銀の鎧細工通信
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2009年05月04日(月) 050:崩れ落ちる栄光の証 (シドジロ←アリス 歪んだあなたへの100題)

 呪いの刻限が迫ってきていた。

 江神さんは傍目にもあからさまに痩せこけ、穏やかな湖のようだった目からは静かに輝く月のような光が消えた。目の前で話していても、どこか夢うつつのあわいを覗き込んでいるような、そんな目をして微笑んでいた。どこか狂気にも似たそれ。
 家からはあまり出ず、本すらあまり読まないでいるらしい。ただぼんやりと窓外を眺めている。それも具体的な何かではなく、空の只中にでもある虚空を。と詩人はいつものようにぶっきらぼうな口調でそう云った。彼はいつだってそう話す。今に始まったことではない。
 なのに、なのに彼のことについても同様に放たれる言葉は、刃となって僕に突き刺さった。
「あなたが、そんなこと云ってる場合やないでしょう」
 声が震えた。みっともない、と思った。しかし許せなかった。
 ある日唐突に現れ、そのまま彼のところに居座った。個人的な空間を(精神的な面も含めて)あんなにもやんわりと頑迷に、いつもぎりぎりのところで必死に自制を重ねて重ねて守っていた彼の領域を冒した。踏み込んで、一体どれだけ外連味たっぷりの明け透けな遣り口で、あの人を暴き立てたのだろう。詩人自身をも傷付ける諸刃のような言葉で、不要なまでに暴き晒し、彼もろとも血を流したのだろう。したたり流れ落ちた血を混ぜ合わせて突きつけるような真似を?鋭いほどによく光るその目で、彼の中を覗きこんで頸や四肢や髪をひっつかんで引きずり落とそうとした?何度笑った?思考の陰をくすぐりあって。
 「善人面を引っさげてもってまわった皮肉に痛みいるよ。じゃあ何かい、アリスガワ君。
 君は俺ならあいつをどうにかできると思ってるってことなんだな?」
 「なっ・・・!」
 詩人は勘違いをしている。僕のこれは善人面ではない。ただ僕は、江神さんが大事なだけなのだ。
 江神さんのことだから云ってるまでだ。そしてもうひとつ、あなたになら何かできるだなんて、思ってやしないってことだ。少しも。あんたには、江神さんをどうこうすることなど、できやしない。
 それは、僕にも、だ。

 ふん
 
 詩人が、絶句して睨みつけている僕を視線で一掃きし、顎をあげて笑った。
 この詩人にはとてつもなく笑顔のバリエーションが多い。怒り、侮蔑、嘲笑、冷笑、威圧、自嘲の振り、憐憫、労り、無感動、愛着、奔放、純粋、悪魔的なまでに感情の機微を笑い一つで表現できた。その代わり、他の表情のバリエーションは少ない。今のは、ものすごく嫌なやり方の笑いだった。
 「ほら見ろ。俺が何かしてやれるだなんて、蚤の糞ほども思っちゃいないんだろう?なのに随分と卑怯な云い方をするな。俺があいつをどうにかしようと必死に吠え面かいて、あっさり徒労に終わるのを嘲笑いたいのかい?その笑いは、君にも跳ね返ってくると判っていながら。ふ、はは、ははは!大した崇拝ぶりだ。至上の不在が怖いんだな」
 「僕の分析をどうも。あなたは怖くないんですか」
 細い身体を折るようにして笑っていた詩人は、僕の問いに不自然なほどぴたりと笑いをおさめ、その姿勢のまま見上げて問い返して寄越した。
 「何が」
 「あの人がこんな風に壊れていくことが」
 「ふふ、文学的表現だ。君はペンで食っていけそうだ」
 「どうでしょうね、随分と安っぽい云い回しに思えますけど。で、どうなんですか」
 「怖いことなどないさ。俺には初めから白痴美に見えてた」
 露骨に眉を顰めた僕を、詩人は憐れむように気遣わしげに薄く口角を上げた。
 「あいつの好きなようにすればいい」
 そんなことは判っている。追いすがって引き止めたいのは僕だ。
 詩人にどうにかできるとは思っていないし、江神さん自身が誰かに何かされることを望んでいるのかも判らない。ただ、あの老賢者に迂闊極まりなく無遠慮に手を出したことは、この不遜な男が悔やめばいいと思った。
 
 「ケント伯に感情移入するタイプかい」
 
 「は?」
 唐突過ぎる。これも今に始まったことではない。
 「リア王」
 「ああ。いえ別に特別そう思ったことはないです」
 「ふうん」
 詩人は片眉を上げてから視線を外し、胸ポケットから煙草を取り出した。
 「それに、リア王は娘たちに放逐されたけど、江神さんはそうじゃないって思ってるんでしょう、あなたは。それともなんですか、自分がリアの道化だとでも云いたいんですか」
 「まさか」吐き出された煙の向こうで詩人は笑った。嗅ぎ慣れた匂いのするもやに隠され、その笑いが何を表していたのかが、見えない。
 「あいつに道化は要らないよ。あいつ自身が月に憑かれた道化なんだから」
 「なんですか、それ」
 「本人に訊けばいい」
 そう云うだけ云って、詩人は細長い足を蹴り出して去っていった。



 癪ではあったがすぐさま江神さんの下宿に行き、そのことを問うた。
 「ああ」と彼は笑って、長い指で一枚のCDを選び出した。年代ものではあるが、それなりの品であるコンポ本体はお下がりで、スピーカーは学館での拾いものだといつか教えてくれた。か細く引き攣れた女の歌声が響き出す。
 「これ、ピエロは最後にどうなるんですか」
 「ん?睡蓮の舟と、月光の舵で故郷に帰る・・・、」
 そこで江神さんははたと口をつぐみ、ぼんやりと空を眺めた。いったいあなたは、何処を見ている?
 「”そこで遠い日の懐かしい香りが彼を陶酔させる。愛と自由の下に帰り着く”やったかな・・・これは志度さんの解釈や」
 僕が忠誠を誓った相手に付き従って行く忠臣だって?冗談じゃない。
王も道化も去ってしまって、取り残されるだけなんじゃないか。だったら僕は、花などとはおこがましいけれどエリカや、ヒースそのものや、嵐でありたかった。ただついてゆき、見ているだけしかできないくらいなら。
 
 「何もいらない」
 
 「お次はリア王か?なんや忙しいな、アリス。レポートでも出てるんか」
 「課題といえば課題みたいなものです」
 そうか、がんばれよと云った後、江神さんはコーヒー飲むか、とゆらりと立ち上がった。
 もともとの体格が違うとはいえ、詩人に勝るとも劣らないほど線が細くなっている。そんな風にして、あなたはどこにいくつもりですか。まさか自分が狂気に飛び込めるとでも思ってるわけやないでしょう。

 「Nothing will come of nothing. Speak again.」
 湯を沸かしながら、江神さんが歌うように呟いた。そうして口笛を吹き始める。

 Speak again?
 何もいらない。だ。
 あなた以外は。








END



シドジロ前提のアリ→江・・・これがおそらく私の行き着いた地点・・・wwww
お題に関しては、設定は踏襲する場合もあればそうじゃない場合も想定しています。で、基本的には続きものではないです。
結論としては、病んでる学生アリスに萌える。見も蓋もなさ過ぎる。


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