もうそれは仕様だからしゃあない。

イメージは鬼束ちひろの「everyhome」。

 
 


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